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「学生時代を失う」ことの本当の意味を誰もわかっていない 10年のひきこもり経験者だから語れる〈コロナ禍〉の悲劇

 

コロナ禍によって、子供たちの学校生活は一変しました。「修学旅行に行けなかった」、「部活の大会が中止になった」など、多くの声が上がっています。しかし不登校・ひきこもり経験者のキクイさんは、「本当に失われたもの」は他にあると主張。本当の「喪失」とは何かを語ります。

 

(文 キクイ シンヤ/Photo by Pixabay

 

十代を「失った」経験


私ほど「子供時代」を失った者はいない。

 

私は八歳から学校通学がなく、中学の頃は同世代との会話さえなかった。

テストを受けたことがないので、「偏差値」というものは出たことがない。

教師は成績を示しようがなく、通知表はいつも斜線が引かれているだけだった。

「平凡な学生時代」を、私は経験してこなかったのだ。

 

この三年、コロナ禍で学生生活が「失われた」と感じる子どもたちが増えている。

「修学旅行に行けなかった」、「部活動の大会が中止になった」など、学生時代の「喪失」を訴える声は多い。

大人たちにとっても、子供たちに毎年の催事を提供できなかったことは、悔いになっているだろう。

各種のメディアも、子供たちが「楽しい出来事」を経験できなかったことを強調して報じている。

 

しかし、「楽しい出来事」がなくなったことだけが、「喪失」なのだろうか。

私は自分の長い「不登校」経験から断言するが、「子供時代の喪失」は、「楽しいことが経験できなかった」ことにあるのではない。

 

 

コロナ禍で「本当に失われたもの」


コロナ禍によって失われたのは、第一に基本的な「日常」だ。

それは修学旅行や部活動の大会ではない。

子供たちの「日常」に、スポーツに打ち込む青春ドラマや、少女マンガの恋愛話のような、劇的な展開はないだろう。

アニメでいえば、『ちびまる子ちゃん』的な世界だ。

ろくでもないことをして失敗したり、どうでもいいことにこだわって怒られたりする、パッとしない日々に「日常」がある。

有名でも特別でもなく、夢や希望に輝いているわけでもない。

 

その日常にあって、もっとも典型的な状態は何か。

私はコロナ禍で子供たちから失われたものは、「倦怠(けんたい)」だと思う。

「あきあきすること」や「だるい状態」を意味する言葉だが、「倦怠」を失うことの何が問題なのか、多くの(安全な子供時代を過ごした)人には理解できないかもしれない。

だがひきこもりだった私には、「日常」の営みのなかの、「倦怠」の重要性がよくわかる。

 

大人になってから学生時代の話をしたとして、それは輝く思い出ばかりだろうか。

「修学旅行がいかに楽しかったか」や、「部活の大会でどれだけ仲間たちとともに努力したか」を、そこまで熱心に語りあうだろうか。

職場の雑談や同窓会で語られるのは、むしろ「あの授業中のダルさ」とか「あの教師のウザさ」とか、青春時代の長々とした倦怠であり、十代のころの無感動な毎日ではないか。

休み時間に手持ち無沙汰でグダグダし、用事もなく放課後にダラダラし、友達の家に集まってウダウダする。

力を振りしぼった一日や、SNSで大量の「いいね」が集まる瞬間ではない。

 

だが同世代たちとグダグダしている時間は、私からすると、まぎれもなく羨望に足る経験だ。

私は十代の終わりになって、自分の子供時代への激しい虚無感に見舞われた。

私が渇望したのは、特別な経験よりも、学生時代にあふれる「倦怠の共有」だ。

 

 

同世代と「倦怠」を共有できなかった

 

いきなりだが、「良い葬儀」を考えてみてほしい。

親戚や友人と、大切な故人のことを話しあったときに、どんな話題がふさわしいだろうか。

故人がどれだけ成功したかとか、どれだけ他人から賞賛されたかという話は、親密だった人には向かないだろう。

特別な瞬間よりも、日常的な惰性のなかで、「こんなくだらないことをしていた」とか、「こんな癖があった」といった話の方が、親しい人の話に向いているはずだ。

その点では、相手と過ごした特別な一日よりも、「倦怠」のある緩慢な日々が、人との結びつきを深める。

 

「喪失」の例に修学旅行や部活動の中止を挙げる学生が目立つのは、それが特に強い「倦怠を共有する時間」になるせいではないだろうか。

修学旅行の場合、大勢の他人(クラスメイトたち)と一緒に寝泊まりせねばならない。

その居心地の悪さや気まずさに浸(ひた)る機会は、人生を通じてめったにないことだ。

「修学旅行に行けなかった」ことは、「倦怠の共有」ができなかったことを意味している。

「友達と一緒に楽しく過ごす修学旅行の思い出を失った」のではなく、「友達ではない大勢の人と一緒にグダグダ過ごさねばならない修学旅行の体験を失った」ということが、十分な「喪失」だ。

