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「地域で支えるひきこもり」を考える 第4回 ひきこもりと地域福祉

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写真・ぼそっと池井多

文・ぼそっと池井多

・・・第3回からのつづき

www.hikipos.info

 

福祉分野によって支援原理はちがう

本シリーズでこれまで見てきたように、現在の地域福祉の法的根拠となっている社会福祉法が制定される以前から、「隣保相扶りんぽそうふ情誼じょうぎ」と表現される地域の人間的なつながりがずっと古来からあり、それぞれの時代の為政者たちはそれを利用して五人組や隣組などをつくり、ときには地域住民たちを相互監視させて統治をおこなってきた。

そこにあったのは、現代でいえば「ご近所の助け合い」の精神でもあったことだろう。

 

「隣保相扶の情誼」にもとづいて、地域社会でケアを必要とする人に支援をおこなう、すなわち今日でいう「地域福祉」を実践することは、いくつかの福祉分野においてはおおいに有効に機能してきた。

たとえば代表的なのが、高齢者福祉である。

体力的に弱ったお年寄りがわざわざ遠くの不慣れな土地へ行かなくても済むように、地域の中で支援を完結させることはまことに理に適っており、支援者も被支援者もそこから実利を得る。あえて支援から縁の薄そうな経済的概念と掛け合わせれば、「支援効率が高い」とも表現できるのである。

人は誰しも齢をとるため、高齢者福祉においては地域住民の誰もが支援者から被支援者へといずれ立場を変えることが考えられる。すなわち、地域の構成員がみな等しく潜在的にその支援制度の受益者であると理解される。

すると、「支援されるのは順番」として納得され不公平感が起こらない。

 

また、誰もが支援される立場になるから、被支援者が恥の意識を持ったり、負い目を感じたり、屈辱をおぼえたりすることは相対的に少なくなる。もちろん、なかには支援されることを恥や屈辱に思うお年寄りもいるが、それはたいてい加齢そのものへの落胆であるとか、別の要因から生じている感覚であることが多いらしい。

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ひきこもり支援は地域福祉と相性が悪い

いっぽう、ひきこもりという状態には、地域住民の誰もがなるわけではない。

ひきこもりへの理解を呼びかけるために、よく「人は誰でもひきこもりになりうる」といわれる。それはある程度は本当だが、人が高齢者になる確率に比べれば、ひきこもりになる確率はかなり低いことは否めない。

 

そのため、ひきこもり支援に関しては「支援されるのは順番」とは考えにくく、その点から不公平感が持たれることがある。その結果として、

「お前は働かないのに、支援してもらえていいね」

と妬みを買ったり、皮肉が被支援者にぶつけられたりすることもある。

ただでさえ、被支援者は恥の意識を持ちやすいからひきこもりになったのだ、ともいえる。そこへそういうことを言われたり、あるいは、口に出さなくても態度で臭わされたりすると、たちまちひきこもりはよけいにひきこもる。

また、ひきこもりに限らず、「支援される」ということ自体が、往々にして人間として下位に序列された感覚をもたらすものである。

 

このように考えてくると、高齢者福祉に代表される「地域住民の誰しもが被支援者になる支援」と、ひきこもり支援に代表される「地域住民のなかの特定集団だけが被支援者になる支援」は、同じ支援原理をもって検討することはできない、と結論せざるをえない。

前者は地域福祉に向いているが、後者は向いていないのである。

乱暴にいえば、ひきこもり支援は地域福祉と相性が悪いのだ。

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ひきこもりをめぐる二つのディスクール系

それでは、ひきこもり支援の対象となる特定集団の地域住民は、どのような特徴を持つのだろうか。

もちろん、「ひきこもり」という状態そのものが特徴であるわけだが、その状態を生みだす心性の特徴は、どのように表現されうるであろうか。

それがわかれば、支援の原理や方法も解明されてくるだろうというものである。

 

その問いを考えるとき、私は、ひきこもりでないいわゆる「ふつうの人」たちと、ひきこもり当事者たちがそれぞれ語っている、別々の系に発達するディスクール(*1)があると想定してみる。文化人類学や社会心理学において異文化コミュニケーションが研究されるときにいう「異なる言語を話している状態」だと考えてみるのである。

