ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

算数的〈生きづらさ〉論  ~小2から学校に行っていない不登校経験者があえて数学の言葉で説明する当事者研究~

 〈生きづらさ〉は言葉になりがたく、人に伝わりづらい。難しい言葉をたくさん使っても、うまく語れるとは限らない。なので今回は試しに、算数を使って説明してみようかと思う。

 私が学校に行かなくなったのは8歳のときで、「算数」も「数学」も、ほとんど習ったことがない。そのためごく低レベルの内容しか知らないが、〈生きづらさ〉の説明としてあまり例のない方法をとるので、もの珍しさはあるかと思う。

 もっとも、私の言おうとしていることが全然伝わらない可能性もある。(私自身、読む人全員に理解されることは期待していない。)とりあえず、ざっと読み流してみてほしい。数学を知らない人間が、あえて数学的に語る〈生きづらさ〉論だ。

 

 

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文字の式 ~「ax」がないことによる体力のなさ ~

私は自分の体力がないと思ってきた。

他の人たちはあちこち外出し、多くの人と出会って友人や恋人を作れるのに、自分はすぐに疲れてしまい、まともに外出もできない。

けれどよく考えてみると、「エネルギーがない」のではなく、「エネルギー消費量が多い」のではないかと思う。

日常生活の中で解を出さねばならない問題が多すぎて、エネルギーがもたないのだ。

 

一例として、家族関係を文字の式で説明する。

自分=a
母親=b
父親=c
兄弟=d

とする。

自分と母親が話すときに、「a×b」になるとする。

 

一般の人が家族全員で会話をするとき、これを式で表すなら「a×(b×c×d)」であると思う。

自分がいて、他の家族三人と会話をする、安定した関係がある。

さらに「x=b×c×d」とするなら、(「a×x」ですむので、)家族関係の解は「ax」でいい。

安心できる家庭環境があれば、毎日目を覚まして、食事をして、眠りにつくまで「ax」という解だけで過ごせる。

しかし、家族に問題を抱えてるいるとそうはいかない。

朝起きてから寝るまで、母親・父親・兄弟が、自分にどんな顔をみせるのか、予測がつかなくなる。

「もしかしたら朝に食事を出してくれない可能性がある」とか、「帰宅したときにお酒を飲んでいて機嫌が悪いかもしれない」とかいうとき、ただの「b」や「c」にはおさまらない。

あるときは「b」で、あるときは「y」になるという親だと、通常の式では解けなくなってしまう。
毎日頻繁に、「a×b」「a×c」「a×d」「a×y」を計算して過ごしていなければならない。

そのため、家族に問題がある人の式は「a×b×c×d×y」でありえるし、

それどころか、
「a×(a×b) ×(a×c)×(a×d)×(a×y)」と、複雑化せさるをえなくなる。

「ax」ですませられる人とは、毎日の計算するためのエネルギー消費量が違う。

「兄弟が病気になる」とか、「父親が認知症になる」とかのことがあると、家族は混乱させられてしまう。
それはそれまでの日常という「x」が分解し、未知の方程式が必要になるためだ。

そのような大変さを、アダルトチルドレン(サバイバー)は幼少期から強いられている。

 

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乱数 ~人生の乱数を受け入れるために~

精神科医の中井久夫は、「乱数発生法」について書いている。

人に「できるだけデタラメに1から9までの数を言ってください」と指示すると、精神状態が安定している人なら、「8、3、5、1……」など、バラバラの数を言うことができる。

しかし追いつめられている人だと、「1、2、3、4、5……」と順番通りになってしまう。

「精神のゆとり」度の指標になるもので、ある山岳部のリーダーは、隊員が乱数を言えるかどうかで精神状態を確認したという。

 

「ゆとりがある人」とか「余裕がある人」というのは、この乱数的な言動が日常的に表れている人ではないかと思う。

特に笑える冗談は、規範の枠組みから逸脱することで生じている。

常識的には「1、2、3」と説明されるものが、意図して「1,2、9」とされることで意外性が生まれ、気楽な笑いにつながる。

 

私が社会的に孤立し、追いつめられていたときには、乱数的な言動や思考がなくなっていた。

「1」の次は絶対に「2」でなければならず、「働かなければならない」→「働けない」といった、狭小な考え方にとらわれていた。

周囲の大人たちも、「働け」「資格をとれ」など、順序だった展開のみを期待していたように思う。

機械的・合理的な判断ならたしかに「1、2、3」という順序を正しく数えていくのがいい。

しかし友達と会ったり、旅に出かけるといった乱数的な選択肢を確保した方が、よほど多くの数(展開)を数えられるはずだ。

 

 また、ひきこもりのことを「遠回り」と言う例があるが、私はあまり好きではない。これは「1」と「2」の中間に「1.1、1,2、1,3……」とあって、「次の数までたどり着くのに時間がかかる」というとらえ方がされているように思う。
 しかし私にとってのひきこもりは、「1」の次が「3」でもありえるし「9」でもありえるという経験で、人生の乱数としてとらえるべきものだった。

 

 

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割合 ~「100%の自分」をやめる~

 