私が「学生時代」に体験できなかったことは、個人的な「楽しさ」だけではない。

大勢の同級生たちとの、集団的な「退屈の共有」や「不満感の共有」だ。

私にとっては、それらのネガティブな物事さえ羨望の対象だった。

 

コロナ禍は、同世代と過ごす「集団的な体験」だったはずの毎日を、一人で過ごす「個人的(プライベート)な体験」にした。

小難しい話になるが、「プライベート(private)」という言葉は、「プリヴェーレ(privare)」というラテン語を語源としている。

「プリヴェーレ」は「欠如」の意味を持つ言葉で、「集団から欠けたもの」というニュアンスがある。

「集団的」であれたはずの期間に、「個人的」でいるほかなかった経験は、それ自体が「欠如」的な経験だといえる。

 

 

「何もない」ということが「ある」

 

大人にとっての30日と、子どもにとっての30日はわけが違う。

大人にとってなんとなく過ぎていく30日は、子どもにとっての、ある年の夏休みのすべての日数だ。

ただ「30日が過ぎていった」のではなく、「子ども時代のひと夏のすべてが失われた」といえる。

それが一年二年とつづく光陰は、深甚な痛手を残しうる。

 

私は学生時代のほとんどが「不登校」で、一人の自室で過ごしてきた。

オンラインでもオフラインでも交流がなく、当然友達も恋人もいない。

二十代のころは、自分の子供時代は「何もない」と思えていた。

 

だが、今は様相が違って見える。

よく思い返してみれば、「何もない」どころではなかった。

 

「何もない」と思えていた渦中には、「何もない」なりの経験がある。

「何もない」という絶望があったとして、すでにその絶望が単純ではない。

多種多様な憎悪や怨嗟、虚脱や呆然、悔恨と遺恨、羨望と嫉妬が渦巻き、孤独の桎梏(しっこく)に全身が固まっていた。

私の「絶望」は多種多様な心理からなる、極彩色の絶望だった。

光り輝いているのではなく、闇の暗さにはなはだしいヴァリエーションがあったのだ。

 

余談だが、陶芸において黒一色の器は、「単色」や「無色」ととらえられていない。

黒は「すべての色彩を含んでいる」とされ、暗澹(あんたん)の中に無限の彩色を秘めるものとされる。

そのため「何もない」真っ黒な凡作も、目が肥えてくると「すべての色が込められた」名品だとわかるようになるものがある。

 

付け加えると、陶芸には「窯変(ようへん)」という言葉がある。

彩色した陶器を窯(かま)に入れ、長時間火にかけたとき、どれほど優れた陶工であっても、完成品の色彩がどうなるかは予測できない。

コントロールできないところに陶芸の妙法があり、「どんな色に見えるようになるかわからない」ところに、陶工の手業の精粋(せいすい)がある。

 

 

「経験の喪失」は「喪失の経験」になる

 

ささやかな実体験を元にして言うが、人生は、十年間引きこもって誰とも会話していなくとも、壊れない程度にはタフである。

(私個人はタフではないが、人生はタフである。)

少なくとも、学校通学の有無程度で壊れるものではない。

 

コロナ禍によって、「学生時代を喪失した」と感じている人たちは大勢いる。

だがその「何もない」ことの中身は、いくらでも賑(にぎ)やかにできるだろう。

コロナは現代の誰もが経験したことであり、世界中の人と共有できる。

個人的な「新しい日常」がうまくいかなかったとしても、おそらく集団的な「新しい倦怠」を共有できる日がくるはずだ。

「何もない」と感じる絶望の中には、同世代に共通の経験が秘められており、「窯変(ようへん)」のように、どうなるか分からないにせよ、「何もない」ままであるはずがない。

 

コロナ禍が「経験の喪失」を生んだとしても、それは同時に「喪失の経験」を生む。

もしも学生たちが、オンラインの授業でグダグダした時間を過ごし、ステイホーム中に友達とラインしながらダラダラし、ろくでもない日常をウダウダしながら過ごしているのだとしたら。

そこにはすでに、「倦怠の共有」がある。

それは私が十代のときに渇望し、心底うらやんでいた「学生時代」の経験だ。

 

 

 

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文 キクイ シンヤ(喜久井 伸哉)

1987年生まれ。詩人・ライター。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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筆者がなぜ引きこもったかについては、『冊子版 ひきポス』第1号他をご覧ください。

www.hikipos.info