・・・「第4回」からのつづき
文・子守鳩
なぜ教団に入ったのか
「真理幸福学会(仮称)」と聞いても、今は知らない人の方が多いと思いますが、私が勧誘された1990年代中頃は有名で、オウム真理教と双璧をなすカルト宗教として世間から忌み嫌われている団体でした。
「霊感商法」と称して、先祖からの祟りを取り除く効果があるとする商品を売りつけたり、教祖が決めた人と問答無用で結婚しなければならず、たくさんのカップルが一斉に挙式する「合同結婚式」のことなどは、真理幸福学会にまつわる話題として、連日のようにテレビのワイドショーなどで取り上げられていましたから、私も当然それらの噂は知っていました。
にも関わらず、なぜ私は真理幸福学会に入ったのでしょうか。
理由として一番大きかったのは、ある程度教えの内容を学ぶまで、私はそこが真理幸福学会だとは知らされていなかったからです。
ビデオセンターでいくつかのビデオを見たり、講義を受けたり、そのあとで二日間の短い合宿に参加したりして、私は一通りの教義を最後まで学びました。
教団には私の知る限りで三つの合宿コースがあり、それぞれ期間は二日間、六日間、四十日間となっていて、長くなるほど内容は本格的でした。
私は二日間の合宿を終えると、つぎに六日間の合宿へ参加することになりました。
このときは、サークルボックスから夜に車で出発し、山奥にある別荘のような研修所に真夜中に到着しました。
山奥なので電車もバスもなく、初めて訪れる場所なので帰り道すら分かりません。そんな状態で、夜中なのにさっそく講義が始まりました。その講義の中で、ようやく団体の正体は真理幸福学会であると明かされたのです。
私は少なからずショックを受けましたが、今まで見てきたビデオや受けてきた講義によって、すでに教えの凄さに感銘を受けていたので、私はとくに抗うこともなく、そのままそこで学び続けていくことにしました。
つぎに、私がその真理幸福学会に入った理由として大きいものは、教団での人間関係が素晴らしかったことです。
先輩たちはとにかく優しさと思いやりに満ちていて、私は生まれて初めて人の優しさに触れた気がしました。親からの暴言と暴力で虐げられてきたので、たとえ親との関係が切れたとしても、教団との関係は捨てたくないと感じるほどの愛着を感じていました。
もしも私がもっと温かい家庭で育っていたら、このような経緯で宗教団体に入ることもなかったように思います。今にして思えば、のちにひきこもりになることも、20代で教団に入ったことも、私の生きづらさから始まっていて、その生きづらさの根っこには、どうしても幼少期の家庭の空気が思い起こされるのです。
こうして私は、さらに長い四十日間の合宿にも参加し、教団の教えをより深く理解していくようになりました。それと共に、いつも教団で感じている優しさと思いやりに満ちた人間関係を広げていけば、世の中には争いもなくなり、世界のみんなが幸せになれるのではないかとも思うようになっていきました。
家族に反対される
教団で学んでいることは、初めは家族に秘密にしていました。
教団からも口止めされていたのです。
「家族や友人に話しても、どうせ反対されるだけだから、ある程度学んでしっかり説明できるようになるまでは言わない方がいい。家族や友人に伝える時期や伝え方は大事なので、一緒に考えていこう」
と先輩から言われて納得していたのです。
そのため、満を持して家族に打ち明けるまでには、それからさらに2年の歳月を要しました。
教団の先輩の指示に忠実に従い、まずは家族の中で誰が一番味方になってくれる可能性が高いか、その選定から始めました。
当時、最も柔軟性のある考え方を持っていると思えた家族は母親でした。分からず屋の父親は論外であり、妹二人とはもともと疎遠でした。となると、消去法で母親だけが残りました。
私は意を決して母親に打ち明けることにしました。
「お母さん、ちょっといい?」
「なに?」
「真理幸福学会って知ってる?」
「なにそれ?」
「いろんな大学が集まっているサークルで、宗教と科学の統一とか学んでいるところだよ」
「なにそれ、宗教じゃないの? 宗教なんてやめときなさい」
「違うよ。宗教的なことも学んでるけど、宗教団体じゃなくて学生団体なんだよ」
「同じでしょうが」
ここまで母親の対応を見て、私は心の中で、
(あぁ…やっぱりだめそうだな… 真理幸福学会のことも知らないようだからもっと分かるように言わないとダメだな…)
と思いました。
そこで、真理幸福学会の信者として有名なタレントの名前を挙げ、
「あの人も参加した合同結婚式もやったりしてる団体だよ」
