ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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私が『ひきこもり』の写真を撮るとしたら、そこに写っているのはあなたの顔」

(文 キクイ シンヤ/ Photo by Pixabay)

※記事の一部に性的な表現を含んでいます。ご了承ください。

ひきこもりを表す写真とは

 

もし「ひきこもり」を写真で表すとしたら、どんな一枚になるだろうか?

 

参考として、世間の「ひきこもり」のイメージ画像を見てみよう。

 

ネットで「ひきこもり」と検索すると、すぐにウィキペディアの「ひきこもり」のページがヒットする。

だがウィキペディアには、「ひきこもり」のろくな写真が出てこない。

そもそも必要ないと思うのだが、なぜか「ギャラリー」という項目があり、「ひきこもり」の参考になるらしい3枚の写真が載っている。

 

引きこもり - Wikipedia(※画像は2022年5月25日時点)

 

一枚目はこれ。

「引き籠りの一人称視点の画像」というキャプションがついている。

これは「家の床がフローリングの人の一人称視点」にすぎないのではないか。

 

つづいて二枚目はこれ。

ツッコミどころは多いが、何があってこのイラストが載っているのかわからない。

実写だけでは「ひきこもり」を表せないと判断されたのだろうか。

 

 

そしてラストの三枚目はこれ。

キャプションは「引き籠りとインターネット中毒を併発している場合のイメージ」。

真っ暗な部屋の中で、パソコンを見ていない男がいる。

ネット中毒だと、部屋の明かりをつけないものなのだろうか。

 

しかし「暗い部屋」「男」「パソコン」というのは、「ひきこもり」の典型として使われてきたイメージだ。

現在のメディアで「ひきこもり」の記事が出るときでも、これらのイメージを踏襲していることがある。

 

次に、有名なフリー素材サイトの「いらすとや」(https://www.irasutoya.com/)を見てみよう。

ピンポイントで「ひきこもり」を描いたイラストはこの1枚である。

 

キャプションは『暗い部屋で夜中までパソコンのモニターに向かっている引きこもりの男性のイラストです。(公開日:2014/01/14)』。

さすが有名な素材サイトだけあって、「暗い部屋」「男」「パソコン」というツボを完璧に押さえている。

誰か知っていたら、部屋の電気をつけない理由を教えてほしい。

 

さらに「いらすとや」の「あいまい検索」をしてみる。

「ひきこもり」の画像を調べて、すぐに表示されるのがこれだ。

 

『学校に行かず暗い部屋の隅に体育座りをしている、登校拒否中(不登校・ひきこもり)の男の子のイラストです。(公開日:2015/01/31)』という。

 

「体育座り」は「ひきこもり」の典型像としてよく使われてきた姿勢である。

「ひきこもり」の部屋には、イスもソファも座布団もないと思われているのだろうか。

私は十年ほど引きこもっていたが、座るときにはイスを使っていたことを注記しておく。

 

そして「あいまい検索」は、「無気力なニートのイラスト」や「親を怒鳴る無職のイラスト」も同時に出てくる親切設計だ。

 

これらの検索結果を見て、私は今後絶対に「いらすとや」を使わないことに決めた。

 

2022年現在の「ひきこもり」のイメージは、ある程度多様化してきたといっていい。

女性や高齢者もおり、インタビューの趣旨を反映して、野外で笑顔を向けているイメージもある。

「ひきこもり」をイメージしたときに、「明るいところに女性がいる姿」が思い浮かぶようなら、現代的な「ひきこもり」像を持っているといえるだろう。

 

 

「ひきこもり」は「昼の街」にある

 

ただ、私は「ひきこもり」経験者として言わせてもらう。

それらは結局のところ、引きこもる人を外から見たイメージだ。

 

もし私が「ひきこもり」を表す一枚の写真を撮るとしたら、「暗い部屋」も、「男」の自分の姿も、「パソコン」も出てこない。

そして「体育座り」もしていない。

 

私の「ひきこもり」を表す一枚は、「昼の街」である。

平凡な住宅街を、親子連れや、スーツ姿の会社員や、学生服姿の若者が行きかう風景。

どこにでもあるような、ふつうの、昼間の街だ。

 

 

「昼の街」には「ひきこもり」の自分とは違う、一般の人々がいる。

それぞれに仕事を持ち、あれこれの用事で忙しくしている人たちだ。

それに対して自分は無目的で、平日の昼間に通勤・通学の予定はない。

「昼の街」こそ、自分の「ひきこもり」がもっとも強調され、辛くさせられる光景だ。

 