 

*1. ディスクール(仏:discours)話される言葉のつながり。語り。政治演説も孤独なつぶやきも共にディスクールになりうる。

 

「異なる言語」といっても、日本であれば、それは日本語という同じ言語である。

しかし、ひきこもりを問題として抱える家庭において、親御さんと子どもであるひきこもり当事者は、どうしてもお互い話が噛み合わないことが多い。

それは、いわゆる世代間ギャップ以上の齟齬である。たとえば20代のひきこもりの子を持った50代の親と、長期高齢化した50代のひきこもり当事者という同じ世代の者同士でさえ、立場が親と子と分かれるだけで、両者は異なる系のディスクールを話しているものである。

 

親御さんが語るのを正論ディスクール、当事者が語るのを真論ディスクールと呼ぶことにする。

 

親御さんは、いらだって当事者である子どもに言う。

「働きもせず、稼ぎもせず、どうやって生きていくつもりだ。お金が空から降ってくるとでも思っているのか」

なるほど、正論である。この問いに直接返答しようと思ったら、ひきこもり当事者の反論は成功しない。

そして、支援者の多くも、親御さんとこうした言語を共有している。

 

支援者の養成講座などでは、

「ひきこもり当事者を傷つけるような干渉的・侵襲的な物言いは避けましょう」

などと教えているようだが、私が一人の当事者の立場から考えるに、当事者を傷つける支援者の言葉は必ずしも干渉的・侵襲的なものではなく、むしろ言葉ぜんたいの流れ(ディスクール)がちがうために軋轢あつれきが起こる、と考えるべきだと思うのである。

 

正論は、いわば政治の言葉である。

そのまま選挙のときに候補者が真昼の選挙カーの屋根の上に登って、大音声にしたマイクでしゃべっても違和感のない言葉なのである。

象徴的にいえば、これは昼の言語である。

社会の表層は、こういった正論でできている。

支援の制度が設計されるのは、ほとんど政治の現場においてである。シンポジウムやフォーラムなど社会の表舞台で語られるときも、ひきこもり支援はおおかた政治の言葉で表現されている。

  

いっぽう、ひきこもり当事者の思考や考え方や感じ方は、政治の言葉では語りえない。それらは選挙カーの屋根の上から演説するのには適さないのである。

では何かというと、夜、人々が寝静まったころにポツリポツリと語られるつぶやき、もしくは感覚のざわめきである。

それらはたしかに世にいう正論ではない。では間違っているのだろうか。

そうではないのである。正論ではないが間違ってもいない。それらは別の次元において真実なのである。

そのため、このような系に展開するひきこもり当事者たちのディスクールを、私は真論と名づけさせていただいた。

いわば夜の言語である。

世の中の深層は、こういった真論でできている。

 

正論真論という二つのディスクールの系は、そのまま本シリーズ 第3回 で述べた制度の陽面陰面に呼応しながら、異なった位相に展開している。

そして、ひきこもりを問題とする家庭のなかや、ひきこもり支援の現場において、どうにも議論が噛み合わない些細なすれちがいを生みだしているのである。

 

たとえば、「地域で支えるひきこもり」の出発点ととして、よくひきこもりを「地域で見守る」という。

それは、たいへん温かく、また正しく聞こえるフレーズだ。そのまま選挙ポスターにも書けるような政治の言葉である。

しかし、ひきこもり当事者たちがこれを聞けば、「地域で監視される」ということになるのでは、と感覚がざわめく。

二つのディスクール系
正論 真論
家族・支援者の思考 ひきこもり当事者の思考
政治のことば 感覚のざわめき
昼の言語 夜の言語
制度の陽面 制度の陰面
社会の論理 ひきこもりの心性
表層心理 深層心理
演説・講演 ぼやき・つぶやき
外向的 内向的
タテマエ ホンネ
人間交流 人間不信
共同体の調和 個人の尊重
協調性 独自性
包摂 包囲
多数決原理 個人の尊厳
インサイダー アウトサイダー
社会の中に生きている 社会と対峙している
地域で見守る 地域で監視する
親切心 おせっかい
「あなたのこと心配だから教えて」 「好奇心で知りたいんだろう」
「まあ、かわいそうに」 「他人の不幸は蜜の味」
「助けてあげる」 「優位に立ちたいのだろう」

