ひきこもりといえば、家族からケアを受ける存在。そんなイメージが根強くある中で、家族のケアを担ってきた当事者がいます。
今回は北海道札幌郊外の石狩市在住、女性ひきこもり経験者のり子さんにお話を伺いました。
目次
弟のケアが家族の最優先事項だった
ぼそっと のり子さんは、どんな環境で生まれ育ってこられましたか。
のり子 父は大学教授で、母は専業主婦でした。2歳上の姉、私、1歳下の弟の3人きょうだいで、弟が病気だったんですよね。先天性筋ジストロフィーの非福山型という珍しい型の病気で、病気が分かったのが生後間もなくでした。その事実が私の人生にどのような影響を与えたのかは、今でも分からないところがあります。
ただ、家族の中で弟の病気を「大変だ」「介助しなきゃ」「病院に行かなくちゃ」というのが、いつも優先されていましたね。常に最優先事項だった気がします。後で近所の人に聞いた話だと、私はいつも弟の世話をしているように見えたそうです。
尾崎 障害のある子の兄弟姉妹を「きょうだい児」と呼んだり、家族のケアを担っている子どもを「ヤングケアラー」と呼びますが、のり子さんはまさにそのような立場で育ってこられたのですね。
のり子 当時はそのような呼び方は広まっていなかったと思いますが、おそらくそれに該当すると思います。学生時代にたまたまきょうだい児について書かれた本を手にする機会があって、「ここに自分のことが書かれている」と驚いた記憶があります。
尾崎 私も弟に障害がある「きょうだい児」なんですよね。のり子さんとはSNSを通じて知り合ったのですが、「お互い、大変でしたね」と声をかけていただいたのが、とても印象に残っています。
のり子さんは、弟さんとどのような関わり方をされてきたのでしょうか。
のり子 私自身はあまりケアを担っている感覚はなかったのですが、例えば弟の車椅子を押したり、一緒にお菓子を食べている時に食べさせてあげたりしていました。あと絵を描いたりものを作るのが好きだったので、ダンボールを使っておもちゃを作ってあげたりしました。
小学生の頃、ミニ四駆が流行ったのですが、手を自由に動かせない弟の代わりに組み立ててあげたりしましたね。それらは自分にとって楽しいことだったので、苦に思うことはなかったのですが、多くのきょうだい児の方が抱えているような孤独や寂しさにはとても共感します。
弟とは歳が近いのでどうしても比べられたり、周りの人達に大事にされているのを見て羨ましく思っていました。
尾崎 なるほど。弟さんのケアが家族の中での最優先事項となると、他のきょうだいはどうしても、置いてけぼりにされたような寂しさを感じてしまいますよね。のり子さんは、幼少期はどのように過ごされていましたか。
のり子 住んでいたのは田舎でしたが、経済的に不自由はしていませんでした。父がお偉いさんらしいというのはうすうす気が付いていました。
幼稚園のころ同級生の親に「お父さん何してるの」と聞かれて「大学の先生」と素直に答えたら「えっ、すごいね」と、ちょっと引かれたんです。なので、うちの父は周りの環境からしたら、変わっているらしいと感じてました。その時点で不登園だったんですよ。「幼稚園行きたくない」って言って。
尾崎 幼稚園の頃のことなので覚えていないかもしれませんが、不登園になった理由は何かあったのでしょうか。
のり子 それが、実は明確に記憶があって、まだ小さいのに人間関係で悩んでいたんですよね。「子どもって残酷だな」と今でも感じているのですが、友達に仲間はずれにされたり、いじめのようなことが起こるとすぐに行きたくなくなりました。
両親とは毎朝バトルを繰り広げていました。親は家から引き剥がすように幼稚園に連れて行こうとするのですが、私は泣きながら抵抗していました。親がようやく諦めると、それから私はニコニコしてNHKの朝ドラを見たりして(笑)。それが毎日続きました。
弟は障害の関係で札幌の大きな幼稚園に通っていたので、それも羨ましくて。家から遠いので毎日通っていたわけではなかったんです。そこの園長先生が私のことを気にかけてくれて、遠足だけ弟と一緒に参加したりしました。
ぼそっと お母さんとお姉さんはどんな方でしたか。
のり子 母は、精神的な病気だったんです。姉は、幼い頃から母との関係で葛藤していたと思います。「長女だから」という思いもすごく強くて。大学入学で東京へ出て行ったので、それ以降のことはあまり詳しくは知りません。
ぼそっと それ以降、二度とお姉さんとは会っていない?