私は長いあいだ、働こうと思っても働けなかった。

アドバイスする人の中には、「気楽にやってみたら」とか、「とりあえず挑戦してみたら」なんていう人がいた。

しかしそのような人は、私の人生における労働の割合の大きさを理解していない。

「当たって砕けろ」なんて言えるのは、「当たって砕け」たとしても、人生の何割かが残る人だ。

 

人は生活していくなかで、家庭の自分、職場の自分、趣味の自分、ペットと過ごしている自分、過去の自分など、いくつもの顔を持っている。

ある人が仕事に失敗したとしても、仕事がその人にとって人生全体の3割なら、残りの7割が残っており、またやり直すことができる。

 

だが、孤立していたときの私はそうではなかった。

家族も友人も頼れず、「自分は楽しんではならない」と思っていたので、趣味や娯楽も自粛していた。

そんな状態だと、社会に出たとしても「働く自分」は10割になる。

仕事を失敗した場合、その10割(つまり自分のすべて)が崩壊してしまう。

その恐怖感や緊迫感は底知れないもので、とてもではないが動き出せない。

(ひきこもりと過労死は、労働の割合が10割になり、「働くか死ぬか」まで追いつめられてしまう点で共通しているように思う。)

 

行政による「ひきこもり」の就労支援は、ときに就労の可能性を高めるだけのものになっている。

ほとんどの場合、「就労がうまくいく可能性」を上げていくことが目的だ。

しかし、仮に「就労がうまくいく可能性」が99%まで高まったところで、私は働き出せない。

「働く自分」が人生の10割では、すべてが労働に左右される「生きるか死ぬか」の状態は変わらず、就労が命を賭けたギャンブルになる。

まず重要なのは、自分の人生全体での、「働く自分」の割合を下げることだと思う。

友人関係や趣味の関わり、自分の好きなものとの関わりを確保して、「働く自分」の割合を、人生全体の9割、8割、7割……と下げていく。

私の実体験だが、「自分は休んでよいし、友人と楽しんでもよい」と思える居場所的なつながりができたことで、結果として「働く自分」が楽になった。

 

 

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暗算 ~人間関係を概算ですませられる特権~

 

人間関係にも暗算のようなものがある。 

誰もが仕事をしたり人と接したりするときには、めまぐるしい計算をおこなっている。

どんな人と、どんな発言をして、どれくらいの時間をかけて、その次には何をすればいいか……。

社会的な多数派として生きられた人なら、たとえば家族、恋愛、結婚、仕事の話題などで、立ち止まって計算しなくてもいいことが多い。

 

しかし、マイノリティはそうはいかない。

私のセクシャリティはいわゆるゲイだが、世間話のなかで、「彼女はいるの?」という質問に対しては、複雑な計算が必要になる。

どのような相手に、どこまでのことを、どのように話したらいいのか。

私は誤差を見極めて、相手の言動をつぶさに観察し、正確に判断しようとする。

しかし相手は気楽なもので、適当に言葉を四捨五入して、概算を聞くような態度でいる。

 

(※煩雑になるので、ここは読み飛ばしてもらってもいい。

たとえば肯定を「0」、否定を「1」とした場合、「結婚していない=1」、「彼女がいない=1」で、相手にとっては「1+1=2」の話題になる。

しかし私が「彼女がいない」ではなく「恋人がいない」という微妙な答え方をしたとき、「1.9」みたいな返答が生まれる。相手は適当に概算して「2」ととらえるが、実際は「彼氏がいる」という場合、「1」もしくは「1.5」にあたる情報を返答すべきだったことになる。

そのため、あとになって私に「恋人がいる(彼氏がいる)」という情報が伝わったときに、「あのときは2だと説明していたのに、実際は違った」という事態が生まれる。

結果として私が間違った答えを伝えたような感じになってしまう。この情報の誤差が毎日積み重なっていくと、生きづらさの係数は複雑さを増す。

社会や文化の中でまさしく「切り捨て」られて四捨五入されるものがあり、また、要点だけを概数として理解する、マジョリティの「誤差の修正を必要としない社会」みたいなものが、生きづらさを生んでいる。)

 

「生きやすい人」というのは、日常を暗算で過ごせる人だと思う。

マイノリティであったり、未経験のトラブルに巻き込まれたとき、その計算は正確さが必要になり、簡単に解くことが困難になる。

(日本社会では、おそらく女性であるというだけで人生の式に入れられる計算が多い。)

 

そこがわかっていないと、「自分は頭がいいから暗算が得意なのだ」と誤解する人もいるかもしれない。

だがそうではなく、マジョリティは端的に「考えなくていい」のだと思う。

 

セクシャルハラスメントとかLGBT運動とかを訴えていくことは、相手が自動で暗算し、何となくの概算や四捨五入ですませていることにストップをかけ、社会に新たな方程式を加えることだ。

そういった変化は、式に慣れていない人にとってはわかりにくかったり、面倒くさかったりするだろう。

けれど一人一人が意識していけば、そのうちに社会が変わりうる。

複雑な計算式も一つの「x」にまとまり、当りまえの日常として、誰もが「計算に入れる」社会がやってくる可能性もある。少なくとも、変化の可能性が0%だと断じることが誰にもできない以上、希望を失うのは早計ではないだろうか。

 

 

 

 

 

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文 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。詩人。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

 

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