KIKUI Shinya 2022 / Photo by Pixabay
会話が知性の催淫剤であるように、孤独は精神の催淫剤だ(シオラン)
私は〈孤独依存症〉であった。
この病名は一般に知られていない。なぜなら私がさっき適当に思いついた造語だからだ。
アルコール依存症やギャンブル依存症がそうであるように、「孤独」もまた人を失墜させる病巣である。
しかも「孤独」はどこにでも偏在し、いたるところ目に見えぬかたちで心身に侵襲(しんしゅう)してくる。
まるで精神的なハウスダストだ。
部屋の中で静かに過ごしているだけだというのに、いつのまにか体内をむしばみ、解消困難な不調をもたらす。
住居と違って自分の体から引っ越しができない以上、この「孤毒」は静かに積もっていく。
アルコール依存症やギャンブル依存症と同様に、「孤独」にも依存性がある。
初めは日常の延長にすぎない、気まぐれな塞(ふさ)ぎ込みなのだ。
酒の一杯や気まぐれな賭けごとのように、余興的に「孤独」を求め、ドアに鍵をかけて一人になる。
つかのま就学や就労といった社会的な関係から距離を置き、自身の心労を休ませるための回復期間。
やがて気を取り直すことができたら、またドアを開けて外に出ていくまでの自主的な拘置だ。
気分転換を経て、再び壮健な毎日に戻っていければ何ら問題はない。
気晴らしの酒は何杯かひっかけて気分が良くなったら、そこで止められる。
二日酔いの頭痛と吐き気に耐えることがあっても、深刻に尾を引くわけではない。
しかし一杯のつもりで飲み始め、二杯、三杯と止められなくなり、毎日慢性的に酒を渇望するようになると、健常な営みに支障が出る。
酔っている時間が長くなり、さらには飲みたくもないのに飲まずにはいられなくなったら、依存の吸引力に囚われたということだ。
「独り」であることもまた、底無しの依存に誘因する。
一日のつもりが二日、三日と伸びていき、引きこもりの半身が沈んで動けなくなり、一年、二年とままならぬ歳月に囚われる。
泥沼から抜け出したいと思っても、いつの間にか劣等感のヒルに社交性の養分が吸われている。
外に出ることが難しく、他人が怖くなり、やがて手に負えない「孤独」の沼底に水没だ。
克己心を奮い立たせて社会に出ようにも、依存の腕は意志だけでは振りほどけない強さでニートを掴む。
孤独は緩慢(かんまん)に人を脅かすものでありながら、昨今の社会における喫緊の課題である。
ひきこもりの長期化が「8050問題」を拡張させ、高齢化社会は孤独死の多発を生みだした。
その一方で、「孤独」に価値を見出し、肯定する声が消えていないことも確かだ。
「人は孤独を経験してこそ成熟する」という俗説は根強い。
人里離れて悠悠と暮らしていた仙人の達観も、独立不羈(どくりつふき)たる賢者の知恵も、「孤独」の恩恵と見る向きがある。
数年前のベストセラーには、下重暁子による『極上の孤独』(2018年)や五木寛之の『孤独のすすめ』(2017年)があり、文化人は「孤独」を必要以上に祭り上げている。
「孤独」は物書きご用達の催淫剤であるために、作家たちには肯定しすぎる悪癖があるのだ。
思想家の吉本隆明の著書にも『ひきこもれ』(2002年)があり、自身のひきこもり経験を元に「孤独」の有用ぶりをアピールしていた。
だが私のひきこもり経験にあって、「孤独」は破滅をもたらす災厄であった。
文化人には良薬でも、私には毒薬である。
酒に強い人間と弱い人間がいるように、私は「孤独」に弱すぎて一滴で酔い潰れたとでもいうのだろうか。
「孤独」が精神を涵養(かんよう)するなら、私や全国100万人のひきこもり群は賢者になっているはずだが、その割にはネットで叩かれている。
私が開くのはユーチューブとポーンハブの画面くらいであり、悟りを開いているというにはあまりの煩悩だ。
「孤独」の明暗を分けるものは何か。
それが孤独への依存なのだ。「孤独の乱用状態」と言ってもいい。
「依存」は「addiction(アディクション)」の訳語であり、英和辞典によれば「依存」・「嗜癖(しへき)」を意味している。
しかし専門家によっては、この「アディクション」を「依存」よりも「乱用」ととらえるべきだという主張がある。
「薬物乱用」や「アルコール乱用」ともいわれるが、依存症は対象となるものへの欲求が制御できない状態であり、過度な使用が止められないところに病理がある。
自ら悠々自適にに過ごしている分には問題ないが、自制が効かず「孤独」に翻弄されてしまっては、自分にも家族にも辛い事態となる。
ここに「苦しんでいるひきこもり」と「楽しんでいるニート」を分かつ分水嶺もあるだろう。
「酒を楽しむ者」と「酒を乱用してしまう者」がいるように、「孤独を楽しむ者」と「孤独を乱用してしまう者」がいる。
以前の私は自分が「孤独」を支配しているのではなく、「孤独」が自分を支配していた。しかも酒と違って旨くもないし酔えもしなかった。
文化人たちが不用意に称揚していたのは、コントロールできる「孤独」のことなのだ。
作家や修行僧は一人の年月を有意義なものにでき、上野千鶴子は「おひとりさま」の余裕を語った。
「孤独死」の良し悪しが一概に語れないのは、「独り」のいちいちの乱用具合が一様でないためだ。
「孤独死」もひきこもりも、単純に「独り」で過ごしているかどうかの問題ではない。
「独り」が統御できるかどうかが肝要である。
福祉行政の支援でも、「独り」そのものを解消するより、「独りの乱用状態」を解消することを問題の本丸とすべきだろう。
ひきこもりも、強制的に誰かといたところで「解決」にはならない。
むしろ自分なりに「孤独」との上手い付き合い方を見出すことで、「孤独の乱用状態」を軟化させ、快適に一人でいられる状態を目指すべきだ。
私は「独り」を好むが、それはあくまで自分が統括できる「独り」のことである。
「孤独」を友好的な美酒とし、唯一無二の酩酊を味わうためにも、うまいぐあいに引きこもりたいものだ。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・ライター。ひきこもり経験者兼当事者。座右の銘は『汝自らを笑え』。
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