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【ひきこもりと地方】「学校は緩い監獄でした」福島県郡山市のひきこもり当事者・ともやんさんインタビュー第1回

2020年1月。福島県郡山市にて「大人のひきこもりの話を聞く日 中高年・長期ひきこもりについて考える」と題したイベントが行われました。

郡山市スモールスタート支援事業の後押しを得てこのイベントを企画したのが、中高年(40歳以上)ひきこもり当事者、ともやんさん。

イベントを企画した経験や、当事者団体を主宰した経験もなかったともやんさんがイベント開催にこぎつけるまで。そして地方でのひきこもり生活についてお話を伺いました。

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ともやんさん(左から2番目)写真・写道家朔丸
 
文:ともやん
文・編集:尾崎すずほ
監修:ぼそっと池井多
 

尾崎 ともやんさんの、今までのライフストーリーを教えていただけますか。

ともやん 13歳のときに不登校になり、19歳から精神科の作業療法に通うまでの期間、ひきこもっていました。といっても家から一歩も出ない状態ではなく、病院や学校行事には出かけていましたし、不定期に友達にも会っていました。

作業療法に通うようになってからは、定期的に外出ができるようになり、その後デイケアが創設されたので週5日通いました。外に安心できる場所ができたような感覚です。デイケアには、10年間お世話になりました。

尾崎 私も不登校が始まったのは、ともやんさんとだいたい同じ時期ですね。20歳頃ひきこもりはじめて成人式にも出なかったのですが、ともやんさんはどうでしたか。

ともやん 僕も成人式には出ていないです。ひきこもり状態になり、作業療法に通っている間に過ぎていった感じですね。

尾崎 同級生と顔を合わせるのは気まずいですよね。その後はどう過ごされましたか。

ともやん 22歳からは、通信制高校に通い始めました。家を出ないと精神的にも良くないと思ったので、2年間一人暮らしを半ば強引にさせてもらって。

通信制高校は3年生まで行きましたが辛くなり、単位制高校に入り直して残りの単位を取得しました。高校卒業の資格を得たのは28歳です。

尾崎 一度は中退をしながらも、努力して高校を卒業されたのですね。

ともやん それはどうですかね(笑)。努力というよりも、何とか耐えながら通っていたんです。卒業後も、就職をしなきゃと思いながら生きてはいるのですが、実際に正社員として就職をした経験は一度もなくて。20代でいくつかのアルバイトをしましたが、半年持たずに人間関係に疲れて辞めてしまいました。

30代になってからは資格を取って自閉症など障がい児童の支援員をしながら、ダブルワークで働いていました。去年にその仕事も辞めて、現在は派遣で単発のアルバイトをしています。

 

目次

 

自分だけルールがわからない 

尾崎 ひきこもっていた頃の話をお伺いしたいのですが、不登校になった理由は何かありましたか?

ともやん いじめを目撃したり、軽いいじめにあったことはありますが、決定的ではありません。小学生の時はみんなが知っている校内のルールが、自分だけわからなくて。どうして、みんなわかるんだろうと思っていました。辛かったけれど親は行けと言うし、僕自身も辛くても学校には行かなければと考えていました。 

小学校は私立に通っていたのですが、そこから市立の中学校へ行きました。もともと、環境の変化に適応するのが得意ではなかったのですが、大きな変化に身も心もついていけずに不登校になりました。

尾崎 具体的には、どういった変化があったのでしょうか。

ともやん 小学校はミッション系の学校だったんです。そこから市立の中学校に進学したので、同じクラスに知り合いが一人もいませんでした。他のクラスメイトは小学校からの友達も一緒に進学した人が多かったので、ひやかされたんですよね。

もともと、目立つのが嫌だったので朝が本当に憂鬱だったのを覚えています。小学校の時は大人しくて真面目な子が周囲に多かったので、中学校はその点でも空気感が違いました。

尾崎 私も小学校は生徒数が少ない環境だったのですが、中学校は生徒数が多く荒れていてトラブルが絶えなかったので、環境の変化に適応できないという点では似ているかもしれないです。

