ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「人に与えられる」ものがないとき、「人から与えられる」ことはできない アンチ援助希求の心理

 

 

私は「奪う者」と見なされた

 

 親からの無償の愛を返済するために、子供は有償の愛に奔走(ほんそう)させられる。私は模範的な子供になることで、親からの愛を返済したかった。優等な成績をとり、志望校に就学し、学歴や資格を取得し、第一希望の会社に就職する。
だがそれは叶わなかった。日本社会における親孝行は、返済義務のある莫大な奨学金だ。この債務は私の精神を圧し潰した。

 私は十代で引きこもり、親にとっては経済的な面でも労力的な面でも「奪う者」だった。長年の投資を無駄にした赤字の子会社であり、日々の衣食住によって維持費がかかる不良債権だ。
この損害があることで、親は預貯金を切り崩し、私は親子関係の信頼を切り崩した。無職で陰気なひきこもりから、恩義の返礼は引き出せない。どんな銀行でも引き落としようがなく、みずほのATMよりなお悪いというものだ。

 口座から引き出すかわりに、部屋から押収する「引き出し魔」が呼ばれるかもしれない。私という現物を差し押さえることで、親子関係の負債を解消しようという目論みだ。「引き出し魔」の存在意義は当事者の救済ではなく、ヤクザ的な借金の取り立てでしかない。

 

 親子関係のみならず、私は子供の頃から社会の全方面で「奪う者」だった。家庭環境や学校教育とのまっとうな関係から落伍し、福祉制度やサポートステーションに使われる税金をドブに捨てた。
年中ゴロゴロして過ごす住居も、昼から身にまとっている寝巻きも、今日口にしたレッドブル一つとっても、すべては誰かが作り出し、私に「与えられた」ものだ。多額の税金を払えるならまだしも、私は高額納税者になりようがない。
人が生きていく以上、全裸で無人島に住んで奇声を発しているのでなければ、必ず何らかの恩恵を受ける。人は人から「与えられる」ことでしか生きていけないのだ。

 もし自分も何らかのかたちで「与える」ことができれば、世の中へのお返しとなって罪悪感を抱かずにすむ。文化人類学的な贈与論を引き合いに出さずとも、日本社会は「お互いさま」の互酬(ごしゅう)性で成り立っている。相互に与え・与えられる対等な返礼を循環させることで、共同体の一員として認められ、良好な関係が可能になるというものだ。

「こんにちは」と挨拶されたら「こんにちは」と返し、「マンガの『バキ道』を貸してもらったから、お返しに『シグルイ』を貸してあげよう」などと考えるのが健全な相互関係である。(健全な感性を持っているかどうかは別であるが。)

 

 ひきこもりや、無職や、障碍者や、生活保護受給者などに対する粗雑なバッシングには、「お前は十分に与えていない」という共通した憤懣(ふんまん)がある。マイノリティに対しても同様だ。在日コリアンや被差別部落に対する非難は冷静な理屈を超えており、数年前には「LGBTは生産性がない」と論じた政治家もいた。「お前は与えていない」という非難だ。
感情的な主張の内因は、「お前はこの社会の負債だ」と思い込む怨嗟(えんさ)である。私というひきこもは社会にコストをかけさせる点で、家計的な負担以外でも「奪う者」になっていた。

 

 

「人に与えられる者」にさせるための就労支援

 

 ひきこもり支援の方法として、やたら就労支援が持ち出される。就労は単なる食い扶持(ぶち)の確保ではない。この社会で労働と定収入は尋常でない意味を持つ。それは就労者が「与えられる者」でいることの、最も簡便な証明になるためだ。
私は就労する者になろうとして苦心惨憺してきたが、それは「与えられる者」への嘱望(しょくぼう)だった。財布に金があるだけでも、活発な消費者として生活し、経済を回し、買った物を誰かに贈与することができる。
さらに共同体の一員に加わり、まっとうな人間関係を築ける者として承認され、隣近所から全世界まで、持ちつ持たれつの間柄に属せる。

 賃金で漫画太郎の新刊を定価で買ったら、他の誰かと共有して読むことができる。隣人に『地獄甲子園』をあげたお返しとして、めぐりめぐって誰かから『珍遊記』をもらえるかもしれない。
交換の中身や方法は柔軟だ。子供の面倒を見たお礼に手料理を分けたり、ペットの散歩に行った返礼として、他の誰かにカルト漫画の歴史を滔々(とうとう)と語るのでもいい。ありとあらゆるかたちで「与えられる者」であってこそ、共同体の豊かな生活に加われる。

 

