「不登校」最終解答試論 喜久井伸哉
かつては「学校恐怖症」や「登校拒否」だった名称が、なぜ「不登校」になったのか。言葉の歴史をたどることで、現在の「不登校」論の問題点を探ります。(全3回 /文・喜久井伸哉)
「不登校」の名称の歴史 類語・関連語小辞典 ②
登校拒否(とうこうきょひ)
「登校拒否」は「スクールリフューザル(school refusal)」の直訳です。この翻訳語が、「学校に行かないこと」をめぐる言葉の歴史の、最大の転換点だったといえるでしょう。
日本の公的な記述で初めて「登校拒否」という言葉が確認できるのは、1957(昭和32)年、厚生省児童局監修『児童のケースワーク事例集』の中の宮城県からの報告です。
精神医学の論文で最初に「登校拒否」が用いられたのは1959年、高木隆郎等による「長欠児の精神医学的実態調査」でした。
最初の書籍としては、佐藤修策『登校拒否児』(1968年)があります。
その佐藤の論文でもっとも早い時期に出されたのは、「神経症的登校拒否行動の研究」(1959年)でした。この論文では「登校拒否」の例がいくつか紹介されており、最初に小学校四年生(9歳)の子のケースに論究しています。
その子は精神的な異常がないにもかかわらず欠席し、教師も親も、何が起きているのか理解できなかったといいます。
『発病中登校すると、発病前と少しも変わりなく行動していた。どうして休むのか理解できなかった。教師も親もその変化、そこに潜む心理的機構が理解できなかった。「二重人格」かとも疑った。』
ここでは「発病」と言っていますが、言葉も概念も広まっていないなかでの「登校拒否」は、現代の「不登校」のわかりづらさを超えるものでしょう。
当時の「登校拒否」は、子どもの病気か、少なくともなんらかの異常だと思われていました。
1950年代には、法務省から依頼を受けて対処にあたった小児科医の平井信義による、「平井式強奪療法」が反響を得ています。(名称からして危険そうですが。)これは「学校に行かないこと」を、子どもの人格およびその人格を育てた両親の問題ととらえ、子どもを強引に家庭から引き剥がす方法でした。
70年代のはじめまで、児童相談所の児童福祉士は、朝になって子どもが「学校に行かない」という連絡があると、「家にいってふとんをひっぺがし、無理やり学校へ引っ張っていった」といいます。
60年代以降は、「非行」や「怠学」や「病気」以外の見方も生まれていきました。
「学校に行かない子ども」とは何か。研究対象にした子どもや、専門家の価値観や主義によって判断が変わってくるため、教育関係者や医者たちの百家争鳴と時代となります。
子どもたちが「学校に行かないこと」は、特定の出来事や心理的要因に回収できません。そのため専門家は実際に目にした事例を見て、それぞれにとって正しい「原因」や「解決策」を主張したのです。
山岸竜治の『不登校論の研究』(批評社 2018年)では、「本人・家庭原因説」「父親の不在原因説」「自我の肥大原因説」など、「不登校」の「原因」を論じたバリエーション(もっといえば、いかに子供や親のせいにされたかのバリエーション)を分類しています。
「登校拒否」に対しては、分離不安説、自己万能感脅威説、回避反応説、抑うつ不安説など、精神科医たちの真剣かつ珍妙な論考がありました。
現代から歴史をながめると、それらの多くが虚しい試みであったように思います。
精神科医たちの「診断」や、戸塚ヨットスクール事件などの「体罰」によって、多くの命が失われました。
(かつての精神科医や体罰の擁護者たちが、子どもとその家庭を愚弄しておきながら、ほとんど誰も謝罪していないということに、私は静かに憤っています。)
長年にわたり、「登校拒否」の子どもの印象は病的なものでした。
フリースクールの東京シューレを興した奥地圭子によれば、80年代後半、取材に来た記者が明るい子どもたちを見て、「この子たちはほんとうに登校拒否なんですか?」とけげんな顔をしたといいます。
2001年においても、当時の町村文部科学大臣の差別的発言がありました。
記者団に対して、「小中学生の不登校は、はき違えた自由・子どもの権利の行き過ぎが原因」と言ったのです。
