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【観劇レビュー】俳優座の「演劇8050」はひきこもりと向き合う重要なヒントを(半分だけ)とらえた

今回は、劇団俳優座の舞台『猫、獅子になる』のレビューをお届けします。作品の主役は、中学の頃のトラウマをきっかけに、長年自室に引きこもっている50歳の女性。「ひきこもり」の物語を、「ひきこもり」の経験者が読み解きます。

 

 

※公演初日の11月4日の回を、筆者が実費で鑑賞したレビューです。ストーリーのネタバレはありません。

 

  公演情報
劇団俳優座 『猫、獅子になる』
作:横山拓也
演出:眞鍋卓嗣
会場:俳優座劇場(東京都・六本木)
公演期間:2022年11月4日~11月13日
https://haiyuza.net/

 

「8050問題」が描かれる演劇

ひきこもりに対して、「99%が治る」とか、「9割が解決する」とかいう「支援者」がいたら、それは嘘だ。

すべての悩みを解消できるような、便利な解決策など存在しない。

何事においても、「必ず」とか「絶対」などという人は、警戒した方がよいだろう。

 

劇団俳優座の公演『猫、獅子になる』が伝えるのは、たどたどしい「半分」の大切さだった。

壁をへだてて、間違いながら、不十分な言葉を伝え合って、ようやく相手のことを「半分」だけ理解する。

(もしくは、理解しない、ということを受容する。)

そうして物事が「半分」だけ好転する、そんなリアルな物語が編まれていた。

 

 

物語は、50歳の美夜子の「ひきこもり」が軸になる。

美夜子は中学の演劇部での出来事をきっかけに「不登校」となり、長年自室に引きこもってきた。

同居の母が美夜子を養育していたが、ある時怪我をして入院してしまう。

そこで、美夜子の妹夫婦が実家に引っ越してくる話が浮上。

妹は引きこもる姉を毛嫌いしていたが、「実家が自分のものになるかもしれない」という打算もあり、妹と向き合うことになる。

宮沢賢治の寓話「猫の事務所」の演劇公演と並行して、物語が進行していく。

 

 

まず、中心の「ひきこもり」に50歳の女性を据えるのは、現代的な人物造形といえるだろう。

近年の統計でも、「ひきこもり」に中年女性の多いことがわかっており、日本社会を反映している。

NHKのドラマ『星とレモンの部屋』(2021年)も女性のひきこもりが主役だったが、世間的な「ひきこもり」像に変化が起きているようだ。

 

物語は、多層な構造となっている。

まず、美夜子が引きこもっている「現在」、

引きこもる要因となった中学時代の「過去」。

そして演劇が(劇中劇として)上演される「舞台」だ。

 

ひきこもりの物語では、たいてい「扉を開けてよ!」、「出てきてちょうだい!」といった安直なセリフが出てくる。

本作にも安易なやりとりがなくはないが、それぞれのレイヤー(層)が機能し、「扉を開けてよ」という言葉一つとっても、「現在」「過去」「舞台」それぞれの意味を含むため、セリフが重層的な意味を持つ。

 

 

「あなたの将来」から「わたしの過去」の語りへ

いずれのレイヤーでも、「姿の見えない者」が登場する。

「現在」においては、ひきこもりの美夜子。

「過去」においては、トラウマのきっかけとなった人物。

「舞台」においては、プレッシャーに襲われて失踪した脚本家。

 

「姿の見えない者」とのコミュニケーションがとれないことに、すべての人物がとまどい、自らの無力さにいらだっている。

相手の様子がわからないことで、想像力が悪い方へと肥大し、「病気なのではないか」とか、「実は亡くなっているのではないか」とか、相手の存在感が過剰に変容していく。

姿が見えないせいで過剰な反応になっていくのは、ひきこもりに対する親の思念とも重なりやすいところだ。

 

当初、妹は「将来どうするのか」「変わってくれないと困る」などと言って美夜子を責める。

ひきこもりを強引に連れ出す「引き出し屋」も検討し、美夜子を変えようとする。

「現在」に立つ人々は、悪い意味で「未来志向」が強いのだ。

 

一方で、美夜子はずっと「未来」を向くことができないでいる。

長年着ているのは中学のときのジャージであり、文字通り「過去」を身にまとう。

美夜子の演者(清水直子)だけが「現在」と「過去」の二役を兼ねる点からしても、「現在」から遊離した存在だ。

 

私はこれまで、ひきこもりを主題とした作品に不満を感じてきた。

たいていの物語が、「未来志向」でありすぎるのだ。

NHKのドラマ『こもりびと』(2020年)のラストシーンも「未来」に向きすぎていたし、林真理子による『小説8050』(2021年)は、強引な「未来志向」ぶりが有害だった。(そしてそれゆえに、当事者ではない読者から好評を博したのだろう。)

 

『猫、獅子になる』は、その点が成功していた。

会話を重ねることで「未来志向」から「過去志向」に転じていく中盤に魅力がある。

 

