ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「引きこもる子ども」を殺す親たち アンチ援助希求の心理

 

 

『「命を救ってやったのは、2度目だぜ」

 「まあね。ツケにしといて」』(映画『ゴースト・オブ・マーズ』)

 

子供をひきこもりにする方法

 ひきこもりは、社会に損失を計上する存在と見なされている。
日本国内の被害規模は、おそらく漫画の実写映画化をしのぐほどだ。
ひきこもりへのバッシングは、実写版『テラフォーマーズ』級である。
嘘だと思うなら、公明正大で知られるヤフコメを見るがいい。そこではひきこもりと『テラフォーマーズ』が、この地上から消滅すべき存在だと見なされている。

私は「ひきこもりを解決する方法」は知らないが、「子供をひきこもりにする方法」ならわかる。子供を「奪う者」として責めればよいのだ。

親は養育費や学費にいくらかかったか嘆息し、多大な赤字の計上を教え込む。
親戚一同は、期待に見合ったほどの結果を出していないことを言い立て、子供の成績不振にため息をつくようにせよ。
教師はテストの結果や進学先が不十分であることを責め、授業の労力が無駄になったことを叱る。
さらに子供が正社員として企業に就労したとしても、業務内容や年収を理想と比較して、常日頃から不満を述べよ。
親子関係の費用対効果を算出し、子供の自己肯定感の減益に努めるのだ。
子供に借金的な不足感を抱かせ、「自分は親からたくさんのものをもらってきたのに、与え返していない」という欠如感を深層に根付かせるのである。

子供はどこにいても居心地が悪くなり、人間関係が悪化しやすくなる。基本的な心的状態を荒廃させれば、社会的孤立まであと一歩だ。

 

 

子供を殺す親たち

 「お前は与えていない」「お前は不十分だ」というメッセージは、日本社会を生き抜く子供のBGMである。
ひきこもりに関する一般的な報道でもおこなわれており、特に「8050問題」特集では、当事者の不安を過度に煽っている。
自立もせず、就労もせず、貯蓄がないままで、「親が死んだらどうするのか」と将来設計の欠如を糾弾し、カメラは親の疲れた顔を映し出す。
そこに発生する親への同情は、同時に引きこもる子供への「与えていない」という苦情になっている。

2019年、東京都練馬区の元農水事務次官は、将来の損害を危惧してひきこもりの息子を殺害した。
事件に至らないまでも、「子供の身を案じた」結果、一家心中を考えたという逆説的な事例もある。

 林真理子の『小説8050』は、タイトルに反して20歳の子供がひきこもりだが、帯文は「父さんと一緒に死のう」という煽り文だ。
将来の不安によって、親子共々死なねばならないという短絡的で極端、そして猟奇的な発想があり、不適切な思考となっている。
また、この小説のひきこもりの描写は低劣で、父親の言動はまともではなかった。
著者の林真理子氏は、日大を立て直す前に本作を改修すべきである。

 

「母よ!殺すな」

 元農水事務次官の事件において、ネット上の局所では親の側に同情する世論が存在していた。
ウェブの匿名同情者にとっては、子を殺めたのは親心ゆえであり、父親の蛮勇が生んだ現代の英雄譚であるらしい。
だが親心という言葉の本来の意味を素直にとらえるなら、子供を殺めることでなく、子供を生かすことが本道であろう。
これはわざわざ口に出したくもないほど基本的で凡庸な話であり、あまりに平凡すぎて言葉にしたくもないが、親は、子供を、傷つけるべきではない。
特に子が親より先に死ぬことがあれば、親にとって致命的な外傷であるはずだ。

 私は親と子の命のやりとりについて考えると、障害者運動の横塚晃一の著書を思い出す。
『母よ!殺すな』(すずさわ書店 1975年)という絶唱の名著である。
本書に記録された事例で、ある親が障害児の介助に疲れ、その子供を殺した事件があった。
親は殺人罪に問われたが、減刑を望む同情的な世論が生じる。
だが減刑を認めることは、日常生活に介助が必要な障害者が、殺されてもやむを得ないという意味だ。
横塚氏は減刑の嘆願を全面否定し、そんな親心などあってはならないと語気を強めていた。

この裁判の論点は、現代にも生きている。
私は多くの「8050問題」のテキストに接してきたが、「子供が長生きしてくれてよかった」という発言を一つも聞いたことがない。

むしろ子供の生きていることが負担であり、家計における慢性的な赤字事業の切り捨てのように、子供を切り捨てることを望んでいる。
「わたしが死んだらこの子はどうなるのか」と言うが、子供が子会社でなく命であったとしたら、長生きしてくれたことへの幸福めいたものはありえないのだろうか。
寡聞にして、子供の長寿をありがたがる親の発言を聞かない。
きっと私の発想の方が異常な少数派なのだろう。子が親より長生きすることを幸いに思うなんて、サイコパスの発想なのかもしれない。

しかし、もしこれが異常者の発想でないとしたら、子供が生きていることそのものに対して、「あたなは与えてくれている」と云うことはできないだろうか。
「お前は奪っている」ではなく、親より先に死なないでいてくれたことに対して、「あなたは与えてくれている」と。その感謝的な心証を伝えることは、不可能なことだろうか。

 

 