と説明してみました。
すると、母親はその団体を知っていました。
「それって、あの真理幸福学会のこと?」
「そう」
「霊感商法もやってるとこでしょうが。そんなところ、ダメに決まってるだろ! あたしゃ絶対ゆるさんぞ!」
こうして案の定、大反対されました。
母親からは勘当だと怒鳴られ、妹からは
「私、結婚できなくなる。縁を切る」
とも言われました。
父は激怒、母と妹は涙を流して反対しました。
家族からの反対は想定内ではありましたが、少しがっかりしました。
もともと暴言と暴力が基本の家庭ではありましたが、真理幸福学会と明かして以降は、余計に居心地も悪くなり、教団に通ったり合宿に行ったりするのも難しくなっていきました。
そこで私は大学4年の時、思い切って教団の信者が共同生活をしている独身寮に入るために、スポーツバッグ一つに服を詰め、家に置き手紙を残して家出しました。理解を求めても埒が明かなかったし、怒り狂った親はそもそも対話のテーブルにも着こうともしなかったからです。
就職活動を迎えて
大学4年の時から始めた信者としての共同生活は、その後約10年間も続きました。
家出した当初は、
「大学卒業後は教団に就職しよう」
と思っていました。
もともとサラリーマンにはなりたくなかったし、教団内の人間関係が心地よかったし、先輩たちに続いてこの教えを世の中に広げていくのは、仕事としても一番やりがいがありそうだ、とも思ったからです。
いざ大学卒業を控えたときには
「就職活動をしようか」
と一瞬迷いました。
しかし当時は就職氷河期の真っ只中で、大学に来ていた求人票を見ても、入りたくなる会社もなく、やりたくなるような職種もありませんでした。
真理幸福学会の関連企業にはいくつか応募しましたが、幸か不幸か全部落ちました。
それで企業への就職にはすっぱりと諦めもつき、真理幸福学会の職員として働くことに決めました。
教団の職員として働くのに、正式に応募したり履歴書を書いたりする必要はなく、その時住んでいた独身寮の寮長と面談して、そのまま寮内での仕事をしていくことになりました。
そこでの仕事は主に勧誘でした。大学や街頭に行って若者に声を掛け、アンケートを取り、ビデオセンターに連れてきて話を聞いてやり、お茶菓子を出したりビデオを見せたり講義をしたりしていました。
いろいろな大学に行って勧誘しました。
どうやら私は、勧誘員としては優秀だったようです。実績が認められ、関東甲信越地区を統括している東京ブロックのスタッフに栄転するになりました。そこでは勧誘よりも高度な対応力を必要とする、合宿の専属スタッフとして働くようになりました。
ここでも私は問題なく仕事をこなしていきました。
通常の人事では、そこから副寮長や寮長へとステップアップしていきます。
ところが、そこで困難が待ち受けていたのです。
訪問販売の辛さ
教団の中で順当に昇格していくためには、私がこなしてきたような若者を対象とした勧誘と、一般家庭を対象とした営業の両方で、相当の実績を残していなければなりません。
営業とは主に、一般家庭を訪ね歩いて布巾を売る訪問販売です。
1袋に3枚の布巾が入った、原価500円ほどの商品を2000円で売るのです。
明らかに市場価格よりも高いのですが、
「利益は障害者施設に送りますので、援助としてご購入お願いします」
と言って売り歩くのでした。
ご想像の通り、なかなか売れるものではありません。
これが辛くて教団を辞める人もいました。
私も、もともとこういったことが大の苦手で、辛くて辛くてたまりませんでした。
でも教団の教えでは、このように言われていました。
「これは単なる訪問販売ではない。
個人の信仰を強め、人格の向上も兼ねた訓練であり、神に帰っていく修行である。
また、任地の一般家庭の人たちの愛の心を向上させる支援でもある」
そのため、教団の人間として生きていく以上、この仕事から逃げることはできませんでした。
朝7時から夜の9時半まで売り歩いても、私の売り上げはせいぜい1万円前後、つまり5袋程度しか売ることができませんでした。
当時、最低ラインと言われていた1日の売り上げが3万円でした。つまり私の成績は他の信者たちの3分の1にも届かなかったのです。
副寮長、寮長という教団の職員になっていくためには、平均売上5万円、自己最高10万円突破というのが暗黙の了解として求められていました。
私のようなな営業実績では、本来とても教団の職員にはなれないのですが、私の場合、勧誘の実績が良かったことが認められたのか、例外的に正式職員として採用してもらえることになりました。
・・・「第5回」へつづく