文・橋本汐
編集・ぼそっと池井多
虚弱体質だった私
私は生まれつき身体が弱かった。
年がら年中風邪をひき、熱を出していた。
学校でいちばん身体が弱く、痩せていたので、健康診断で毎年
「ローレル指数(*1)要注意」と書かれていた。
また、学校が発表する児童たちの健康の分布図で
「極度に痩せている……1人」
と書かれているのを見て、自分のことだと思った。実際そうだった。
ポキポキとか餓死などとあだ名がつけられた。
*1. ローレル指数 児童や生徒の肥満の程度をあらわす体格指数。大人のBMI(ボディマス指数)にあたるもの。
学校が好きではなかった。
先生も大嫌いで敵意を持っていた。
そこで先生といちばん話さない生徒を目指し、かつ実践していた。
私は身体が弱いことをあまり悲しく思ってはいなかった。
そのおかげでしょっちゅう病気になって堂々と学校を休めるから、かえってよいと思っていた。
中学や高校になると部活があるが、他の生徒たちが嬉々として部活に打ち込み、暗くなるまで学校にいたがる気持ちがわからず、私はなるべく早く帰宅して家でテレビを見ていた。
それが体力のない私にできる精一杯でもあった。
しかし、私の中に「もっと努力をしなくちゃ」という気持ちもあり、それがジレンマを引き起こしていた。
「身体が弱いから部活に打ち込めない。でも、部活をちゃんとやらないから、体力がつかない。だから本当は私も部活をすべきなのに」
と、罪悪感も持っていた。
当時をふりかえると、そんな罪悪感は持つ必要はなかったと思う。
身体が強い人は、私からすれば生まれつきそのアドバンテージを享受していた。努力してその強さを手に入れていたのではないからだ。
だから、今から考えると、私は身体の弱さを生まれつきアドバンテージとして享受したとプラスに捉えればよかったのだろう、と思う。
側彎症の苦しみ
もともと極度に痩せていて、女子なのに思春期の1年で8センチも身長が伸びたせいか、13才から側彎症(*2)になり、22才まで毎日、背骨を矯正するために胴体に装具をつけることになった。
お風呂の時間以外1日中、起きている時も寝ている時も装具をつけていなければならなかった。
このことも私から体力を奪い、成長期に運動にいそしみ人並みの強さを獲得することから遠ざけた。
これについても、私は罪悪感を持っていた。病気なので、そんなものは持たなくてよかったのに。
*2. 側彎症(そくわんしょう) ここでは脊椎側弯症を指す。背骨が横に曲がる病気。思春期の女子に発症することが多いといわれる。
側彎症のために、ひどい時は一週間授業で座っていることができなかった。
私が高校へ通っていた時代は、まだ土曜日が休みではなかった。
日曜日に一日家で休養できるので、月・火・水曜日はまだ大丈夫だった。問題は、木曜日か金曜日の午後である。
木曜日の午前中の終わり頃に限界が来る。装具が苦しくて弁当がお腹に入らないので、そこで早退することになる。
こうして木曜日に半日休むと、金・土曜日は大丈夫になる。
木曜日に苦しくならなかった場合は金曜日の昼に苦しくなるので、やはり昼を食べずに帰る。そうすると土曜日は出席できる。
「側彎症くらいでそんなに苦しくないだろう。我慢して授業を受けてみろよ」
と言う人もいた。
やってみた。
そうしたら吐いてしまい、結局早退することになった。
我慢しても我慢しなくてもどうせ早退なら、吐かない方が体力を奪われない。
そこで、「もう座ってられない」となった時点で早退することにしたのだ。
たまたま木金の午後は、英文法や代数幾何など授業時間の多い科目だったので、早退しても出席日数は確保できた。
進学校だったので、生徒は全員大学へ進学するのが当たり前とされていたが、私はなぜか未来を考えられず、ぼけた所もあったので、
「進路は、文系か理系か就職から決める」
と、本気で考えていた。
その結果、
「今の体力では就職はできないし、装具をつけながら働くのも苦しいから、大学に行っているうちに体力をつけよう」
と思って、文系の大学に入った。
心が折れたのは、自動車学校へ通うことだった。
今から考えれば、大学へ通うだけでも大変なのに、当時の私には習い事などに通う体力はなかったのだ。
私は疲労のために、白血球がバイ菌に負けて骨の中に膿が溜まり、
高熱が続いて、切開手術をすることになった。
「こんなに弱いのでは、自分は働くのはとうてい無理だ」
と私は思った。
結局、大学で体力をつける計画も挫折して、高校までと同じように休みまくり、早退しまくり、それで苦しさもいっこうに和らぐこともなく、やがてひきこもることになった。
自分で身体を動かさないと理解できない
幼少期から本が好きだった私は、都心の高校に進学してから学校帰りに毎日のように大きな書店に寄り道をしていた。
そこで私は、自分が住む小さな町の本屋にはない、いろいろな本や雑誌に触れるようになった。
ふと手に取った中にバレエの専門誌があった。
私はたちまち載っている美しいバレエダンサーたちの写真に惹かれた。
「人間に、こんな美しいかたちができるんか!?」
と思った。衝撃だった。