 

また住民の方が自分の地域のひきこもり当事者に、

「あなたのことが心配だからもっと教えて」

と親切心で言ったとしても、ひきこもりは

「そんなことを聞いて、どうするの。どうせ自分の好奇心を満たしたら去っていくだけだろう」

と感じる。

これは、私自身の体験から来る実話である。たんに被害妄想なのではない。過去に何度も、そのように好奇心から他人ひとの事情を聞くだけ聞いて、あとは去っていき、近所の噂話のネタにされた経験から育ってきた感覚である。

政治の言葉で「地域社会」が取り上げられるとき、そこでは「温かい人情」「助け合いの絆」といった肯定的な連想ばかりが語られ、そこに他人を好奇心の餌食にする陰険な人はいないことになってしまう。

そういう傾向があるから、ひきこもり当事者は政治の言葉に不信感を持っているといってもよい。

 

また、地域の人は、

「まあかわいそうに。ひきこもりなのね」

などと、やさしい言葉をかけてあげているつもりなのかもしれない。

しかし、聞いているひきこもりとしては、

「なぜ、こちらがかわいそうでみじめな人にならなくちゃいけないんだ。そもそもこいつは、人に憐れみをかけるふりをして、『他人の不幸は蜜の味』と楽しんでいるのだろう」

と捉えるだろう。

 

また、これはひきこもりに限ったことではないが、支援者が被支援者に、

「助けてあげる」

という言葉をかければ、 

「どうせ自分の方が立場が上で、『優れている』って言いたいのだろう」

というように感じる。

 

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こういうひきこもりの感じ方を、社会でりっぱに活躍できている人の立場から、

「ひねくれている」

「疑心暗鬼になっている」

「被害妄想だ」

などと批判したところで何も始まらない。

ひきこもりがそう感じる以上は、そういう心性に基づいた支援を設計していかなければ、支援の意味がないのである。

なぜならば、支援とは支援者の「支援をしたい」という欲望を満たすために行うものではなく、当事者は支援者の支援欲を満たすための存在としてそこにいるわけでもないからである。

  

シンポジウムで成功例が語られる理由

ひきこもり支援に関連するシンポジウムやフォーラムへ行くと、「地域で支えるひきこもり」の成功事例がよく語られる。そういう事例を聞いているうちに、

「なあんだ。うまく行ってるじゃないか。もう、ひきこもりは地域で支えていけばいいんだ」

という印象を多くの関係者が持ち帰る。

それでは、こうした現実はどのように考えたらよいのだろうか。

 

軽度事例の抽出

まず第一に考えるべきことは、ひきこもりは行政の立場からは把握しにくい存在である、という事実である。

たとえば、ある自治体が「地域の80歳以上の高齢者に訪問支援アウトリーチをする」という施策をおこなうとしよう。対象者の集合は、戸籍や住民票などから簡単にリストアップできる。

ところが、地域のひきこもり当事者を対象に同じことが同じようにはできない。行政は対象者が地域のどこに住んでいるかを基本的に把握できないのである(*2)。ひきこもりは社会の表に出てこないからひきこもりなのだ。そういう意味で、私はひきこもりを「見えない人口(invisible population)」と表現させていただくことがある。

 

行政が例外的に把握しているひきこもり当事者は、すでに本人が地域社会とつながりを持ち、管轄の民生委員などと連絡を取っていたり、当事者自ら名乗りをあげて、支援や相談の窓口にやってきたりした、いわばひきこもり全体からすれば少数派であることが多いように聞こえる。

このような、地域社会の一員として行政に参加しようという当事者は、社会や地域への信頼感を失っておらず、「社会復帰」(*3)をしようという意思も堅い、と考えられるだろう。

 

