文・ぼそっと池井多
・・・第2回からのつづき
地域社会の原型、「五人組」
前回 第2回は、日本の明治維新の直後にさかのぼって、現在の「地域福祉」の根拠となっている社会福祉法の起源を考えてみた。
近代福祉の政策的な観点から考えれば、それは必然的に明治以降のこととなる。しかし、地域のつながりが行政に利用されることはそれ以前からあった。よく知られるのが、英語でもGonin Gumi(*1)と書かれるほど国際的に有名にもなっている「五人組」という制度である。
*1. Gonin Gumi ウィキペディア(英語版)
これは、地域の住民に相互監視をさせ、何かあったときに連帯責任を負わせる制度であったが、これが日本人がいまだに個人責任を忌避したがる国民性を持つ遠因ではないか、ということもよく言われる。
ところで、いまの若い世代の日本語では「陽キャ(ラ)」「陰キャ(ラ)」という略語的語彙があるが、それに倣ってここで「陽面」「陰面」という語を導入したい。
どんな制度も新しく採用されるときには、その生産的・建設的な面、いわば陽面 (positive aspect)に期待して導入される。しかし、やがて制度を運用していくうちに、陰面(negative aspect) が出てきて、それがその制度の実態として知られるようになるのである。
五人組、あるいはそれに類する制度もまた例外ではない。
外国にもあった「五人組」
はじめに、五人組のような「地域社会における相互監視」が制度化されたのは、世界の中で日本だけではないことを押さえておきたい。東洋では中国の保甲制度(*2)が名高い。
西洋でも知られているのは、現在のイギリス王室の開祖ウィリアム1世の子にして、ノルマン朝第3代の王、ヘンリー1世(在位1100 - 1135年)が布告した十人組 (Frankpledge) (*3)である。
これは、女性や聖職者、裕福な者を除く、領内の12歳以上の成人男子すべてを tithing と呼ぶ10人ごとの組に編成し、犯罪者などが特定できなかった場合は、その犯罪者がいると思われる十人組の全員を処罰する、というものだった。したがって、いやでも同じ組にまとめられた十人は相互監視するようになる。
*2. 保甲制度:ウィキペディア(日本語版)
*3. 十人組 (Frankpledge) : ウィキペディア(英語版)
日本の「五人組」の始まり
日本の五人組は江戸時代の制度だと一般に思われているが、じつはその原型は、江戸時代よりも千年も昔、日本で最初の年号が定められた大化の改新(645年)のころに作られたのだった。
今でもそれぞれの家は「戸」と数えるが、隣近所の5戸をまとめたものが「保」と呼ばれていたので、五保制と称されていた。その上に10保で「里」、さらに「郡」「郷」などの単位があった。
これらは、当時の日本がお手本としていた中国において行政が住民を支配する単位として用いていたものである。日本では、白雉時代 (650 - 655年) に導入され、大宝律令(*4)に見られるようになった。
五保制によって、他所から誰が来て泊ったか、何か悪いことをしていないか、などを地域社会で相互に監視し、こんにちの税金にあたる租調を納められない者が出た時には、同じ保の者に代納する義務が課せられた。(*5)
制度の陽面と陰面ということでいえば、五保制には日本で初めて全国の戸数単位の把握したという陽面があったが、しょせんはこれも為政者が税の徴収のために都合がよかった側面であり、しだいに相互監視と連帯責任という陰面が制度の表に浮き上がっていった。
*4. 大宝律令(たいほうりつりょう):701年、日本で初めて整備された法律大全。「律」は今でいう「刑法」、「令(りょう)」はその他の分野の法律。「律令」は今でいう「成文法」、すなわちちゃんと文書に書かれた法律。大宝律令以前も法令は発せられていたが「令」だけだったりした。律と令がそろっていることが、当時の東アジアにおいてはその国の文化成熟度の指標となっていた。
*5. 五保制:ブリタニカ国際大百科事典(日本語版)
住民が相互に監視し処罰する
平安時代に入ると、全国の農地は主に中央の貴族や寺社が都などの遠隔地から支配する荘園や公領になっていったが、鎌倉時代になると、そこへ幕府から管理のために地頭がつかわされ、農村の様子は急速に変化していった。
それまで農民はそれぞれの田畑の中心に住んでいたので、家々は点々と散らばっていた。しかし、地頭がやってきてからというもの、農民たちはまとまって暮らすようになり、家々が
さらに農民たちは、水利の配分や境界の紛争、戦乱や盗賊からの自衛などのために、同じ地域に住む者としての結束を強めていった。その地域に住む
室町時代の中期には、長引く応仁の乱などの戦乱から自分たちの土地を守るため、惣の力が高まった。
もともとは住民の裁判は領主や地頭がおこなっていたものだが、戦乱で領主が無力となったために、この時期からは村人の会議である
今日でいう「地域」は、こうして住民たちが相互に監視し処罰する自治組織として強力に機能するようになった。
このように、室町時代の惣もまた、村人たちの水利や自衛といった陽面からスタートして、相互監視・相互処罰という陰面がしだいに強まっていったのである。
*6. 惣村(そうそん):ウィキペディア(日本語版)
豊臣秀吉がつくった「五人組」
戦国時代に入ると、戦国大名によって惣の自治権が奪われていき、最終的には豊臣秀吉による刀狩と太閤検地の結果、惣という組織は壊滅し、慶長2(1597)年に「五人組」「十人組」として再編された。
一般に「五人組」は農民を支配する制度だと考えられているきらいがあるが、農民だけでなく下級武士にも五人組がつくられた。
「
江戸時代の五人組は、いわば豊臣秀吉の制度をそのまま引きついだものであり、江戸幕府のオリジナルではない。
