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「サードプレイス」という解答 不登校やひきこもりのための居場所の価値

(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)

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助けになった「サードプレイス」

 

私は十代のほとんどの期間、「不登校」であり「ひきこもり」だった。

現在は仕事をしているが、たまに不登校に関するイベントへ行くことがある。

そのさい、私が経験者だとわかると、悩みをもつ親御さんから相談されることがある。

「子どもが学校に行かない」

「部屋から出ず、家族との会話もない」など、苦しさのこもった言葉が向けられる。

親子関係を模索するなかで、「どうすればいいのか」という迷いは強い。

当然、それぞれの人によって環境や関係性が違っており、一概に答えることはできない。

しかし解答の方向として、「子どもがサードプレイスを見つけること」というのは、それほど的外れにはならないのではないかと思う。

 

サードプレイス。

この言葉はアメリカの社会学者が提唱したもので、 「家か学校か」だけではない、心地よく過ごせる第三の居場所を表している。

 

人が社会的な生活を送るとすると、まず家があり、そこから学校や会社などに通うのがスタンダードといえる。

住む場所とお金を稼ぐための場所があれば、最低限の生活をしていくことはできる。

だが、家と職場だけを往復し、その場所以外の人たちと交流しない生活が、十分に豊かであるとは限らない。

喫茶店や飲み屋などのひいきの店や、図書館や美術館など、第三の居場所を楽しめた方が、より豊かな生活になりやすい。

コロナ禍によって、人の生活には「不要不急」のものがたくさんあると感じた人も多いだろう。

 

私自身の経験だが、学校に行かないと、親からは責められ、家にいても肩身が狭くなる。

学校に行くか行かないかの二択を「0か100か」のように考え、「学校に行かない自分は0点だ」と思っていた。

学校にも行けず、家にいても居心地が悪い。

また、十代の後半以降、部屋に閉じこもって過ごしている期間には、「ひきこもるか働くか」の二者択一しかないように思えた。 

「不登校支援」や「ひきこもり支援」でも、すぐに通学・通勤という行動の成果が求められる。

家という「0」の地点から、いきなり学校や会社という「100」の最終目的地が示されてしまい、とてもではないが動き出せなかった。

「0」の現状か「100」の結果かの、極端な考え方にさせられてしまう。

 

私には、そのどちらでもない中間的な場所が必要で、それも「サードプレイス」をキーワードにして説明できる。

 

私にとって日々の救いになったと思うのは、図書館であり美術館、そしてフリースクールだ。

フリースクールでは長い時間を過ごしても、自分の経済力や社会的な立場が問題にされなかった。

家や学校から非難し、プレッシャーに追い立てられない時間を過ごせることは、大きな慰めになっていた。

 

サードプレイスに通っていると、いつかは友人や仲間ができてくる。

親や兄弟のように、はっきりしたタテやヨコの関係ではない。

不思議な人との不思議な出会いによって、形容しがたいナナメの関係も生まれてくる。

 

趣味のつながりやスポーツの集まりなどは、多くの人が知るサードプレイスの例だ。

心地良い場所、心地良い関係性が、私の「0か100か」の二者択一の思考をやわらげてくれた。

 

サードプレイスが見つけられれば、「不登校」や「ひきこもり」は、少なくない当事者にとってこなしやすいものになるのではないかと思う。

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フリースクールの窮地

 

非常に残念なことに、フリースクールは民間の団体やNPOが運営しており、数が限られている。

持続が難しい要因の一つは、公的な助成金がほとんどなく、運営費を各家庭からの会費でまかなっているためだ。

安定した経営基盤がなければ、子どものための居場所を長く続けることは難しくなる。

特に今年のコロナ禍によって、全国各地のフリースクールは大打撃を受けた。

閉室によって会費収入が途絶えたため、存続の危機に見舞われた居場所もある。

 

以下に寄付を呼び掛けている団体を3か所だけ挙げるが、縁のある方は、ゆかりのある団体・地元地域の居場所への支援をご検討いただきたい。
大阪市北区の「フリースクールみなも」 http://fs-minamo.org/about/donation/
埼玉県越谷市の「りんごの木」 http://k-largo.org/?page_id=683
千葉県習志野市の「フリースクールネモ」 https://nponemo.net/2020/04/13/1296/

 

フリースクールは子ども・若者にとって人生を救うサードプレイスになりえる。

どうか多くの居場所が継続し、多様さをもって各地に広がってほしいと思う。

 

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「引き出し魔」は与えているのではなく奪っている

 

私にとって「家と学校」「家と職場」だけではない、第三の居場所が助けになった。

そこで出会った第三者、つまり思いを共有できる友人との出会いも、生きていくことを少しづつ楽にしてくれた。

 

私としては、「『ひきこもり』をどうすればいいか」という質問に対して、

社会的には「サードプレイスを多様にしてほしい」こと、

親子関係では「サードプレイスとのつながりを許してほしい」ことを伝えたい。

 

「不登校」や「ひきこもり」に対して、時に「無理やり外に出せばいい」という無理解な答えをいう人もいる。

だがこれは当事者の内実をまったく知らない人が思いつくことで、まず逆効果だといっていい。

 

無理やりであっても、閉じこもっている子どもを部屋から引き出せば、新たな場所とのつながりや関係性自体は生まれるだろう。

(たとえ強制収容所であっても、適応し成長する人は存在する。)

しかしそれは心地よい居場所を「与えて」おらず、サードプレイスにはならない。

むしろ強制的に外に出す「引き出し魔」は、家庭という最低限の居場所さえ「奪って」いる。

家という最後の居場所をも奪われた人は、その後の人生で致命的な傷を負ってしまうように思えてならない。

本当に子どもや「ひきこもり」のことを考えるなら、「奪う」ことでなく「与える」ことで関係を模索してほしい。

 

経済的な尺度だけでは計れない、心地良く過ごせる居場所と出会える社会は豊かだと思う。

困難な状況下の子どもに限らず、サードプレイスとのつながりは、あらゆる人にとって大切なものであるはずだ。

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参照 レイ・オルデンバーグ著『サードプレイス』忠平美幸訳 みすず書房 2013年/朝日新聞 2020.7.3夕刊「不登校の子の居場所 窮地」

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 執筆者 喜久井ヤシンきくい やしん)

1987年生まれ。8歳から20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

 

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