すでに「不登校」と言っていますが、文科省のトップがこのような認識だったことも、「登校拒否」の暗い歴史の結果でしょう。
「登校拒否」が「不登校」に置き換わっていったのは、1990年頃のことです。
「登校拒否」を用いた最初期の論者に、佐藤修策がいました。
その佐藤による「登校拒否ノート —きのう、きょう、あした」(1996年)には、文献のタイトルに使用された関連用語の統計が出ています。
対象は1991年12月末までに発表された1008例で、主な結果が以下となっています。
登校拒否 749件
学校恐怖症 107件
不登校 50件
学校ぎらい 29件
91年までは、約74%が「登校拒否」で、「不登校」は約5%にすぎませんでした。
統計では90年前後から急速に「不登校」が増えだしており、「登校拒否」が「不登校」に入れ替わる時期がわかります。
不登校(ふとうこう)
1960年、研究者のハーゾフが「ノンアテンダンス・アット・スクール(nonattendance at school)」について論じました。この訳語が「不登校」の名称の原点となります。
日本の学会では、1968年秋、日本児童精神医学会の思春期精神医学のシンポジウムで、精神科医の清水將之(まさゆき)が使用したのが最初でした。
専門書に登場するのは1972年の論文で、清水等による研究グループの発表です。
『ここでは、諸種疾患のための就学不能、親の無理解や貧困による不就学、非行などが原因となっている怠学などを除外したものを一括して、不登校(non-attendance at school)と称している。』(辻悟編『思春期精神医学』金原出版 1972)とあります。
現在の文科省の定義と似ています。
文科省の定義は以下です。
『何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの』。
しかし、「不登校」の定義は論者によってさまざまです。
Wikipedia(2023年2月現在)にも、『統一した定義がなくきわめて多義的である』と書かれています。
90年代には、森田洋司による定義がよく引用されていました。
定義はこうです。
『生徒本人ないしはこれを取り巻く人々が、欠席並びに遅刻・早退などの行為に対して、妥当な理由に基づかない行為として動機を構成する現象である。』 (森田洋司 1991年)
「動機を構成する現象」はアカデミックな表現ですが、ここでは欠席だけでなく、「遅刻・早退などの行為」も含まれています。登校していても、出席を回避しようとする行為があれば、「不登校」に含むという判断がなされています。
一例として、はっきり「登校できなくなった状態」とした定義を挙げておきます。
『本人・家庭・学校・地域・社会のおのおのの要因(登校に関しては不利となる条件)の絡み合いによって、子どもが精神的に疲労困憊し、登校することに不安を覚えるが、登校しなければならないという義務感のために葛藤状態となり、ついに登校できなくなった状態』 (門眞一郎 1998年)
また、以下の定義は比較的シンプルです。
『学校教育に対してなんらかの要素との関連において長期欠席が生じ、そこに悩みや不安や葛藤が生まれているもの』 (滝川一廣 2012年)
文科省の定義では、理由の定かでない長期欠席を「不登校」としていました。
しかし上記の門や滝川の定義では、長期欠席だけで「不登校」になるわけではなく、欠席とともに葛藤や悩みが生まれているもの、と狭めています。
私自身の「不登校」の体験においても、出席の有無やその日数より、欠席時の「悩み」の発生に「問題」がありました。
長期欠席だけなら、フリースクールやホームスクールをうまく活用するなどし、周囲が問題化しなければ、「悩み」にはなりません。わざわざ「不登校」を議題にする必要はないのです。しかし欠席が何らかのかたちで「悩み」になることから、「不登校」の「問題」が表れていたように思います。
➡「不登校」の名称の歴史①
➡次回 「不登校」の名称の歴史③「登校拒否」から「不登校」への分岐点 3月30日(木) 更新予定
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000