ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

絶望から立ち直らせる〈詩の言葉〉をください 今を生き延びるための詩の名言集

もちろん
僕は太陽や
微笑みや、空気のようには
人々に必要とされていない。
でも時には
汚い水たまりに
遠い星が
映し出されることもある。
(ニコライ・ベルリンスキー)

 

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苦しいときに勇気をくれる詩の言葉

今回はこの百年ほどのあいだに書かれた〈詩の言葉〉から、「名言集」を作りたいと思います。
もともと「わかりやすい」とはいえない詩の言葉の、さらに一部分だけを切り取るものなので、読む人に不親切かもしれません。
それでも、言葉に込められた迫力や、唯一無二の表現には、どこかに心動かす力が含まれているはずです。

 

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡す限りの金色の稲穂
(新川和江「わたしを束ねないで」)

 

世界に別れを告げる日に
ふとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
(茨城のり子「ぎらりと光るダイヤのような日」)

 

ひとつの心が破れるのを止められるなら
無駄に生きたことにはならない
ひとつの生の痛みを和らげられるなら
ひとつの痛みを冷やせるなら

気を失いかけたコマドリを助けて
巣に戻してやれるなら
無駄に生きたことにはならない。
(エミリー・ディキンソン) 

 

わたしのろうそくは両端から燃える
夜明けまではもちません
でも わが敵よ、 わが友よ
それはとてもきれいにひかります
(エドナ・セント・ヴィンセント・ミレー「あざみの果」)

 

人生とは恐らく一本の長い道。毎日女が買物カゴを持って通るような道。
(『現代イラン詩集』より フォルーグ・ファッロフザード「あらたなる生」)

 

わたしは もう待ちはしない
待たれているのはわたしなのだ
(『アジア・アフリカ詩集』より ネトー「別離の時よさらば」)

 

あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
〔…〕

あなたは降りしきる雨に愛される
微風にゆれる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
何故ならあなたは一つのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬ
やわらかいいのちだからだ
(谷川俊太郎「やわらかいいのち」)

 

ほんの一瞬であれ
不死ではないような
生はない
(シンボルスカ「死について、誇張なしに」)

 

終わりと始まり

 

 

深い絶望に打ちひしがれているときの詩の言葉

詩は、人生を明るく励ましてくれるものばかりではありません。
むしろ立ち上がれないほどの絶望こそ、表現の真骨頂であるように思います。
ここからは、苦しみをつづった〈詩の言葉〉を並べていきます。

 

花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき
(林芙美子)

 

苦しみは私達を
窓のない家に葬る
(ヒルデ・ドミーン「窓のない家」)

 

野薔薇のとげなんかは
外に向かって生えているから私よりよほどよい
(永瀬清子「野薔薇のとげなど」)

 

同じ道
深刻な努力によって強固にされた 同じ家々
同じ静寂 
(ハイダリー「不妊」)

 

愛というものの
なんと、たとえようもない醜悪さ
(石垣りん「夫婦」)

 

石垣りん詩集 (岩波文庫)

 

遠くで一本の釘がわたしを痛めつける
(『中国現代詩三十人集』より 那天)

 

もし生きる力が足りなければ死んだ力をくれ
(欧陽江河「天と人と涙なく」)

 

貧しかったときは涙さえ足りなかった
(高銀)

 

こわれています、さわらないでください
(シュリ・プリュドム「こわれた花瓶」)

 

手を振っているんじゃない、溺れているんだ
(スティービー・スミス)

 

泣こうか、否。祈ろうか、否。
起とうか、否。座ろうか、否。
一切の否定、否定の否定。
(藤井武「愛するものに死なれること」)

 

秋の夜に
僕は僕が破裂する夢を見て目が醒めた
(中原中也「脱毛の秋」)

 

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

 

朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる――それが
一生というものか。残酷だ。
なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
海を一日中、見つめているような
眼をして、人生の半ばを過ぎた。
(北村太郎「朝の鏡」」

 

いまわたしのまなびたいことは
木枯の電柱の暗い下で
股の周辺を汚物でぬらしながら
怒りに吠える
匿名の犬の位置へ至ることだ
(吉岡実「犬の肖像」)

 

