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「ひきこもり」には4種類ある! 実は意味がバラバラな「ひきこもり」の定義

(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)

 

「ひきこもり」の話題は、日々メディアに飛びかっていますしかし一口に「ひきこもり」といっても、言葉の使われ方はさまざまです。意味が異なるまま使っていては、誤解のもとになってしまうかもしれません。そこで今回は、「ひきこもり」の言葉を4つに分けて分析。当事者からの声をお届けします。

 

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「ひきこもり」の定義といったときに、おそらくもっとも有名なのは、厚生労働省が用いる定義でしょう。

厚労省の「ひきこもり」はこうです。

仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、 6ヶ月以上続けて自宅にひきこもっていること※1

病気や障害がある場合は、「ひきこもり」とは区別されます。

 

この定義を決定的にした本に、斎藤環さんの『社会的ひきこもり』(1998年)があります。

当時「引きこもり症候群」などといわれていた問題への対処法を解説し、ベストセラーになりました。

斎藤環さんの定義は、厚労省とほぼ同じ内容です。

 

六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの

 

発表当初は「二十代後半までに問題化」という一文があったのですが、2020年3月に出版された改訂版では削除されています。

2000年代までは「若者の問題」ととらえられていた「ひきこもり」が、現在では「8050問題」など、中高年世代も含めた課題になったためです。

気をつけねばなりませんが、これは「ひきこもり」全般を説明する定義ではありません。あくまで斉藤環さんが問題とした、「社会的ひきこもり」の定義として発表されたものです。※2

 

社会問題としての「ひきこもり」を外側から論じるなら、この定義でもいいのかもしれません。

しかし「ひきこもり」の言葉を使う一人ひとりのことを考えると、これだけではおさまらないことがわかります。

 

そもそも「ひきこもり」という言葉が、「引き」・「籠(こも)る」という古来からある日本語でできているため、かなり自由な使い方ができます。

「仕事が休みなので、今日は家にひきこもっている」、
「十年間、部屋から一歩も出ずにひきこもっている」、
さらには日本神話で、「アマテラスが岩戸にひきこもっている」など。

すべてに「ひきこもり」という言葉を使っても、間違いではありません。

 

「ひきこもり」には、少なくとも4つくらいの意味があると思ったほうがいいように思います。

ごくざっくりとしたものですが、個人的な分類では、以下のようになります。

(小難しい図になりますが、しばしお付き合いください。)  

 

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私の考える分類は、以下の4つです。

1 社会的「ひきこもり」
2 存在論的「ひきこもり」
3 文化的「ひきこもり」
4 通俗的「ひきこもり」

1の「社会的ひきこもり」は斎藤環さん、2の「存在論的ひきこもり」は思想家の芹沢俊介さんの語例を用いています。
その他の「ひきこもり」は、私個人の造語となります。

 

 1 社会的「ひきこもり」

Aの「社会的ひきこもり」はすでに紹介したもので、公的な定義として、行政などで用いられているものです。

 ある人が自分を「ひきこもり」だと思っていなくても、親や精神科医が「ひきこもり」として問題視することがあります。
客観的な判断によって「ひきこもり」とされる例が、「社会的ひきこもり」です。 


 2 存在論的「ひきこもり」

客観的な「ひきこもり」の判断に対して、「存在論的ひきこもり」は主観的な判断です。

外に出て働いている人だと、社会的には「ひきこもり」だといわれません。
しかしその人が「友達がいない」といった孤独を感じ、「自分はひきこもり」だと思うなら、「存在的ひきこもり」にあてはまります。

仮に、「すごく明るい性格で、毎日友達と飲み歩いている」という人だとしても、当人が自分を「ひきこもり」だと思うか、もしくは「ひきこもり」の課題に親和性を感じているなら、それは「存在的ひきこもり」でありえます。

特に2010年代以降、女性や中高年の「ひきこもり」の課題がとらえられたことで、言葉の用例は広がりました。
現代では、社会的・客観的な「ひきこもり」の定義とは関係なく、当人の認識によって、誰もが「ひきこもり」でありえるようになったのだと思います。

 

 3 文化的「ひきこもり」

 「文化的ひきこもり」は日本語の「引き」・「籠り」という意味の広さによって、「ひきこもり」の言葉にあてはまる例です。

さきほどのアマテラスの例や、哲学者のプラトン、仏教徒のだるま大使、文学者のプルーストなど、現代の目で歴史的な人物を見ると、「ひきこもりだった」といえるような例があります。

