ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「正当な差別」を受けている日常 今日を「事件」にしないためのLGBT法案

文・写真 喜久井伸哉/画像 Pixabay

 

現在、国会では「LGBT理解増進法案」の議論がおこなわれています。ひきこもりの経験者で、ゲイでもある執筆者は、この法案に問題があると指摘。LGBTの当事者の声をお届けします。

 

 

日本にも、ようやくLGBTへの「差別禁止法案」ができる……と思っていた。
だが、それはまだまだ、先のことらしい。
現在、国会でまとめられようとしているのは、「LGBT理解増進法案」だ。
「LGBTを理解しよう」というもので、「差別禁止」に比べると、抽象的で、ふわっとしている。
しかも、法案について知れば知るほど、内容が不十分に思えてくる。

大きな問題は、たくさんある。語りだすと大変な、政治や人権や歴史の話だ。
それは、私の手にあまる。
なので、ここでは比較的小さな問題の、言葉遣いについて、一点だけ言う。
法案の中の、「不当な差別は許されない」、という文言についてだ。

当初、野党がこの法案を提出したときには、「差別は許されない」、と断言する文言だった。
「性的指向や性自認によって、差別をしてはならない」、という趣旨の(、私にはとても普通に思える)言葉だ。
それが、自民・公明の修正が入り、「不当な差別は許されない」という文言に変わっている。
維新の会と、国民民主の案も、これを追認している。
「差別」ではなく、「不当な差別」。
変な言葉だ、と思う。というより、言葉が、狂っている。
どこかに、「正当な差別」でもあるかのようだ。
「不当」、という表現が、すでに不当な何かを生んでいる。

 

第二次世界大戦のとき、一部の人は、「良い戦争」という言い方をした。
普段は、表向き「戦争反対」を主張していても、「これは『良い戦争』だから、国家にとって必要なことだ」と、「戦争」という、本来なら「あってはならないこと」の例外にした。
「良い戦争」があるくらいなら、一部の人たちには、「良い差別」もあるのかもしれない。
「これは『良い差別』だから、国家にとって必要なことだ」と。「あってはならない」はずの「差別」に、「正当な差別」をする余地を、残したのかもしれない。

 

当然ながら、「差別」は許されない。
学校や会社で権利が奪われたり、どんな場所でも、罵しりの言葉が放たれることなど、あってはならない。
そのような出来事は、修飾語のいらない「差別」であり、「事件」にあたる。
「事件」になるようなことは、「禁止」されるべきだ。
ただそれだけのこと、ではないのだろうか。

 

もっとも、政治家たちの議論は、「事件」をどうするか、という観点ではないのかもしれない。

「(自分たちの暮らす)社会が変わってしまう」こと、であり、「日常」が変わってしまう、という、嫌悪からくる混乱なのかもしれない。

私は、「ゲイ」にあたるセクシャリティで暮らしている。
これまでの私の「日常」に、過酷な「差別」があったとは、いえない。
少なくとも、「事件」として報道されるほどの出来事は、一応、なかった。
同性愛によって、リンチを受けたり、ひどい差別語を言われたりを、されてきたわけではない。
(ただし地元で、同性愛者を狙った、殺人が起きたことはあった。
自分が「事件」にならないための労力をかけてきた、とはいえる。)

それでも、マイノリティであることは、特別な「事件」でなくとも、何げない「日常」を困難にさせてきた。

同性と結婚できないことや、恋愛の話で異性愛が前提とされること。
それは、「事件」とはされない。日本の、「日常」にすぎない。
だがその「日常」が、やはり、苦しい。

 

かつて、ゲイの「日常」は、「事件」だった。
昭和期のテレビの、バラエティ番組では、「ホモ」、「気持ち悪いもの」とされ、「おかしな人」として、笑われる対象だった。
それは、現代なら「差別」として、「事件」にあたる。

ジェンダーについて言うと、女性差別も、今よりもさらに激しかった。
女性が政治家や、科学者や、企業の社長であることは、今以上に困難だった。
「セクシュアルハラスメント」という言葉も、一般には知られていなかったくらいだ。
現代なら「事件」になることが、そもそも「差別」として、認識されていなかった。

(その他の、誰しもに身近だった事柄でいえば、昭和期の新幹線では、どの席でもタバコが吸えた。
それは昔の「日常」だったが、もしも今、座席でタバコを吸っている人がいたら、ちょっとした「事件」にあたる。)

 

かつての「日常」が、今の時代には、「事件」になる。
そして、現在の「日常」にも、未来には「事件」になることが、数多く含まれている。

(もしかしたら、それらこそが、「正当な差別」にあたるものなのかもしれない。)

性別といえば「男性か女性か」しかなく、恋愛といえば「異性愛」だけを意味し、結婚といえば「両性」に限るもの。

一般の人の「日常」が、私には「事件」だった。
息の詰まるような、今の時代の「日常」が、いつか多くの人にとっての、「事件」に変わってほしい。

 

最後に一つ、小さな話をする。

先日の、5月30日は、私にとって少しだけ、望ましい、未来を先取りするような、「日常」があった。
一つは、名古屋地裁で、同性婚を認めないことを、「違憲」とする判決が下されたことだ。
全国で、二例目となる判決だった。
同性婚の合法化が、いつかは起こるだろう、と思える結果だった。

同日に報道されていたのは、杉田水脈衆院議員の、敗訴の判決だった。
国の科学研究費に関して、事実と異なる発言をし、関係者の名誉を傷つけたことによる。
杉田氏は、2018年に、「LGBTは生産性がない」と発言した人だ。
(のちに、この発言は「撤回」されている。私の記憶からは、何も撤回されていないにしても。)
裁判の結果は、暴言や事実誤認があれば、それが公的に間違いだと反証される、という実例だった。
杉田氏の裁判は、セクシャリティの話と、直接かかわるわけではない。
しかし、この実例はわずかながら、私を励ますものだった。

また、同じ30日に届いた、地元の自治体の広報誌が良かった。
特集のタイトルは、「性の多様性が尊重されるまちを目指して」。
新聞の折り込みではなく、全世帯に配布される広報だった。

地元自治体の広報紙

自治体からの配布物なんて、ほとんどの場合は、家に届いたとしても、そのまま捨てかねない、取るに足らないものだ。
どうということのない、「日常」にすぎない。
しかし、全面的に「性の多様性」を伝える内容は、(妥協を含んでいるにしても、)理解のある人によって、制作されていた。

私にはこのような、取るに足らないほどの「日常」が、ささやかな慰めになるものだった。
このような「日常」の先に形作られるものが、私の未来の「日常」であってほしい。

 

 

 

--------------
執筆者  喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。
ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000

 

 

   オススメ記事

●私の空にかかる虹は黒色 「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ

 ●ガラスの墓 性的少数者の〈見えない生きづらさ〉

www.hikipos.info