「遊ばない」ためのテレビゲーム
私にとってひきこもりは、「社会からの孤立」の問題ではない。
「〈喜び〉からの孤立」の問題だ。
私は長いあいだ引きこもっていて、「自分は喜びを感じてはならない」と思っていた。
「不登校」のころからそうだ。
同級生が勉強をしている時間に、自分だけ遊んでいるわけにはいかない。
大人になってからも、「落ちこぼれの自分が楽しむわけにはいかない」と、〈喜び〉を遠ざけていた。
心から楽しむことを、自らに禁じていたのだ。
テレビゲームはしていたが、それは「遊び」のためのものではなかった。
通常、ゲームは娯楽だと思われるだろう。
現実逃避の効き目もあるが、それは表面的な見方にすぎない。
私の内面では違った。
ゲームはむしろ、自分から「遊び」をなくすためのものだ。
長時間ゲームだけに没頭していれば、新しい出来事は何も起こらない。
興味の湧く音楽や映画と出会うこともなく、リアルに感動させられることもない。
余裕のある「遊び」だと、人とのつながりが生まれたり、興味の幅が広がったりする。
しかし私にとってのゲームは、人との関係の遮断であり、興味の対象が広がらないための、自前の視野狭窄(しやきょうさく)だった。
親からは、「ゲームばかりしている」と言われて嫌がられた。
私が暗い表情で、不健康に過ごしていることを心配されもした。
だが、それこそ私が長い時間ゲームをしていた理由の一つだ。
もしも私が明るく、感情豊かに、「遊び」のあることをしていたら、親は何と言っただろうか?
「そんなに元気なら働け」、であったり、「楽しいことがあるなら外に出ろ」、と言うに決まっている。
それでは不都合なのだ。
楽しそうにすることが、家で過ごす障害になってしまう。
その点、長時間のゲームは「楽しそう」な度合が少なく、感情的な「遊び」になりづらい。
喜怒哀楽の感情を平坦にし、刺激的な物事にふれない効果を持っている。
私は何年もゲームをしつづけて、自分の喜びになるものを遠ざけることに成功した。
日々を過ごしていきたいと思えるような、〈生きがい〉がなくなったのである。
高齢者に大事な「きょういく」と「きょうよう」
ところで、福祉関係の本を読むと、高齢者には「きょうよう」と「きょういく」が大事だといわれている。
「きょういく」は「今日行くところ」、
「きょうよう」は「今日の用事」のことだ。
長年会社勤めをしてきた男性の場合、定年退職後に、社会や人とのつながりがなくなりやすい。
「今日行くところ」がなくなり、「今日の用事」がないため、孤立しやすい傾向にある。
そのため、「きょういく」と「きょうよう」が大事だといわれているのだ。
私は年齢こそ若かったが、「きょういく」も「きょうよう」も失っていた。
(小学校から行かなかったため、「教育」と「教養」こそなかったといえるが。)
〈生きがい〉をなくしていたといっていい。
自分のしたいことや好きなことがないと、日々を過ごしていくための推進力が失われてしまう。
私の一日は長くなり、人生は短くなっていた。
二千年前のローマで、すでに『人生の短さについて』という本が書かれている。
漫然と過ごしていくだけの毎日では、人生はあっという間に去ってしまうという教訓の書だ。
教育書の古典『エミール』を著したルソーも、こんな言葉を残している。
『もっとも多く生きたひととは、もっとも長生(ながいき)をしたひとではなく、生をもっとも多く感じたひとである。』
いくら長く生きても、充足感が増すわけではない。
目を覚ましてから、その日のうちにやりたいことがある、というのは、豊かな〈今日〉を生みだすことだ。
そしてそれは、豊かな明日を生みだすことでもある。
「将来どうあるべきか」という逆算をして〈今日〉を考えるよりも、よほど有意義なとらえ方ではないだろうか。
〈今日〉にたくましさを与え、〈明日〉へと推進させるような、生命の膂力(りょりょく)となるものが、〈生きがい〉であると思うのだ。
私は、一日を過ごせるだけの生きがいがほしい。
その第一歩となるのは、ほんの少しだけ積極的に、(あくまでも、無理のない範囲で、)「きょういく」と「きょうよう」になるものを、自分に許すことではないかと思っている。
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文 キクイ ヤシン
1987年生まれ。詩人・ライター。個人ブログ http:// http://kikui-y.hatenablog.com/
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