ともやん そうですね。「環境の変化」と「適応」が鍵だったように思います。

尾崎 学校自体も時間で区切られていて、その間は同じ場所に座り続けなければならなかったり。行きたい時にトイレに行くことや、喉が渇いた時に水を飲む自由もなく、管理されているような違和感を私は感じていました。

当時は管理されているなんて意識はなかったので、漠然と「嫌だな」ぐらいの感覚ですが。授業の内容がわからなくても、わからないまま進んでいってしまいますし。それでも、その場に居続けなくてはならないのが苦痛だった記憶があります。

ともやん 50分授業なら50分、あのちょっと硬めの椅子に座っていなければならないのは本当にキツいですよね。よく我慢していたなと思います。大げさかもしれませんが、行きたくない自分にとって学校は緩い監獄でした

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通っていた中学校 写真・ともやん

学校へ戻るために治療をする

尾崎 不登校からひきこもっていた期間は、どのように過ごされていたのでしょうか。

ともやん テレビを見たりアニメのCDを聴いたりしていた記憶がありますが、起きている時間はずっと自分を責める考え事をして厭世観で物思いに耽っていました。

深夜に眠り、1日の半分は寝て過ごして。食事や身なりを整えることに無頓着だったので、だいぶ体をいじめてしまったと思います。病院では統合失調症と診断され、この不登校からひきこもりの時期はどんどん具合が悪くなる急性期でした。

尾崎 テレビを見たり寝て過ごしたりしていると「家で好きなことをしている」「楽をしている」と思われがちですが、そうではないですよね。

東京近辺では不登校の子どものためのフリースクールやフリースペース、ひきこもり当事者の居場所など複数ありますが、ともやんさんはそういった場所は利用されたのでしょうか。

ともやん フリースクールはありませんでしたね。僕がひきこもっていた90年代はまだまだ環境は整っていなくて。ましてや地方だと、当たり前のように学校に戻らなければならなかったし、そのために病院に行って治療をする以外道がありませんでした。

情報も、登校拒否の親の会ぐらいしかなくて。親の会って、やっぱり主役は親なんですよ。母親に何度か連れて行ってもらいましたが、子どもたちはほとんど来ないんです。子どもたちが主役になる機会がないので、将来こうなりたいとか、こういう生活にしたいという想像すらできませんでした。

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ひきこもり時期の自室 写真・ともやん

尾崎 そうなると、自宅で過ごすしかないですよね。選択肢がないのは、精神的にきつかったのではないでしょうか。

ともやん そうですね、きつかったです。不登校が始まった当初は基本的に家にいたのですが、ずっといると精神的に不安定になるので、たまに親戚の家に泊まりに行きました。

16歳の時に、登校拒否の親の会の方が個人的に家を開放してくださったので、不定期で遊びに行きました。その方のお子さんも不登校で、横の繋がりができてありがたかったです。

けれど、学びや活動の場は他にはなく、それ以外の選択肢は病院しかありませんでした。

尾崎 東京近辺ですと、そういった場所を利用するかどうかは別として、まず選択肢が複数あるように思います。その点でいうと、不登校やひきこもり当事者の居場所の少なさに関しては、地方はより深刻な状況なのでしょうね。

ともやん はい。この頃の、どんどん具合が悪くなる急性期の対応で、その後の人生が違ったのかなと思います。例えば東京のように通う場所があったら、人との出会いを通して自分を見つめなおす機会もあったのではないかと思うんです。それができなかったので、どうしてもひきこもりが長引いたとネガティブに思う部分もあって。

過去があったから今の自分があるんだと思えたらいいのですが、ひきこもり期間の答えをいまだに見つけられていないので、もどかしいです。けれど当時の親の知識、社会の情報、僕の親や他人への不信感を考えると、やはり不登校・ひきこもりの道しかなかったのかなとも思います。