美夜子の妹は、当初「あんたの将来を変えてほしい」と要求していた。

だが家族関係の葛藤を経て、「私の過去はこうだった」、という自分語りに至る。

「あんた」ではなく「私」という主語の語りになり、「将来」ではなく「過去」を問う。

この転換によって、金銭的な問題に対しても、「宝くじが当たればいいのに」といった空想でなく、地に足のついた議論が生じていく。

 

ひきこもりに対する人々は、「未来志向」によって当事者との対話を断絶させやすい。

焦燥にかられて、「これからどうするつもりだ」「早く働き出せ」などと言ってしまう。

だが「お前の将来を変えろ」という脅迫では、まっとうな人間関係は生まれない。

それよりは「過去志向」の人が、「私は」という主語をもって語ってこそ対話が生まれる。

 

私はつくづく思うのだが、一人の人間が生きていくうえで「大丈夫」だと思えるのは、「将来が大丈夫」なことによるのではなく、「過去が大丈夫」なことからくるのではないか。

豊かな土によって芽が出るように、過去を生ききって、現在にたどりついているゆえに、未来が生じる。

「働け」とか「外に出ろ」とか、むやみに「将来」だけを要求しても、「過去」という根を持たない花は、咲きつづけることができない。

私自身の経験からすると、「過去が大丈夫」になったとき、現在および将来が「大丈夫」かもしれないと思えた。

 

宮沢賢治はなぜ「半分」と書いたか

本作では、「未来志向」ならぬ「過去志向」が生じたことで会話が生まれ、はじめて「現在」が有機的に変化していく。

 

さらに、宮沢賢治という希代の作家の言葉が、物語に厚みを加える。

戯曲の「猫の事務所」での、「ぼくは半分 獅子に同感です」というセリフがキーワードだ。

賢治は作品を完成させるにあたって、結末の言葉を大きく変えた。

その理由をひもとく鍵が、「ぼくは半分……」のセリフにある。

 

引きこもる美夜子は、中学時代から答えの出せない桎梏(しっこく)に苦しんできた。

ずっと自分こそが「正しい答え」を求めていたのに、いつのまにか、「外に出ろ」「働き出せ」などと、自分が「間違った」者になっている。

正論を言われたときに、「たしかにそのとおりだ。だけど……」とためらうときの、「だけど……」の部分、さらにいうなら、「……」の果てが導けずに、ずっと引きこもってきたのだ。

 

このような相克(そうこく)は、私のひきこもり経験にも覚えがある。

 

たとえば(やや奇抜なたとえだが)「1」の整数を、正確に「3」で割り切ろうとしても、「0.333333……」と、解答にたどりつけない数がひたすらつづいていく。

「1」を「3」で割ると「約0.3」だが、「0.3」を3倍にしても、「0.9」にしかならない。

孤立の「原因」となったのは大きな出来事ではなく、むしろわずかな「0.1」がどこかへ消えて、「1」にならないような解離(かいり)にある。

「だけど……」や「0.333……」における、遠大な「……」の果てを見いだせないところに、社会から退避せざるを得ないような、私の孤立の端緒があった。

 

 

終盤の一場面で、美夜子はある言葉を投げかけられる。

それは本来ひきこもっている人に言うべき言葉ではなく、「支援」的な観点では、「間違い」だといっていい。

だが間違っている、ということを美夜子と相手が共有したうえで、新しい一歩を踏み出していく。

「1」を「3」で割った答えが「0.3」だ、というように、それは半分正解で、半分間違っている。

「ぼくは半分 獅子に同感です」という言葉は、間違いを含んでいると知りながら、獅子の判断に応答する、苦渋の誤答だ。

この「半分」は、中途半端な妥協点を受け入れることでもあり、真っ二つにされる切断の痛みに耐えねばならないことでもある。

賢治の戯曲のセリフと重なりつつ、「半分」であることによって、美夜子は「だけど……」の果てを見いだし、緊張の一部をほどく。

 

評論家の芹沢俊介氏は、ひきこもりを論じた本で、「人は自分と折り合える分だけ、他人と折り合える」と言った。

美夜子の「半分」の受容は、自分自身の「過去」との折り合いであり、「舞台」における確執との折り合いであり、家族と共に生きていく「現在」との折り合いを生んだ。

美夜子にとっては、長年求めてきた正答とはいえないが、それでも相克の一端で、かけがえのない変容が生まれている。

 

「半分」の存在であることを受忍し、それぞれの人が相手の「半分」を受けとめる。

「半分」というのが良いのだ。

もしも「『猫、獅子になる』は、ひきこもりとの最良の向き合い方を描いた」という人がいたら、私は、半分だけ同意する。

 

 

 

  公演情報

劇団俳優座 『猫、獅子になる』
作:横山拓也
演出:眞鍋卓嗣
会場:俳優座劇場(東京都・六本木)
公演期間:2022年11月4日~13日

 出演
清水直子/滝佑里/安藤みどり/塩山誠司/岩崎加根子/志村史人/若井なおみ/小泉将臣/野々山貴之/髙宮千尋

https://haiyuza.net/

 

※2022年11月6日時点の情報です。詳細はWEBサイトをご覧ください。

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳から教育マイノリティ(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui

 

 

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