文・ぼそっと池井多
前回、第1回は、「地域で支えるひきこもり」という考え方が広まっているなかで、
「ひきこもりにとって一番こわいのは地域の人である」
ということを書かせていただいた。
「地域で支えるひきこもり」という考え方の広がりは、「ひきこもり支援の行政化」という最近の動向と車の両輪をなしているように思われる。
なぜならば、行政で支援をおこなおうとすれば、どうしても各地の地方自治体が実施主体となるからである。
そして、どこの地方自治体も管轄地域というものを持ち、その中で支援事業を行なうことを考える。
地方自治体が、もし地域というものを要件としない行政単位であったなら、必ずしもこのような流れにはならないだろう。
ところが、それはいささかSFじみた仮定になってしまう。
なぜならば、日本ではそんな地方自治体はないからである。
国際社会に視野を広げて、自治体に相当する行政組織として国家という主体を考えてみると、実質的に地域のない行政主体がいくつか存在する(*1)。しかし、国内では地域のない地方自治体は「ありえない」のである。
*1. たとえばマルタ騎士団など。
地域で支える根拠とされるもの
こうなると、行政によるひきこもり支援も、地域を基盤とするのは当然であると人は考え、行政では支援事業を地域にもとづいて設計し、展開していく。
それを規定しているのが、全国社会福祉協議会なども活動根拠としている社会福祉法だろう。
第1条にはこうある。
社会福祉法 第1条
この法律は、社会福祉を目的とする事業の全分野における共通的基本事項を定め、社会福祉を目的とする他の法律と相まつて、福祉サービスの利用者の利益の保護及び地域における社会福祉(以下「地域福祉」という。)の推進を図るとともに、社会福祉事業の公明かつ適正な実施の確保及び社会福祉を目的とする事業の健全な発達を図り、もつて社会福祉の増進に資することを目的とする。
冒頭から「地域」「地域福祉」という語が出てきて、それがこの法律の目的であることが謳われている。
そして第4条には「地域福祉の推進」として、もっと具体的に「地域福祉」が何を指すかが示される。この第4条はこの法律のなかでもっとも頻繁に改正されている条項でもある。それだけ「地域福祉」の定義が定まりにくい、ということではないだろうか。
社会福祉法は、昭和26(1951)年の制定といわれるが、その当時はまだ社会福祉事業法と呼ばれていた。
そして、さらにその起源をさかのぼると、明治維新の直後まで行きつくというから驚きだ(*2)。
*2. 増山道康「社会事業の意味の変遷に関する若干の考察」 青森県立保健大学雑誌 / Journal of Aomori University of Health and Welfare,14,1-11 (2013-12)
明治から昭和前期までの考察はこの文献を大いに参考にさせていただいたが、ここに引用されている資料を解釈し直した箇所もある。そのため以下、本文献からの二次資料にはas cited in *2と記す。
社会福祉をさかのぼると「西郷どん」の世界
江戸時代が終わり、それまでの身分制度の頂点にあった武士たちは、新政府から相次いで出される版籍奉還、廃刀令、秩禄処分といった政令によって特権を失い、かといって今さら町人や農民のような生産手段もなく、食うや食わずのどん底の生活に落とされた。
困窮する武士たちの生活を救済するために、どのような社会政策をとるかということが、明治政府のなかで議論すべき重要課題となった。
西洋的な概念は多くがドイツから輸入されたので、このころは社会政策もドイツ語でゾチアールポリティーク(Socialpolitik)と言っていたらしい。
明治政府の中では二派に分かれた。
一派は、大久保利通に代表されるように、武士を殖産興業のための人材や労働力として再教育や育成をおこなうという考え方であった。もう一派は、同じく薩摩出身の西郷隆盛のように、武士であった者たちの誇りと素養を活かすかたちで救済策を講じようというものであった。
そして、明治10(1877)年の西南戦争によって後者が敗退したのである。
明治7(1874)年の太政官通達による
目下差し置き難し
無告の
(……中略……)
左の規則に照らし取り計らい置く
さしずめ今の言葉でいえば、
「困りごとがあるのなら、家族や親族、地域の人たちがお互いに助け合って解決しなさい。しかし、身寄りのない貧困者など、どうしようもない人は、政府が何とかしてあげましょう」
といった意味である。
これは日本の近代福祉の出発点を物語る一文である。
すでに「地域福祉」という概念の原型が、「人民相互の情誼」という表現によってここに示されていると言ってよい。「
*3. 恤救規則(じゅっきゅうきそく) 明治7(1874)年太政官通達第162号。全5か条で、昭和6(1931)年まで有効であった法令。明治政府が生活困窮者の救済を目的として、日本で初めて統一的な基準をもって発布した救貧法である。やがて昭和4(1929)年の救護法、昭和25(1950)年の生活保護法へ引き継がれることとなる。
けれども、家禄を失った旧武士という身分は「無告の窮民」であるから国家が支援してやらなくてはならない、ということで今日でいう福祉行政の対象となったわけである。