のり子 一時期、北海道へ帰ってきていた時期もあるんですが、私たちの関係はうまく行かなかったですね。弟と病気のことで揉めていたんです。私もそうなんですけど、遺伝子的に自分が産む子どもに病気があるかもしれないということで。それで、ほぼ断絶状態になりました。
弟はもう亡くなっているんですが、家族の中心人物でした。だから、弟とうまく行かなくなると、他の家族ともうまく行かなくなったのです。
ぼそっと なるほど。弟さんが病気だと、弟さん中心に一家が回るというのはよく分かるんですが、それがどういう風に他の家族との関係も悪くなるというところまでいくんでしょう。
のり子 弟は、とてもしっかり者だったんですよ。家族のことを一番見ている人物だったと思います。
私もそうなんですけど、うちの家族は抜けているところがあって。弟は人のことを見て、周りの環境のことをよく見ているから、発言力がすごく大きかったです。もしかすると、病気のことがあって大事にされすぎていたのかもしれませんが。
だから、弟が亡くなってしまった後は、私もあまり父と話さなくなってしまいました。
ぼそっと 弟さんはいつ頃亡くなられたんですか。
のり子 2年前です。32歳で、誕生日の直後でした。
ぼそっと それはそれは。……弟さんが病気であることで、のり子さんの幼稚園や学校の生活が影響を受けることはありましたか。
のり子 幼稚園は別々だったので、影響はありませんでしたが、小中学は同じ公立の学校に入学しました。弟は小学生の頃、私の友達にも可愛がられることが多かったですね。年齢も近いので一緒に遊んだり。
でも、中学生になってから、元々私たちと同じ小学校だった同級生で、私をいじめる理由として弟の障害をとやかく言う人はいました。「障害者だからどうのこうの」だとか。それは今でも不愉快に思っています。
尾崎 障害のあるきょうだいがいることを理由にいじめを受けるというのは、きょうだい児ではよく聞くエピソードですね。そこから、きょうだい仲が悪くなってしまうこともありますが、のり子さんの場合はどうでしたか。
のり子 最後の最後まで、喧嘩の多いきょうだいでしたが、仲は良かったです。特に私が通信制の高校に進学したあたりからでしょうか。
弟は全日制の普通高校に合格して、周囲のサポートもあり楽しい生活を送っていて、本当に羨ましく思っていたのですが、その頃からお互い大人になったんだと思います。よく母と弟と一緒に外出するようになりました。共通の趣味が多かったのでそれで盛り上がったりしましたね。
逆に、弟は私が不登校になったことで、私の同級生や友達にいろいろ言われていたみたいです。
弟の病気を悪く言うのがタブーのように感じていた
ぼそっと 中学のときにいじめを受けていたことが、不登校に影響したのでしょうか。
のり子 そうですね。いじめという気持ちは本人たちにはないのでしょうけど。きっと、私のことが面白くなかったんでしょう。元々人間関係はあまり良いものとは言えなかったので。それで、学校に行きにくくなりました。
いじめた人たちとは、同じ部活動だったので、それがきっかけということもあるかもしれないです。他にも理由はいろいろありますが。
ぼそっと 弟さんの病気を理由にいじめられたことを、家で相談できましたか。
のり子 できませんでしたね、何か言ってはいけないことのように感じていたし、今でも言っていません。何だか、弟の病気のことを悪く言うのがタブーのように感じていたんです。
ぼそっと お母さんやお姉さんにも、話せなかったのですね。
のり子 話さないけれど、姉は同じ部活だったので、そういう目に合っていることは知っていたと思います。でも、「止められるわけでもないし」という感じだったのでしょう。もし、私が姉の立場だとしても止められなかったのではないかと思います。
今でも、自分のことを「きょうだい児」とか「ヤングケアラー」と呼ぶのには抵抗があって、それは弟に対する遠慮だと思います。
それと、「私なんかそんな介助なんて大したことはしていない」という思いがありまして。一般的な兄や姉が、弟や妹の面倒を見るのと同じような感覚でしたね。
私の通っていた小学校には特殊学級があったので、似た境遇のきょうだい児の仲のいい友達もいたのですが、毎日遊んでいてもお互いのきょうだいの話はしなかったですね。大人になった今ならいろいろと語れそうなのですが。
尾崎 幼い頃から障害のある家族と一緒に暮らしていると、それが日常であって特別なことだと思わない、ということもあるかもしれませんね。私は今でも思い悩むことがあるのですが、なかなか相談はできないですね。
私の場合は周囲に同じような立場の人がいないので、相談をしても相手が返答に困ってしまったり、家族には「弟のせいにするな」と怒られてきたりしたので、言わなくなったという事情もあるんですけど。一人で抱え込んでしまうきょうだい児は少なくないのではないかと思います。
精神的に不安定な小学生時代
ぼそっと 不登校になったのは、いつ頃ですか。
のり子 小学校の入学式から既に学校へ行くことに反抗していましたが、小学校6年生から、本格的に不登校になっていって、それがひきこもりのはじまりだったような気がします。