 有名大学の卒業者や難関資格の取得者、著名人やインフルエンサーは、名声や信頼によって人に「与えられる者」であることを示している。直接具体的な利益を生み出していなくとも、共同体にとって役に立ち、何らかのかたちで人を守ったり育んだりできるだろうという期待によって、当人の人間性が担保されている。
私は知名度の高いインスタグラマーを羨ましく思うが、それは「与えられる者」でいることを瑞々しく露出しているためだ。私だって誰かに、何らかの方法で、「与えられる者」でいたかった。高度な資格を得たり、働いて収入を得たり、特別な技能によってバズれる存在だったなら、私だって「与えられる者」でいられただろう。しかし現実を見渡せば、実際は一つもファボられない自分がいるばかりだった。

 

 

 

支援によって「負債」が与えられる

 

 かつての私は無学無能の孤独依存症を強め、ひきこもりの泥濘(でいねい)に溺れていた。溺れているのなら支援者に助けを求め、ライフセーバーさながら救援されればよいはずだが、私は誰からも救われたくなかった。行政のひきこもり向け無料相談所にも、若者向けの就労支援講習にも、参加を検討さえしなかった。

 支援を避けたのは、それが人から「与えられる」ことであるためだ。人の世の応報的な関係からすれば、「与えられる」ことで確実に反対給付義務が生じる。意識的にであれ無意識的にであれ、「お返し」をすべき「借り」が生じてしまうのだ。
無料でも無償でも、支援する人と制度があるなら、そこには無形の「与える」が発生する。もし私と出会った支援者が最低限度の優しさを表して、挨拶をし、微笑を向け、言葉をかけるという労力を発揮したなら、そこに無形のコストをかけさせている。私のせいで、支援というサービス業従事者に、感情労働の負担を増やしてしまうことになる。
特定の成果がなくとも、人から「顔」を向けられるだけで多大な損失だ。仏教に「顔施(がんせ)」という言葉があるが、人から福々しい顔を向けられることは、すでに貴重な賜物でありうる。

 もし自販機のように「支援」が商品であったなら、金銭で清算できるため楽だろう。スマホのPayPay(ペイペイ)で「挨拶代」や「微笑代」などをピッと決済すれば、関係性は終えられる。だが支援者の無料で無償で無形の微笑みが自分に与えられたとき、ひきこもりの私はその互酬性に応じられない。

 

 私はこれまでずっと、親や周囲の人間から「奪う者」であったのだ。政治家や世間的風潮が非難していたように、私は今後も人に「与えられる者」になれないだろう。自分が「人に与えられる」ことが想定できない以上、「人から与えられる」ことはできない。

 ずっと金欠に困ってきた人が、返せそうもない大金を強制的に与えられるようなものだ。表向きは給付金のように見えるが、このとき与えられているのは実質的に借金である。「借り」でも「恩」でも「義理」でも「感謝」でも呼び方はさまざまあるが、いずれにしても「無償」の返済方法のない自分が、人から「無償」をもらうわけにはいかない。元々不道徳な自分が、さらに不道徳なならず者へと追い込まれてしまうではないか。

 

 

「与えられない」ための孤立

 

 支援には二つの危険がある。一つは支援の失敗、もう一つは支援の成功だ。失敗は生活上の財政破綻を意味し、成功は精神上の自己破産を意味する。どっちにしろ破産だ。
支援者は「お前は奪う者だ」と責めるわけではない。だが穏やかな口調で「あなたは与え返せる者だ」とは云うことになる。「困ったときはお互い様」だというのであれば、私も互助的な返礼を期待されている。よって私はその励行や慰撫を拒否せねばならない。
人から「与えられない」ために、余力を振り絞って自衛するのだ。

 

 ひきこもり支援に関する資料など、もし純粋に自分の助けとなる情報のみを得るだけなら、人の手を煩(わずら)わせるわけではないだろう。与える者が存在しなければ、私に返済義務はなく、ただ入手するだけで済む。
しかし確実に見えないところで税金が使われ、どこかの誰かの手をわずらわせている気配があるなら、やはり恩寵を受け取るわけにはいかない。
『ヴェニスの商人』の結末で、肉だけを取り出そうとしても、血液を奪ってしまうという逆転裁判のように、必要最低限の「肉」だけを手に入れることはできないのだ。福祉職員を動かす血流や、福祉制度を稼働させるための血税を脈動させる以上、私はやはり受け取ることを拒む。

 

 「人から与えられる」贈与のためには、「人に与えられる」元手がいる。だが私がひきこもりの「奪う者」である限り、人間的な貯金を増やすことも、功徳を積むこともできない。
孤立を深刻化させるのは、金がないことによる貧乏よりも、「与えられる」ものがないことによる貧困だ。
貧困は孤立の様相そのものを孤立させる。
私は人里の真っただ中で難破した漂流者となって、救難信号を出すことがないまま、息を潜めて沈没を待つばかりだ。

 

 

 

 

 

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文・絵  喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人。ひきこもり経験者兼当事者。座右の銘は『汝自らを笑え』。
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