*2. 最近では、高齢者の介護のために家庭に入ってきたヘルパーなどが、介護対象者ではないひきこもりを副次的に家庭内に「発見」することにより行政が把握するケースが増えているようだが、こうして把握される当事者が地域へ厚い信頼を寄せているとは考えにくいことは明らかである。

*3. 社会復帰 私は、ひきこもりがひきこもりでなくなることを「社会復帰」と表現することに大きな違和感がある。社会から疎外されずにひきこもりに留まる可能性を否定する表現だと思うからである。

 

ところが、こうした当事者はひきこもり全体の集合からすれば、比較的に軽度なケースと推測されるのである。少なくとも平均的なひきこもりとは考えがたく、ひきこもりの全体像を捉えるためには妥当なケースとも思えない。

このような当事者は、本人から行政の支援につながってきた時点で、その支援はすでにおおかた成功しているとも考えられ、その後の支援の方法論に成否の大部分がかかっているわけではないのである。

にもかかわらず、支援の方法論の成功事例として、このような表舞台で報告や紹介をされることには、ある種の情報操作を感じざるをえない。

 

失敗例は語られない

第二に、報告や発表の場において、支援者は自分が成功した事例だけを詳細に語り、失敗した事例はその苦労を語るのに留める傾向がある。

成功しなかった事例を報告しなくても、べつに虚偽報告になるわけではないので、そこは許容されるだろう。

しかし、一つの成功の裏に、その何倍、何十倍もの失敗が隠れている現実が聴衆に伝わらないと、報告された成功例が「一事が万事」であるかのような印象を生み、ひいてはこの問題の全体像が歪められて持ち帰られることにつながっているのではないだろうか。

 

支援者視点の成功にすぎない

第三に、そういう場で発表されるひきこもり支援の成功というものは、「支援者から見たときの成功」にすぎないという事実を忘れてはならない。

いいかえれば、客観的・絶対的な意味での成功などではありえないわけである。

また当事者から見れば、その支援の方法論には問題点が満載であり、ときにはそれは成功どころか失敗に近いのだが、そういう場ではそういう発言はなされない。なぜならば、一般当事者はそういう場に参加していないか、あるいは参加していてもほとんど発言しない、もしくは発言できないように進行するからである。

そのため、そういう場に参加している当事者の存在が、あたかもそれらが支援の成功例であるという支援者の主張に当事者たちも同意している証拠として作用し、そのように歪められた結果が社会に伝達されることになる。

 

多方向から働く心理圧力

第四に、シンポジウムやフォーラムは一種のお祭りであり、支援者同士の社交界として機能している側面があるということを無視してはならない。

支援者の方々にも人づきあいがあるから、そういう場では他の地域で活躍している支援者たちと旧交を温めあう。その和気藹々とした雰囲気のなかで、支援者たちは互いに互いの活動を讃え、自分たちのやっていることを認めあって、支援業界全体を盛り上げていく。そのような「アゲアゲ」の空気のなかで、失敗例を語ることは違和感をもたらすのである。

なぜならば、一つにはやはり空気が暗くなるからだろう。せっかく年に一度や二度のお祭りで盛り上がっているのに、「盛り下げる」発言者は異分子となりやすい。ひきこもり当事者のなかには、自ら好んで異分子となる人が多いが、支援者のなかではそういう人は少ないのである。また、そういうことが社会常識と呼ばれたりする。

もう一つには、支援者たちのあいだにもプライドや競合意識があり、他の支援者たちがそれぞれの失敗を語っていないのに、自分だけ失敗例を語るとなると、あたかも自分が支援者として無能であるかのようになってしまい屈辱を感じるからではないだろうか。

 

こうしてシンポジウムやフォーラムなど報告の場では、「地域で支えるひきこもり」の成功例だけが多く語られることになるが、これをひきこもり当事者からすると、支援者たちが当事者たちの感覚を置き去りにして、内輪だけで盛り上がっているように見えることがある。

 

これらの考察は、私が一人のひきこもり当事者として、先の述べた真論系ディスクールから、正論系ディスクールの場である支援者たちのシンポジウムやフォーラムを記述したものであるともいえる。

 

 ・・・第5回へつづく

 

<プロフィール>

ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2020年10月、『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)刊。

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