これをもとにのちの「ムラ社会」、「村落共同体」といわれる社会構造が形成されていったわけである。
明暦元(1655)年には全国の五人組の組織を網羅した五人組帳ができあがった(*7)。
この制度は、
風土とは、私たちの民族的な無意識の奥深くに浸透しているものであるから、「地域で支えるひきこもり」という運動が、こうした伝統や因習を引き継いだものにならない保証はない。
「五人組」から「隣組」へ
やがて昭和時代に入り太平洋戦争が近づいてくると、江戸時代の五人組を原型としてそれぞれの地域に隣組(*8)が作られた。
日中戦争が悪化しつつある昭和13(1938)年、国家総動員法と時を同じくして社会事業法がつくられた。これが現在の社会福祉法の第2条の元になっていることは、本シリーズ第2回で述べたとおりである。
国家総動員法に基づいて、昭和15(1940)年9月には内務省が訓令した隣組強化法(*9)によって隣組は正式に法制化された。
隣組は、住民同士の思想統制や相互監視を担うとともに、住民の団結を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行なった。
隣近所への連絡の方法として「回覧板をまわす」という習慣は、この隣組で作られたものである。
敗戦色が濃くなってくると、大日本婦人会(*10)とともに、連合軍が上陸したときの備えと称して竹槍の教練を開催する隣組も多かった。
このように隣組という制度も、国力増強・国民団結といった陽面から始まって、戦力的には役に立つと思えない竹槍の稽古という陰面に収斂していったのであった。
*7. 五人組(ごにんぐみ)日本大百科全書(ニッポニカ)「五人組」(日本史)
*8. 隣組 ウィキペディア(日本語版)
*9. 隣組強化法 正式名称は「部落会町内会等整備要領」。昭和15年内務省訓令第17号。
*10. 大日本婦人会(だいにっぽんふじんかい)1901年結成の愛国婦人会、1931年設立の大日本連合婦人会、1932年発足の大日本国防婦人会の三つの団体を政府の方針により統合し、「国防思想の普及」「家庭生活の整備刷新」「国防に必要なる訓練」などを掲げ、1942年2月2日に新設された。全階層の女性を国家総力戦体制に動員するのを目指すあたり、現在の「一億総活躍社会」を連想させる。1945年6月13日解散、国民義勇隊女子隊に改組編入された。
「隣組」から「ご近所の助け合い」へ
敗戦後、昭和22(1947)年、隣組はGHQにより禁止されたが、その後も下部組織であった町内会、自治会などが現在に至るまであちこちで残っている。
本シリーズ 第2回 では、近代福祉が始まった明治以降の日本において、社会福祉に関連する法令には、ときどき小さな違いはあるけれど、法律がカバーできない福祉分野においては、地域社会における「
「隣保相扶の情誼」が培われてきた舞台が、まさに住民の相互監視の装置でもあった五人組や隣組であったわけである。
*11. 隣保相扶の情誼(りんぽそうふのじょうぎ)「隣近所で仲良く助け合う間柄の情けやよしみ」という意味。昭和13年制定の社会事業法に記された表現。本シリーズ第2回参照。
昨今の「地域で支えるひきこもり」運動の全国的な盛り上がりには、かつての五人組や隣組の再来を想わせるところがある。
「一億総活躍」などというフレーズも、表面的には生産的かつ愛国的であり、どこか明治時代の「富国強兵」や、戦前の「国力増強」、果ては戦中の「一億玉砕」を連想させる。
また「地域で支えるひきこもり」が基盤を置こうとしているのは、まさに現代版の「隣保相扶の情誼」であると考えられる。
「隣近所で仲良く助け合う間柄の情けやよしみ」といえば、いかにもそれぞれの地域における心温まる人間関係が連想されるが、それはあくまでも陽面にすぎず、その裏には相互監視や干渉といった陰面が隠れているのである。
政治や政策として検討されるときには、この陽面だけが語られる傾向がある。
しかし感性の鋭いひきこもりは、ただちにその陰面へと思考が向かうのである。
長い歴史のなかで五人組や隣組で培われてきた、「地域」の関係が持つ陰面は、すでに日本人の国民性の一部をなしていると思われる。やはり個人主義が発達していない日本においては、地域や近所でまとまって活動することが、もともと国民性からして性に合っているのではないだろうか。
近年、日本の外国人人口は急増しているが、だからといって日本人の国民性がそう簡単に変わるとも思えない。
地域の活動となると、率先して出てくるアクティブな人が、どこに地域にもいるものである。そして、そういう人はお節介を焼きたがる。
村落共同体の崩壊とともに一時は疎まれるようになった、この「お節介」という行動も、近年は児童虐待の防止や犯罪をおかした青少年の更生のために、「OSSEKKAI」や「おせっかい」などとして再評価されるようになってきた。(*12)
「OSSEKKAI」「おせっかい」が児童虐待防止や青少年更生の領域において成果を上げているのであれば、それは私が口を差しはさむ問題ではないかもしれないが、しかしそこで危惧されるのは、それらの領域で成果を上げたという実績をもとに、そうした運動が「地域で支えるひきこもり」運動とこのさき合体し、次の「OSSEKKAI」の対象をひきこもりに広げてくるような場合である。
私自身をふくめて、ひきこもり当事者たちは、それを歓迎するとはとうてい思えない。
・・・ 第4回へつづく
<プロフィール>
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2020年10月、『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)刊。
Twitter : @vosot_just