一方、「夜」の「家」は一人きりでいても不自然でなく、比較的落ち着いて過ごせる。

一人自宅で過ごしていたところで、「ひきこもり」であることは強調されない。

特に「パソコン」をしているときには世間からの圧力がやわらぎ、「ひきこもり」の苦しさは軽減されている。

そのため、「夜」に「家」で「パソコン」をしていることは、私にとって「ひきこもり」の「問題」からは遠い。

もっとも「ひきこもり」の苦しさがない状態なのだ。

 

「夜」に「男」が「パソコン」をしているというのは、どこにでもある光景だ。

昼間に外で働いていれば、必然的に「夜」に「パソコン」を見ることになる。

それは「一般人」のイメージ画像にすぎない。

せいぜい、「なぜか電気をつけずにパソコンをする人」か、もしくは「視力の悪化が懸念される人」のイメージ画像だ。

 

 

生きづらさを表現するイメージとは

 

「ひきこもり」に限らず、マイノリティ(少数者)についての記事の写真には、わかりやすさを重視しすぎるきらいがある。

本来「自分事」として悩めるはずのテーマでも、写真のせいでやけに「他人事」の目線が与えられてしまうのだ。

 

私は同性愛者でもあるので、LGBTについての記事を読んでも、気になってしまうことが多い。

(私は当事者性に事欠かないのだ。)

 

「ゲイ」がテーマになっている記事の場合、「男性が二人」のイメージ画像が典型的だろう。

しかし「ゲイ」である私にとっては、「同性愛」の問題とは「異性愛」の問題だ。

そのため「ゲイ」についての記事で、男性が二人寄り添っているのは問題の本質ではない。

(寄り添えるほどの同性パートナーがいるなんて、うらやましいことである。)

私の「同性愛」の苦しさは、「異性のカップルがいる光景」であり、「スーツ姿の男性とウェディングドレス姿の女性が結婚している光景」にある。

「同性愛」を辛くさせているのは「異性愛社会」であるため、平凡な「異性愛者」の光景こそ、「問題」を孕んでいるように見える。

当事者から見えている景色は、いつも撮影者と読者の背中側にあるものだ。

 

 

「レイプ被害の状況を想像してください」

 

これらと同様の視線の転換は、被害者と加害者の関係にもあてはまる。

精神科医の宮地尚子が、著書の『トラウマにふれる』(金剛出版 2020年)で浮き彫りにした点だ。

心的外傷について書かれており、その一節では、「レイプ被害の状況を想像してください」といわれて、何を想像するかが読者に問われる。

 

「レイプ被害の状況」……。

どのような光景が、思い浮かぶだろうか。

 

 

……宮地氏の本によれば、多く想像されるのは、「やめて」と叫ぶ被害者の顔、引き裂かれる服、もがく手足などだ。

それらは被害者の痛みを想像しているかもしれないが、根本的な問題がある。

 

それは、いずれも加害者側が被害者を見下ろす視点であり、ポルノ的な映像の構図と同様になっている点だ。

「レイプ被害」であるにもかかわらず、加害者側の視点になっている。

被害者が特に目にするのは、視線を覆い隠すような「のしかかる体」であり、「加害者の顔や手」であるにもかかわらずだ。

宮地氏によれば、アメリカのレイプ加害者への更生プログラムには、「被害者側から見た性暴力の映像を加害者に見せる」ものがあり、再発防止の効果があるという。

 

ここであらためて、「『ひきこもり』をイメージする一枚の写真」の話に戻りたい。

読者のあなたは、どんな写真を撮るだろうか。

 

私は、「ひきこもり」は「昼間の街」の光景だと言った。

平凡な街中を、一般の人々が行きかっている。

スーツ姿の会社員が、オフィスに向かって歩いて行く。

男女のカップルが、手をつないでショッピングセンターに入る。

学校帰りの若者たちが、友達と連れ立って通り過ぎていく。

私にとっての「ひきこもり」を表す一枚には、どこかの誰かの顔が写っている。

普段の生活で「ひきこもり」の視点に立つことのない、どこにでもいるような、誰かの顔。

それはつまり、読者であるあなたの顔でありえるのだ。

 

 

 

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文 キクイ シンヤ(喜久井 伸哉)
1987年生まれ。詩人・ライター。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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