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「仕合せ」は「幸せ」のことではない 中島みゆき「糸」の歌詞に隠された本当の意味

(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)

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中島みゆきは、これまで627曲以上※1の作詞をしてきた。

そのうち、歌詞の中に「」という言葉が含まれている作品は11曲※2ある。

 

一例をあげると、以下のような楽曲がある。

 

ふたつの炎が同じ速さで燃えはしない

ひとつが哀しく燃え続けていても

ほどけるのように今 愛が終わってゆく

(「ふたつの炎」)

 

だってホラ 1日は いつの間にか過ぎてゆく

ギリギリのところで につかまって

細々と疑う 瞬間たちの羅列の中で

(「まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う」)

 

張りつめすぎた ギターの

夜更けに ひとりで そっと切れる

ねえ 切らないで なにか 答えて

(「ダイヤル117」)

 

中島みゆきが歌ってきた「糸」は脆(もろ)く、ほどけやすいものが多い。

失恋などによって、人とのつながりが「切れる」失意が表されている。

 

しかし、代表曲となった『糸』はそうではない。

「糸」のイメージで描かれるのは、人との「結びつき」を描いた肯定的な歌詞だ。

 

縦の糸はあなた 横の糸は私

織りなす布は いつか誰かの 

傷をかばうかもしれない

(「糸」)

 

あなたの「糸」とわたしの「糸」。

別々に生きてきた二人が、縁によってつながり、結ばれる。

関係がつむがれることで、かけがえのない「布」が織りなされる。

その布は、いつか誰かの傷口をかばい、あたためるかもしれない、と歌われる。

 

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 「糸」編の文字、「糸」のたとえ

 

歌詞に作用しているのは、直接的な「糸」のイメージだけではない。

「織りなす」などの文字そのものにも、「糸」の字形がふくまれている。

 

中島みゆきとの共演経験もある加藤登紀子は、「二本の糸」という自作をめぐり、以下のように語っている。

 

「縁」という字は糸偏だ。

人と人を「結ぶ」も糸偏。家族の「絆」も「約束」も。

糸は、縫い合わせることも、編み上げることも、織ることも出来る。

網も、綱も、強いけれど柔らかくて、形が自由に変化する。

人と人の関係は、糸が決め手。人間関係でがんじがらめっていうけれど、決して石で固めたり、鉄でつないだりはしていない。柔らかな「糸」だということを忘れないでいたい。

(加藤登紀子「自分からの人生」)

 

漢字圏の人間にとって、糸偏の文字は人とのつながりを連想を起こさせるものではないだろうか。

 

もっとも、人のたとえに「糸」が用いられる例は、西洋の文献にも発見できる。

19世紀の聖職者、ヘンリー・メルヴィルは、「人は自分のためだけに生きることはできない」と説き、以下のように語る。

 

無数の繊維が私たちをほかの人々とつないでいる。それらの繊維が交感の糸を成し、それに沿って私たちの行動は原因として伝わり、結果として返ってくる。

 

ここでは「交感の糸」という印象的な言葉で、つながりが語られている。

たとえ自分一人がどれだけ強い糸だったとしても、切れてしまえばそれでおわってしまう。

しかし人と人との「無数の繊維」が、生きていく力を真に強いものにする……そのような言葉ではないだろうか。

 

「布」を「織りもの」と読めば、他にも類似した表現が見つけられる。

民藝運動を起こした思想家、柳宗悦は、著書の『南無阿弥陀仏』のなかで、「糸ノ道 法(のり)の道」という詩の言葉を残している。

芸術的な織物の美はどこからくるのか、以下のように語った。

 

材料の特色、色調の潤い、様々な因はあろうが、その美しさを安泰なものにするのは、経と緯とが交わる法則に委ね切った道だからである。ここでは人間の我儘(わがまま)を、ぶしつけに出すことが封じられているのである。どんなことをしようと、法を外れれば、織は乱れてしまう。人が織りはするのだが、法の中で人が織るというに過ぎない。

 

人の手で織られる布の美しさは、人のエゴや自意識からかけ離れたところにある。

中島みゆきの「糸」で描かれる「布」のイメージをあてはめるなら、

相手のことを考えずに、自分勝手なわがままや、強いプライドをもったままでは、美しい「布」になることはない。

自分と相手とが相互に重なりあい、認めあうことで、はじめてかけがえのない「布」がつむがれる。

一本の孤独な「糸」のままではなく、人との縁がつむがれることで、誰かの傷をかばい、あたためるかもしれない「布」が織られる。

 

