ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

弱者に「与える」方策よりも、弱者から「与えられる」方策へ アンチ援助希求の心理

 傲慢な支援者が現れて、「お前に救いを与えてやろう」という態度だったなら、私は〈支援〉お断りである。「与える」もの自体はまだしも、一方的に「与える」関係性を受け取りたくない。「ひきこもりに与える」方策より、むしろ「ひきこもりが与える」方策はないだろうか。今回は思慮深さを度外視しながら、いくつかの可能性を検討していきたい。

 

当事者経験を与える

 

 北海道の「浦河べてるの家」は精神障碍者支援をおこなっている団体だが、その方法が極めてユニークである。
べてるの家のスタッフは、当事者に対して「助けを与える」という態度をとらない。むしろ当事者に、自身の病気の「研究者になってください」とお願いする。
学者が客観的に病例を研究するのではなく、当人が自分の病例を研究対象にし、多くの人と共有するのだ。この「当事者研究」は、支援者から「与えられる」側でなく、逆に当事者が人に「与える」側になる構図がある。

 奇抜な症例は医者にとってやっかいだが、当事者が研究発表すると俄然面白い。
困難で独自な体験は、自ら表に出さなければ、閉塞したクローゼットの中にあるままだ。しかし人々のまなざしの白日に公開したとき、精神の方解石は視線の坩堝に反射し、かつてない輝きを起こして驚きとなる。

 ひきこもりに関しては、経験者が相談に応じる「ひきこもりピアサポート」の試みがある。論文でひきこもりの情報を得る学者や精神科医ではなく、自らの心身で感得した経験者が「支援」的な活動に取り組むのだ。
人から「与えられる」立場ではなく、人に「与える」立場への転換である。

 

 

「居る」ことを与える

 

 人が世の中に「居る」だけでは、社会的な利益を「与える」者とはみなされない。心臓が動いているだけでは1円にもならず、楽天ポイントにもならない。だが自力で生活さえできれば、「与える」活路はあるのではないか。

 内田樹の『日本習合論』(ミシマ社 2020年)には、ひきこもりを現代の「堂守(どうもり)」として採用できないかというアイデアが記されている。
昔は神社仏閣を無人のままにすることが好まれず、たいていは堂守や寺男(てらおとこ)がいた。特別な仕事があるわけではなく、最低限門の開閉や本堂の拭き掃除などをして過ごしていればよい。建物に住むことそのもの、ひいては「居る」ことそのものが仕事となっていた。

内田樹は、神社仏閣に誰かが住んでいてほしい人と、社交的な労力をかけずに暮らしたい人とが、お互いの利益に叶うことを指摘する。

『他人とコミュニケーションを取るのが苦手だというので部屋にこもっているのだとしたら、「無人の家で寝起きして、煮炊きして、ときどき雨戸をあけて風を入れたり、座敷を掃いたり、廊下を拭いたりしてくれたりするだけでいい」という仕事なら「やってもいい」という人がいるんじゃないでしょうか。〔…〕昼寝をしていても、ゲームをしていても、本を読んでいても。とりあえずそこにいて、家の生命力を賦活するという仕事です。たいした対価は受け取れないかもしれませんが、とにかく労働して賃金を得ることはできる。』

 誰とも接点を持っていなかったとしても、「居る」ことが仕事となって周囲の人々から認められるなら、ひきこもり問題自体が消滅する。

 

 別のケースでは、宇宙飛行士のための人体実験の求人があった。長期間宇宙船内に滞在して過ごすと、人体にどのような反応があるかがわからない。そのため非日常的な密室にこもり、数十日「何もしない」でいて、NASA関係の団体から経過観察される仕事だ。

 特別なことをしなくとも、「居る」ことが望まれる環境があったなら、部屋にこもっていても劣等感は深まらない。プロの「自宅警備員」として望まれているなら、自宅苦行僧ではいられないのだ。

 



マイナスなくプラスを与える

 

 ひきこもり支援をおこなうサポートステーションの中には、農作業的な仕事をさせるプログラムがある。土いじりや野菜の収穫をして、共同作業の重要性やコミュニケーション能力を育もうというのだ。

だがこの作業も、支援のために土地を用意して、当人に「与える」ことをしているなら、利益より負債の感覚を残してしまう。私のような当事者からすると、自分のせいで相手に損失を与えているように思える。

わざわざ農作業の場を整備するより、むしろ各地にいくらでもある荒れた草地で、雑草刈りをした方がいいのではないか。草むしりは自分のおこなった作業がただちに反映され、どれだけ作業をしたかが目に見えてわかる。
自分がいてもいなくても草地はあり、わざわざ用意されたものではない。雑草が生い茂っているほどの場所なら、作業中の通行人からの視線もそれほど問題にならないだろう。
人から支援的に「与える」をされたわけではなく、自分が草むしりの雑用を「与える」ことで、最終的な損益をプラスにできる。

 

 これは余談だが、個人的に「ひきこもり×スーツ×草むしり会」を構想したことがある。
労働でも居場所でもなく、ただ草むしりのためだけに集まって、ある程度刈り終わればお開きにするだけの会だ。そして(夏場でなければ)スーツ着用である。
仕事をおこなっているという自尊心及び労働に対するある種の嘲弄のため、スーツを着用して草むしりを行う。私は「社会人なら必要だろう」と思ってスーツを買ったものの、仕事としては一度も着なかった。せっかく買ったスーツを無駄にしないため、草と虫と土まみれにして着潰したいと思うのである。

 

 

「助けられる」ことを与える

 

 もしもゼエゼエと息をし、自らの首を両手で押さえて、「今すぐ誰かを援助せねば死んでしまう!」と呻く支援者がいたら、そのとき私は人助けに動いてやらなくもない。
「人を支援したい!」という強迫観念にかられた病的な支援者を助けられるのは、私くらい切羽詰まった当事者が適役であろう。支援依存症患者を、当事者という医者に診せるのである。

 アクロバットな話だが、「支援者から『与えられる』こと」を、当事者が「与える」手もありうるのではないか。
人からの援助を受けることが、自分でなく他の誰かのためになる関係性である。
たいていの人は、自分のできる範囲で、無理なく人助けできるなら、他者救済もやぶさかではないものである。
人助けをして褒められたいとか名声を上げるとかといった、利己心かどうかは関係がない。

 夢想を言うなら、「あなたのためを思って支援してあげる」というのではなく、支援者の側が、「私のためを思って支援させてくれないか」と頭を下げるくらいの力関係になってほしいものだ。
「助ける」か「助けられる」かの関係だとしても、「あなたが助けられてくれないと、私(支援者)が苦しい。だから『助けられる』ことを私に許してもらえないか」というお願いにまで至ってほしいのである。

 ツイッターでの田口ランディのつぶやきは、私にとって新奇な「与える」かたちだった。

『いまの時代、人を助けたい人が、たくさんいます。/助けられることも、人助け。』

 

 

 

 

 次回(8月4日アップ予定)に続く

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人。ひきこもり経験者兼当事者。座右の銘は『汝自らを笑え』。
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