それと、やはり母が病気だったことが大きくて、精神的に不安定な小学生時代を過ごしていました。小学校2年生ぐらいから、不安な気持ちが頭から離れず、それで度々行かなくなるということが多かったですね。
ぼそっと 私の母も、今から思うと精神的な病気だったんじゃないかと思うんですよね。ただ、誰も彼女を精神的な病気だと言ってくれないので、家庭の中では「無理が通れば道理が引っこむ」という状態でした。
のり子さんのお母さんが精神的な病気だということは、お父さんはどういう風に受け取られていましたか。
のり子 母は、私たちきょうだいの学校の先生や同級生を悪く言ったり、いろいろな人とトラブルになって衝突していました。そういう言動が目立っていたので、父は早めに病院に連れて行こうと考えていたみたいです。
それで、母抜きの家族4人で集まって、スーパーの駐車場でおにぎりを食べながら家族会議を開いて、「離婚するかも」とか、「これからどうするか」だとか、そういう話しをしていました。当時はなかなか辛かったですね。
尾崎 その頃のり子さんは、小学生ですもんね。親が離婚することや、これからの生活がどうなるかなんて想像ができないですよね。その後は、どうなったのでしょうか。
のり子 母は、私が小学校3、4年生の頃に入院したんですが、薬が効いて精神的に良くなって、普通のお母さんに戻っていった感じがあります。ただ、その後母は脳梗塞で倒れ、病気との兼ね合いで精神的な薬が使えなくなりまして。それでどんどんまた精神的に崩れていき、4年程前に母も亡くなりました。
ぼそっと すると、中学・高校のころは、お母さまや弟さんの病気に、のり子さんの人生は大きな影響を受けたことになるでしょうか。
のり子 当時はそれが自分の問題の中心だとは思っていませんでした。不登校になった理由は、どちらかというと女子同士の人間関係でした。小さい女の子同士の付き合い方って、すごく難しくて私はついていけなかったんです。
でも、背景には弟の病気や母の病気があったような気がします。だから、いろいろなものがごちゃごちゃになっていましたね。
尾崎 私も学生時代の女子の人間関係にはついていけなかったので分かりますね。でも、必ずしも一つの要因でひきこもりになるわけではないのと同じように、不登校の背景も様々な要因が絡み合っているのかもしれないですね。
家族のケアと女性のひきこもり
ぼそっと 女性のひきこもり当事者の方で、専業主婦がひきこもりになるのと同じ原理で、結婚していなくても家族のケアに振り回され、病気である家族を優先してしまい、自分の人生が二の次になって、気がついたら社会とのつながりを失ってひきこもりになっていた、という方がよくいらっしゃいますが、のり子さんはそういう感じはありますか。
のり子 数年前まで、その状態でした。弟の介助は、以前は主に母がやっていたので、母が脳梗塞で倒れたあとは、他にやる人がいなくなってしまって。私は家事もやらなくてはなりませんでした。
でも、家にヘルパーさんが来ても、私がひきこもっていたら、どう生活したらいいんだろうとか悩みました。ヘルパーさんと顔を合わせるのがすごく嫌でしたし、家にひきこもっているのがばれたらどうしようとか思っていました。
ぼそっと ヘルパーさんを頼めたのはよかったですね。よく社会資源を利用できないまま、ひきこもっている方はいらっしゃいますが、そういう知識があってよかったですね。
のり子 そうですね、手は尽くしていました。でも、ヘルパーさんもいろんな人がいて。すごく気が効く人もいれば、そうではない人もいて。
あと、隣の部屋で弟は介助を受けているあいだ、私はひきこもっているから静かにしているしかなかったり。私が平日の昼間にいることが分かって、ヘルパーさんが変に思っているんじゃないかと考えていましたね。
その頃は精神的に荒れていたので、ヘルパーさんのいる部屋の壁越しにわざと大きい音を立てたりして。当時は私なりに必死でしたが、今は申し訳なく思っています。
ぼそっと なるほど。みんながひきこもりに関してオープンに議論するようになれば、ひきこもりそのものが恥ではなくて社会的な一つの事実になっていくと思います。そうするとヘルパーさんが来ても「私はひきこもりなんで、こっちにいます」「あぁ、そうですか」って感じになるかもしれないですよね。
「のり子さん 第2回」へつづく
<プロフィール>
のり子 北海道石狩市出身のひきこもり経験者。札幌ひきこもり女子会副代表。
note : https://note.com/n_hikijo_n
Twitter : https://twitter.com/n_hikijo
尾崎すずほ 東京出身の元ひきこもり。冊子版7号~9号/ WEB版【ひきこもりと地方】インタビュー記事を執筆。
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2020年10月、『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)刊。