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「仕合せ」は「幸せ」とはかぎらない

 

『糸』の最後は、「仕合せ」という言葉でしめくくられる。

 

縦の糸はあなた 横の糸は私

逢うべき糸に 出逢えることを

人は 仕合せと呼びます

(「糸」)

 

一見すると、人との「出逢い」によって、「しあわせ」=幸福がおとずれる、というふうに読むこともできる。

しかし表記は「幸せ」ではなく「仕合せ」だ。

 

「しあわせ」はかつて「しあはせ」と表記したが、

『岩波古語辞典』によれば、その定義は『めぐりあわせること。運。善悪いずれについてもいう』とある。

 

良いことか悪いことかをとわず、あらゆるめぐりあわせを「しあはせ」といった。

 

「幸せ」でなく「仕合せ」と語るこの曲の深さに、私は中島みゆきのもう一つの代表曲、『時代』を連想する。

サビの一節は、覚えやすいメロディーとともに有名だ。

 

(1番)

まわるまわるよ 時代はまわる

喜び悲しみくり返し

(2番)

めぐるめぐるよ時代はめぐる

別れと出会いをくり返し

 

この歌詞も、一見したところでは、「幸せ」になることを歌っているように読めなくもない。

 

しかし、もし『時代』をポップスらしい明るい曲にするとしたら、

「悲しみのあとには喜びがくる」、「別れのあとには出会いがある」といった作詞をしないだろうか。

 

 

流し読みをすると見逃してしまいそうになるが、『時代』に「悲しみは過ぎていく」という励ましは歌われていない。

『時代』においては、悲しみだけではなく、喜びも過ぎていくものだ。

この曲の歌詞は1番が「喜び悲しみくり返し」、2番が「別れと出会いをくり返し」であり、「喜び」も「出会い」もいつかは去っていき、「悲しみ」も「別れ」も、ふたたびめぐってくるものとして描かれている。

 

時代がめぐることで、「別れのあとに出逢いがある」という楽観的な歌詞なら、もっと明るい曲になるだろう。

しかし中島みゆきがつづったのは、時代がめぐることで「別れと出逢いを」くり返す、という歌詞だ。

悲しい別れだけではなく、喜びのある出逢いもまた過ぎ去っていく。

良いことも悪いこともすべてがまわり、くり返すものとしてとらえられている。

 

『時代』は、「悲しみ」が過ぎ去っていく「幸せ」を描いたのではなく、時代のまわる「しあはせ」そのものを歌った曲だといえるのではないか。

 

達観的な思念によってつづられた歌詞の深さが、中島みゆきを凡百のJ-POPとは別格の歌い手にしているように思う。

 

 

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最後に 「糸」とはどのような曲か

 

私が『糸』の歌詞を読み、曲を聞くときには、以下のような景色がうかびあがってくる。

 

糸屑はささいな風にも吹き飛ばされ、か細くもろい一本の糸は断ち切れてしまう。

しかし、一筋の糸が長くのび、結びつくことで、人は希望をつかむように、一命をとりとめる。

人と人との縁が、大きな「布」を織りなし、めぐりあう「仕合せ」をつむいでいく。

風に吹かれていた「糸」も、風に強く張る帆となって、海を行く人生の舟を、力強く進ませる。

織りなされた「布」は、自分一人だけではなく、やがては誰かの傷をかばい、あたためうるかもしれない――。

 

そのような縁の物語が、私にとっての『糸』だ。

中島みゆきの希代の一曲を、今一度聞き直してみてはいかがだろうか。

 

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※1 627曲以上……1975年から2015年までに出版された『全歌集』の収録作が590点。2016年以降に発表された作品数が最少でも37点。「夜会Vo.20 リトル・トーキョー」で作品数が未決定の楽曲、および提供曲版とセルフカバー版で歌詞の一部が違う作品、また詩篇のみ発表された作品は数に含めていない。

※2 歌詞に「糸」が含まれている11曲……あり、か/糸/おとぎばなし/黄色い犬/ダイヤル117/た・わ・わ/天使の階段/倒木の敗者復活戦/陽紡ぎ唄/ふたつの炎/まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う

  参照
 中島みゆき研究所 http://miyuki-lab.jp/ /『中島みゆき全歌集』朝日新聞社 1986年『中島みゆき全歌集 1987-2003』朝日文新聞出版 2015年『中島みゆき全歌集 2004-2015』朝日新聞出版 2015年

 

 

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執筆者 喜久井ヤシンきくい やしん)
1987年生まれ。8歳から20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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