私は、その雑誌の愛読者になり、毎日美しい写真を見たり、テレビでバレエ公演中継を見たりして、バレエにのめり込んで行った。
その雑誌には写真だけでなく、バレエ作品の批評も載っていた。
しかし、そこに何が書いてあるか、わからない部分が多かった。そこで図書館でバレエの用語集や入門書を借りて覚えようとしたが、バレエを習ったことがないために、それらの本自体を理解するのが困難だった。
ある一つの用語が「これはこういう意味だ」と自信を持って言えるようになるまでに5年かかった。
25才の時、私は思った。
「この調子ではいつまで経ってもダメだ。もう、自分でバレエを習って体得するしかない」
しかし当時はまだインターネットもなく、今のようにYouTubeで動画を見て独習するわけにもいかなかった。
そこで私はひきこもり中だというのに、カルチャーセンターに通い、大人用のバレエ教室に入った。
その時は自分が運動が苦手であることも、すっかり忘れていたかのようだった。
初めて入ったバレエの世界は、優しくユーモア溢れるところだった。
体育会系やブラック部活の悪いノリは全くなかった。
無駄なことはしない。無理なことはしない。根性も求められなかった。
私は、運動が苦手だったのではなく、体育会系のノリが嫌いだっただけだ、とわかった。
バレエを習ったことには、思いもかけないオマケがついて来た。
側彎症の苦しみが軽くなったのだ。
初めてのレッスンが終わった後、私は
「あー、お腹すいた」
と思った。
そしてすぐに
「ん? お腹すいたって思ったことって最近あるか? ない。 いつ以来ない? いつからお腹すいたって思ってない?
えっ、もしかして、13才で装具をつけて以来じゃないか? じゃあ12年ぶりだ!」
私は改めて装具の本当の苦しさがわかった。
それから、バレエをやるにつれて、体調はどんどん良くなっていった。
側彎症の苦しさも減らしてくれるなんて、これはもうバレエの神様に足を向けて寝られないと思った。
精神を病んで引っ込み思案に
しかし、私は30才のときに精神の病いを患ってしまい、精神科デイケアや精神障害者地域活動支援センターに通うようになった。
健常者の中に混じってバレエをやっていても、べつに他の誰も私の病いに気づくことはなかったのに、私は「自分は人と違う」ということが気になって仕方なくなっていった。
「背伸びをして、何かレベルの高いことをして、病いが悪化してもいけない。小さく影となって生きた方がよいのではないか」
そんな思いは、いよいよ私を引っ込み思案にした。
「私はもう変わってしまった。もう社会生活はいっさい無理だ。社会から離れて閉じこもるしかない。社会の外でアウトサイダーとして生きるしかない」
と考えるようになった。
こうして私は、バレエを一度やめてしまった。
想いをあきらめきれず
しかし、バレエ雑誌は愛読しつづけ、公演を観にいくこともやめなかった。
バレエのこととなると、とにかく私は脳内にアドレナリンが出て、チケット発売日が近づくとテンションが上がるのだった。それを下げるには、チケットを買って公演に行くしかなかった。
それだけは精神の病いを患ってからも変わらなかった。変えることができなかったのである。
一方で私の中では「バレエを習うのを再開したい」という思いもくすぶり続けていた。
でも、やはり健常者の中で何食わぬ顔をすることは無理に思えたし、それによって病いが悪化することも恐れた。
それで私は、私の障害をわかってくれるダンスの先生がいないか、障害者のダンス教室がないか、と探すようになった。
探し続けて20年が経った。
ある日、あるダンスチームの写真が新聞に載っていた。
そこでは障害者の人たちが気持ちよさそうに踊っていた。
それを運営しているのは、障害者のダンスをやっているあるNPO法人だった。
それを見た私は、そのチームを自分の目で見てみようと、その団体の野外パフォーマンスへ出かけていった。
それは、とても良いパフォーマンスだった。
ダンス鑑賞歴30年、バレエ教室歴5年の私には、このチームを教えている先生が本物の力を持っている人だということもすぐにわかった。
「この先生に習いたい」
私は本部テントへ行って、そこでダンスを習いたい旨を告げた。
「ここでダンスを習うには、このNPO法人の利用者にならないといけない。外部からの参加はできない」
と言われたので、私はすぐにこのNPO法人の利用者になることも決めた。
偶然にも、
「作業所に行くなら、こんな作業所がいいな」
と思っていた所が、この法人が運営する作業所だったことも私の背中を押した。
今では、このNPO法人の作業所でお菓子を作り、毎週水曜日の午後にダンスの練習をしている。
私の昔を知る人は、20年も経ってまたダンスを始めたという私を見て、驚いたり呆れたりしているかもしれない。
でも、ひきこもりであっても踊れるし、精神の病いを持っていても社会の影で小さくなっていなくてもいいのだ、ということを私は自分のダンスの動き一つ一つで人々に示したい。
(了)
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