これらも「ひきこもり」の言葉にあてはまりますが、「8050問題」などを論じるときの「ひきこもり」とは、分けてしかるべきかと思います。

そのための「文化的ひきこもり」という分類です。

 

なお、「籠(こも)る」という漢字を使った言葉では、「籠居(ろうきょ)」「籠城(ろうじょう)」などがあります。これらは、特に否定的な意味で使われてきたわけではありません。
「年籠り(としごもり)」の習俗や、「居籠祭(いごもりさい)」という祭礼など、日本の「こもる」文化はとても豊かです。「ひきこもり」の言葉を、肯定的な意味合いで使うこともできるように思います。

 

 4 通俗的「ひきこもり」 

歴史のある「文化的ひきこもり」に対して、即時的・大衆的な要素の強い、通俗的な「ひきこもり」もあります。

これがもっともわかりやすいのは、ツイッターで「ひきこもり」と検索したときです。
ツイッターでは、シリアスな事例や真面目な「ひきこもり」論のツイートにまじって、気軽な表現がたくさん出てきます。
 (お時間があれば、一度やってみてください。)

「私はひきこもりだから友達が少ないww」といった自嘲的な言い方や、
「雨の日はおうちでひきこもり~」といった、たんなる在宅の表明などです。
なかには楽しんでいる画像つきのものや、ツイッター上での友達(フォロワー)とのやりとりもあり、深刻な「ひきこもり」の苦しさとは様子が違います。

気軽な表現は、90~2000年代にはできなかった言い方ではないでしょうか。※3
「ひきこもり」が重い犯罪のように見なされている社会では、冗談にできないためです。

似た例の言葉として、「オタク」があります。
かつての「オタク」は「犯罪者予備軍」とされ、批判的な意味合いが強くありました。しかし現在では外国で「OTAKU」の言葉も広まり、ポジティブな意味合いとなっています。
「私はオタクだからww」といった自嘲のように、「私はひきこもりだからww」という表現も、「ひきこもり」の言葉が世間に牧歌的な認知をされたために出てきたのではないでしょうか。

 

  おわりに 

 同じ言葉であっても、時代によって使われ方は変化していきます。
新型コロナウイルスの感染拡大以降では、「巣ごもり」「閉じこもり」といった言葉とともに、「ひきこもり」の言葉の質も変わったのではないでしょうか。

 私としては、厳密な意味を定めて、それに沿って「ひきこもり」という言葉を使っていくよりも、多様な意味をとらえ、受け入れながら「ひきこもり」を考えていくほうが、きめ細かな対応ができるように思います。

 「ひきこもり」の言葉が用いられたとき、どのような意味かを注意してみると、新たな発見があるかもしれません。

 

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※1 「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」(厚生労働省、平成 22 年5月19 日 公表 )を見ると、「様々な要因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就労、家庭外での交遊など)を回避し、原則的には6ヵ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)を指す現象概念」と定義されています。
 もっとも、市町村などで「ひきこもり」の統計調査をする際、設問に「6か月」などの期限を設けていない自治体もあります。調査の詳細を見ると、定義に対してわりとアバウトな調べ方をしているように思えます。

※2ひきこもり支援をおこなう田中俊英氏は、以下のように語っています。
『斎藤氏の作業は、ひきこもりの定義化というよりは、むしろ「社会的ひきこもりという新しい概念の定義化」といった方が正確だ。ひきこもりに「社会的」という言葉を付け加えた新たな概念を創出したことで、ひきこもりがもつややこしさはいったん整理された。この作業はとてもクリアでわかりやすく、筆者自身も支援の仕事をしていくうえで大いに助られた。』(田中俊英著『「ひきこもり」から家族を考える』 岩波書店 2008年)

※3 「ひきこもり」を一面的に批判する人も、通俗的な「ひきこもり」の使い方をしています。SNSなどで、「ひきこもりは怠け」「ひきこもりはダメ人間」といった、当事者を理解していない批判や、意図的に在宅で生活している人に対して、親などが「お前はひきこもりだ」と責める例がそうです。それらは客観性に欠けており、文化的でもなく、当事者的でもありません。批判者の主観と解釈によって生じる表現のため、「通俗的ひきこもり」の用例だと考えます。 

 

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 執筆者 喜久井ヤシンきくい やしん)

1987年生まれ。8歳から学校へ行かなくなり、20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。
 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

 

 

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