右大臣であった岩倉具視も、
所謂貧民なる者は惰情にして業を勉めず、自ら貧困を招くものを指す
(いわゆる貧しい者というのは怠慢で、勉強したり働いたりしないものだから、自分から貧乏であることを招いている)(*4)
と、もし近年の私たちひきこもり当事者たちが聞いたら国会前でデモ行進でも始めそうなことを言い、「しかし旧武士はそうではないから救済する」と結論づけている。
*4. 岩倉具視「乙、士族授産に関する意見書」1879 明治文化研究会編『明治文化全集第 22 巻社会編(上巻)』1929 p558 as cited in *2 書き下し文ひらがな補追
こうして、「士族授産」というコンセプトによって、こんにちの福祉概念の原型である士族救済と、経済成長政策の原型である殖産興業が合体されて、これを推進していくことになった(*5)。「授産」とは、「産業を授ける」という意味であり、移住開墾などを世話する狭義の「授産事業」と、たんに仕事を紹介する「授職事業」があったが、ようするにこんにちの「就労支援」と「ハローワーク」を足したようなものと考えてよいだろう。
*5. 大久保利通「殖産興業に関する建議書」我妻東策「明治社会政策史」三笠書房 1941.pp49-50 as cited in *2
時代が下るにつれて、やがて対象が士族だけではなくなっていき、旧平民や、さらには女性なども含むようになる。
明治時代の「授産事業」は、大正に入ると「社会事業」と呼ばれるようになり、ドイツ語の ゾチアールヴォファールト Socialwohfahrt が翻訳されて「社会福祉」という日本語が誕生した。
太平洋戦争が近づいてくると、経済は国家独占資本主義へと移行していき、昭和13(1938)年には国家総動員法が制定されるのとほぼ同時に社会事業法がつくられた。
いまの社会福祉法の第2条でいう「社会福祉事業」も、戦前につくられたこの社会事業法にいう「社会事業」がもとになっている。
このときは主に都市部における貧困層が対象として想定されていた。
当時の文献には、福祉的性格の強い救護行政は、
「我国固有の美俗たる隣保相扶の情誼を重んじ、社会連帯の思想を基調として一般国民のための公的義務救護を実現することを目的とする」
とされていた(*6)。
先に述べた明治7年の「人民相互の情誼」が、約60年の歳月を経て昭和13年に「隣保相扶の情誼」として焼き直しされている。そして、これがこんにちの「地域」に通じるのは明らかではないか。
先ほども申し上げたように、情誼とは人の「
これが地域の人を恐れるひきこもりの心性と反するのである。
*6. 「社会政策時報」第 210 号 42P(1938 年 3 月)as cited in *2
焼け出された人びとを救済するために
昭和20(1945)年、太平洋戦争が終結し、敗戦後の日本には貧困者や戦災孤児があふれていた。日本は社会政策としてそういう人たちを何とかしなければならなかった。
そのため、GHQの統治下で昭和22(1947)年には児童福祉法が制定され、児童相談所の設置などが行われた。昭和21(1946)年に公布・施行された旧生活保護法(昭和25(1950)年に新法として再公布)、昭和24(1949)年の身体障害者福祉法とあわせて福祉三法と呼ばれることになる。
福祉三法をたばねる元締めとなる法律が必要だということで、昭和26(1951)年にこんにちの社会福祉法の前身となる社会福祉事業法が制定され、それにともなって戦前につくられた社会事業法は廃止された。
「地域」を前面にうたっている社会福祉法の第一条は、社会福祉事業法では第三条にその原型をたどることができる。
社会福祉事業法
(基本理念)
第三条
国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者は、福祉サービスを必要とする者が、心身ともに健やかに育成され、又は社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるとともに、その環境、年齢及び心身の状況に応じ、地域において必要な福祉サービスを総合的に提供されるように、社会福祉事業その他の社会福祉を目的とする事業の広範かつ計画的な実施に努めなければならない。
(地域等への配慮)
第三条の二
国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者は、社会福祉事業その他の社会福祉を目的とする事業を実施するに当たつては、医療、保健その他関連施策との有機的な連携を図り、地域に即した創意と工夫を行い、及び地域住民等の理解と協力を得るよう努めなければならない。
こうして政策的な側面から見てくると、明治維新の直後から
社会政策 → 授産事業 → 社会事業 → 社会福祉 → 地域福祉
という一つの流れを見いだすことができるのである。
・・・第3回へつづく
<プロフィール>
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2020年10月、『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)刊。
Twitter : @vosot_just