ぼくは眼を刳りとった
心をぼくにしかと釘づけするために
ぼくは耳をおもいきり削いだ
たれからも全くぼくが自由であるように
ぼくは唇を縫い合わせた
他から何一つ求めないために
ぼくは両足を断ち切った
たれも行きついたもののない遠くへ行きつくために
ぼくは両手を切り落とした
さいごに抱いたものを全身で記憶するために
(嵯峨信之「ノアの箱舟」)

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
(田村隆一「帰途」)

 

人間としての大前提の無い者から
同じ人間だからと手をさしのべられても
困るんです

人間であろうとすることを獲得した人間でない者が
いくら人間と連呼したところで
そのようなうわ面だけの人間と
手を繋げるほど楽天的な人生では
悲しいかな ありませんでした
(『在日コリアン詩選集』より 「前提」)

 

わたしはたぶん人間ではない、人間はもっと違うもの、
歩くことができて、坐ることができて、この家からあの家へと訪ね歩く。
(『バングラデシュ詩選集』より ニルモンド・グン「人間」)

 

これが人間か 考えてほしい
泥にまみれて働き
平和を知らず
パンのかけらを争い
他人がうなずくだけで死に追いやられるものが
(プリーモ・レーヴィ「これが人間か」)

 

涙。
兄弟の目にやどる涙。
その一粒は流れ落ちようとしなかった、ふくらんだ。
私たちはその中に住んでいる。
息をしろ、
その涙がはじけるように。
(パウル・ツェラン「声たち」)

 

パウル・ツェラン詩文集

 

 

自分を見失ってしまったときの詩の言葉

私は自分がどんな人間で、どんな人生を生きていけるのか、まるでわからなくなってしまったときがありました。
自分が自分でなく、言葉が言葉でなくなってしまう、そのようなときにすら、詩の言葉はありました。

 

どこにだつて私がゐるの。
私のほかに、私がゐるの。
〔…〕
けれどもなぜか、いつ見ても、お空にゃ決してゐないのよ。
(金子みすず「私」)

 

僕らが僕々言ってゐる
その僕とは 僕なのか
僕が その僕なのか
僕が僕だって 僕が僕なら 僕だって僕なのか
僕である僕とは
僕であるより外には仕方のない僕なのか
(山之口獏「存在」)

 

ずぶぬれて酔っぱらって
あるいているのが
これがぼくだという証拠がどこにある。
(秋山清「ある孤独」)

 

わたしはわたしを忘れて
歩きまわっていた
(飯島耕一「母国語」) 

 

目覚めれば
私はなお私であって
私は 私ではない
(陳育虹「あなたに告げた」)

 

人を探しています
年は はたち
背は 中ぐらい
〔…〕
懸賞金は
わたしの残った生涯 すべてを賭けます
(『韓国現代詩選』より 洪充淑「人を探しています」)

 

ぼくは他人の家に住み
他者の空気を吸い
他者の服を着て
他者の書いた本を読み
他者の出した試験問題を解き
他者の開いた道を歩く
(…)
他者の騒ぐ声の中で
他者のごみの山の中で
あきらかに他者の顔で
自分の問題を考えている
(鵡鵡「亡命」)

 

わたしをかえせ
(峠三吉)

 

ぼくのものでない小さな手よ
いったいお前はだれのものか?
ぼくはお前を闇の中で見つけた、お前はぼくのものではない
しかしぼくは、一人の人間が嘆くのをきく
(ラーゲルクヴィスト)

 

われわれの身体ほど、われわれに無縁でよそよそしいものはない。
(ヴァレリー)

 

私は私以外のように動かねばならない
(髙木敏次)

 

私は私自身にしか似ることができない
(多田智満子)

 

最後まで私自身を分裂させておくつもりだ。
(ヴォルフ)

 

私はもはや自分のものではない。
(フェルナンド・ペソア)

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 


いくつかの〈詩の言葉〉を抽出しました。
これらは無数にある詩集の、ごく一部の、さらにその一端にすぎません。
世界には、まだ言葉があります。
まだ知られていない言葉、まだ出会っていない言葉、そして、これから書かれる言葉もあります。
それらは世の中の輝かしいものに比べれば、とるにたらない、役に立たないものであるかもしれません。
しかし道端の水たまりにも、これまで気づかなかった「遠い星が映し出されること」があります。
ときにはうつむいて、役に立たないものを見る時間も良いのではないでしょうか。

 

 

ご覧いただきありがとうございました。

 

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文 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。詩人・ライター。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。2020年に詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』発表。
ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

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KIKUI Yashin 2021 / Photo by Pixabay