「親の欲は結局、自分自身の欲なのだ」

 精神科医の神谷美恵子は、1966年に『生きがいについて』を出版したことで、市井の読者から多くの反響を得た。
後年の随筆では、さまざまな人からの人生相談に答える模様が記録されており、自身の解答に葛藤する心理が綴られている。
 ある母親は、「子供の成績が悪いため、無理にでも勉強させた方がいいだろうか」と相談した。
神谷氏はそれに対して、良い大学に入ったとしても、その先の人生でつまづくかもしれず、子供の成績は本質的な問題ではない、といった答え方をする。

しかし同時に、『これは間違った話し方だ』と、自らの解答の不十分さを自覚し、次の内省が続く。

『それに私の心には、ちがった種類のおかあさまがたの姿が浮かんでくる。「何回子どもをさずかっても、そのつど五カ月で流産してしまい、とうとう、子どもを持つことをあきらめなければならなかったひと。四人の子のうち三人まで、成人しないうちに、病に奪われてしまったひと。すべての条件が最高にととのっていると思われる結婚をしたのに、初めての子が小児麻痺で精薄であったひと。そういうおかあさまたちの涙は、私の小さなへやの椅子のなかにまで、しみこんでいるような気がする。
 このようなかたがたのことを考えると、子どもを与えられること、その子が心身ともにふつうであることなど、いわば「最低線」のことがすでに最高の奇蹟、最高の恩恵として感じられてくる。もしさいわいにも、これを与えられているならば、これ以上の欲をもつことは欲ぼけにちがいない。子どものため、という大義名分はあっても、親の欲は結局、自分自身の欲なのだ。親になると、だれでも多かれ少なかれこの欲にとりつかれてしまうのが、私たちみんなののがれられない性(さが)ではあるが。』(「野の草のごとく」)

 

命があることによる負債全額免除

 親は、子供が良い就学先や就労先に入り、何らかのかたちで優秀な成果を上げることを期待している。

それが親心の性(さが)だとしても、結果として子供を追い詰めることが多い。

親がどれだけ「与えた」かの美談は、子供がどれだけのものを「奪った」かの非難に転じる。

親が多大な贈与をしていたにせよ、子供は、贈与の代償(負債)が免除されてしかるべき存在のはずだ。

本当は産声を上げた瞬間に、返済履行義務が終結している。

長く生きた子供に対して、どれだけ「奪った」かではなく、「あなたはすでに与え返し終わっている」と云えないだろうか。

「私はすでに与えられた。あなたは何も返さなくていい」、「今以上のものを返そうとしなくていい」という、命を肯定する心証であれないか。

子供が閉じこもっていることで損害を受けていると思う親ないしすべての人は、一度検討してみてほしい、子供の命があることによる負債全額免除を。

 

ツケにしといてくれ

 もう一点、子供側に対しても付け加えたい。

私自身が経験し、動揺しつつも考えてきたことだ。

 

私はある時期から、親が「与える」ことに対して、必要以上に借金的な罪悪感を重ねなくてもいいと思うようになった。

子供が子供であることによって負債を全額免除されているとしたら、親に済まなさを感じる必要はない。

親は養育者として適切ではなかったが、三食を用意し、寝るところや着るものを提供してくれている。

最低限度の金銭と物品を「与える」ことをしているのであれば、養育者に子供を傷つける意図はなく、少なくとも、子供を狙った連続殺人鬼ではなかった。

「与え返す」ことを、恐喝されていたわけではないのである。

 

反貧困の活動をする湯浅誠は、貧困を解決するキーワードとして「ため」という概念を出している。

やや意訳を込めて「ため」を要約するなら、金銭だけでなく、人間関係や未来の可能性に対する、いくつもの意味での貯蓄のことだ。

人は「ため」があることで社会的な活動を豊かにし、貧困状態を脱していける。

 

だが長期間引きこもっていると、自分に何もないと感じられ、貯金も人間関係もゼロだ。

力強く生活していけるだけの「ため」がなく、社会参加を活性化させることが難しい。

「ため」どころか、自分の存在が不十分だという負債の感覚があるのだ。

 

そこで「ため」の前段階として、ここは一つ、「ツケ」を想定するのはどうだろうか。

返済義務を無視するわけでもなく、過去の経験をなかったことにするわけでもない。

「チャラにする」のとは違う。

親に対しても、もしくは福祉に対しても、一回「ツケ」にしておくだけだ。

親への返済義務を気にして、親の言いなりになったり、無理に就労を始めようとしたり、過去のしがらみに捕らわれたりすることはない。

謝罪も感謝も忘れないが、どちらも完全に後回しにする。

人から何らかのものを与えられると、どうしても「済みません」と言いそうになったり、「有難う」と言いそうになるが、一度「ツケ」にして、従来とは別の取り組みや関係性に転身する。

負債を気にするとしても、罪悪感は社会との関わり方を変えた後だ。

もし親が子供に対する負債全額免除の心証でいてくれたなら、この感覚には到達しやすい。
「ため」が多様なプラスであることに対して、「ツケ」は多様なマイナスを気にしすぎないための技法だ。
放言的な考えだが、しかし内実は切実である。

たかがこれだけの心理にすぎないとしても、この程度の心理的機微が私を救済してきた。

「与える」ことが不十分なことからくる、借金的な感覚はぬぐえないかもしれないが、その度に内心で繰り返すのだ。

「ツケにしといてくれ」と。

 

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人。ひきこもり経験者兼当事者。座右の銘は『汝自らを笑え』。
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