居場所を求めていた

尾崎 精神科の作業療法に通い始めて、ひきこもり状態から徐々に外出ができるようになったのですね。

ともやん そうですね。作業療法は病院の先生から提案されたのですが、やることは何でもよくて。病院に体育館があったのでスポーツをしたり、作業室で手芸をしたり。当時は若かったので、身体を動かせるのが嬉しくてテニスばかりやっていました。それで定期的に外出ができるようになったんです。

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病院の駐車場から見える風景 写真・ともやん

尾崎 作業療法では、お話しできるような方もいたのですか。

ともやん はい。同世代の男の子が通っていたのですが、その子も不登校で、たまに会った時にアニメや共通の趣味の話しをしました。作業療法士の方も話しやすいのが通えた理由として大きかったです。

作業療法で出会った人が通信制高校に通っていたのですが、学校の情報を教えてもらい僕もその後通うようになりました。

尾崎 共通の趣味がある同世代の方と知り合えたのはよかったですね。高校に通いたいと思ったのは、勉強をしたい気持ちがあったからなのでしょうか。

ともやん 勉強をしたい気持ちもあったと思いますが、身体は元気だったので、張り合いを求めていました。行ける場所が増えたら嬉しいし、自分の居場所を求めていましたね。

通信制高校は月2回のスクーリングという教室での授業があるのですが、基本は自宅学習でレポートを書いて学校に提出する形式なのでハードルが低かったんです。

その頃には作業療法はなくなり、病院にデイケアが創設されまして。学校がない日はデイケアに通う生活をしていました。

一人暮らしで変わったこと

尾崎 一人暮らしをされていたのも、この頃ですか。家を出ないと精神的にも良くないと思ったと仰っていましたが。

ともやん そうです。学校に通いやすい場所に借りられるという名目で、アパートを借りてはじめての一人暮らしをしました。金銭的には親に全部出してもらっているので自立には結びついていませんが、実家にいると親に当たったり、日々自分を責めていたりしたので。

20歳を過ぎたら一人暮らしをするべきだといった、勝手な圧力も自分にかけていました。

尾崎 気持ち的には親御さんと離れて、楽になった部分はありましたか。

ともやん 一人暮らしを始めた当初はすごく楽しかったですよ。自分で選んだ知らない街に住めましたし。街を散策したり、好きなところで外食をしたり。とても開放感がありました。

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一人暮らしのアパートからの景色

写真・ともやん

尾崎 自分で選んで決めるって楽しいですよね。逆に大変だったり、辛かった部分はありましたか。

ともやん 一人暮らしそのものは大変ではありませんでした。でも、学校で嫌な出来事があったときに、それを誰にも話せなかったのが辛かったです。

尾崎 どんなことがあったのでしょうか。

ともやん 学校に期待をしていたんですよね。友達ができたり、恋人ができたりするんじゃないか、居場所みたいになるんじゃないかと希望を持っていたんです。周りはみんな若いけど、友達を作りたいなと思って頑張って生徒会にも入ったんですが、友達はできなくて。

3年通ったのですが傷つくことも多くなり、徐々に学校への情熱がなくなり、1年を残して通うのを辞めました。

尾崎 なるほど。今までもずっと居場所を求めてきましたもんね。周囲の方は若かったようですが、年齢差は感じていましたか。

ともやん 年齢差よりも、みんなと違う自分にすごくコンプレックスがありました。精神科の病院に通っていることも含めて、自分はどこかみんなと違うと折に触れて感じてしまうんです。自分は変なんだ、会話がおかしいだろうな、というコンプレックスがすごくて。

尾崎 会話をしても、うまくかみ合わないと感じていたのでしょうか。

ともやん それは当時もそうだし、今でもかなり感じています。盛り上がらない、打ち解けない、仲良くならないんです。

 

「ともやんさん 第2回」へつづく

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<プロフィール>

ともやん 福島県郡山市出身のひきこもり当事者。郡山市にて「大人のひきこもりの話を聞く日 中高年・長期ひきこもりについて考える」イベントを企画。

尾崎すずほ 東京出身の元ひきこもり。冊子版7号~9号/ WEB版【ひきこもりと地方】対談記事を執筆。ひきこもりUX女子会アベニュー運営スタッフ。

ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。

 

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