文・ぼそっと池井多・なお
殴られるのがこわくて中学校へ行けなかった
ぼそっと池井多 なおさんといえば、関東のひきこもりや精神障害の界隈では「生きづらさJAPAN」を立ち上げた人として、また、それに附属する当事者会運営者ネットワークを作ってくれた人として広く知られています。私も後者でお世話になってるわけだけど、今までどういう人生を送ってきたかを体系的に聞いたことがなかったんだよね。
だから今晩は、おいしい日本酒を飲みながら、それを聞かせていただこうと思って。
なお あ、いいっすよ。
ぼそっと池井多 まず、どういう家庭に育ったんですか。
なお うちは普通のサラリーマンの家庭だったんだけど、親父がすんごい遊び人だったんすよ。
俺が小学2年の時に父親が女を作って家出しちゃって、帰ってこなくなって、両親が離婚するんですね。自分は母親についていって、東京に引越して、転校した先がすんごい荒れた学校だったから、小中とすんごいイジメにあいました。それで中学のときは不登校だったんです。
とにかく中学校では暴力が盛んで、学校へ行ったら殴られるっていう所だったから、学校行くのが怖くて、もう中学2年まではひたすら家に引きこもってゲームしてました。
ぼそっと池井多 高校は行ったんですか。
なお 「高校は行かないと話にならない」とか言われたもんだから高校は行くことになって、行ってみたら高校はとても良かったです。高校3年間は普通っちゃあ普通かなあ。中学のときの知り合いに「バレーボールやんない」って言われて、バレー部に入って活躍してました。
ぼそっと池井多 なんかすんごい健全な青春ですね。
なお もちろんそうじゃない部分もありますよ。当時、高校のクラスで競馬が流行ってたんですよ。もう授業中も授業終わったあとも、みんな競馬の話で持ち切りで。
ぼそっと池井多 あははは。授業中も、っていうのが面白いね。
なお 俺は童顔で自分じゃあ馬券を買いに行けなかったもんだから、友達に頼んで俺の分まで馬券を買ってもらって。
そのうち友達はみんな関心が競馬から移ってスロットやり出したんです。そしたら俺もスロットとか、もうそのへんからギャンブル依存症の日々が始まってくんだけど。
ぼそっと池井多 ぼくの高校では、ぼくはやらなかったんだけど、ある階層の同級生たちの間ではパチンコが流行ってたなあ。高校2年でもすでにパチプロがいて、
「おれは煙草を買ったことがない。パチンコ屋でもらう景品だけで間に合ってる」
なんて自慢してるのがいました。
なお それと並行して高校2年の終わりごろ、母親が再婚するって話になったんですよ。ところが母親の再婚相手が、とにかくおれと馬が合わなくて合わなくて。だから、俺はその結婚に猛反対したんだけど、「うちはお金ないから、しょうがないじゃない」ってことで、もう結婚は決定事項になってて。
でも俺はその人と住みたくないから、実の父親のところへ行こうかと思った。実の父親は女作って再婚して、もう子どももいるんだけど、そっちへ行こうと。
それで父親のとこ行くんですけど、まあ、そこから生活が荒れ始めましたね。
ぼそっと池井多 どういう風に荒れたんですか。
なお 酒は飲まなかったけど、タバコ吸ってギャンブル三昧。もう無茶苦茶なもんで。
父親に急に「大学へ行け」って言われたんだけど、そんなにすぐ勉強好きになんかなれないじゃないですか。
だから、二浪することになったんだけど、浪人時代はとにかく遊びまくって、もう人生その先どうなるか全然わかんなかったですよ。
でも、運がいいことに二浪したあと大学に受かって、そこがたまたまコンピューターの大学だったんです。大学でもさっぱり勉強する気にはなれなかったけど、それでもコンピュータと数学の授業だけは好きだったからちゃんと聞いてました。単位もうまいこと取って、なんとか卒業もできそうだ、となりました。
ぼそっと池井多 ときに西暦何年だったんですか。
なお おれが就活したのはちょうど2000年っすね。
ぼそっと池井多 じゃあ、もう就職氷河期真っ盛りっていうころかな。
なお そう、氷河期で就職がめっちゃ厳しい時代だったんだけど、でも同時にITバブルも始まっている時期で、IT関連の求人がすっごいたくさんある状態だったんですね。
法定労働時間の3倍ブラック
ぼそっと池井多 じゃあ、コンピュータ系の大学出てるなおさんは引く手あまただった、と。
なお そうそう、やっぱ、あの頃って技術者がそんなにいなかったんです。だから「プログラム勉強してますよ」っていうとすんごいその需要があって、もうドンピシャでしたよ。それで、ある下請けのIT企業に入ったんです。
ぼそっと池井多 勤め始めて、どうでしたか。
なお 最初3ヵ月の研修を受けなくちゃならないんだけど、そのうちの最後の1ヵ月で会社向けのプログラムの作品をつくらされるんです。みんな間に合わなくて徹夜になる、っていう地獄の1ヵ月なんですよ。
ところが、おれはそれをノー残業で、しかもたった2週間で終わらせたものだから、社長あたりが
「なんだ、こいつはすごいぞ」
って騒ぎだして、
「お前、新人だけどすぐに稼働しているプロジェクトに入れ」
って言われて、ある不動産会社に出向して、注文住宅のホームページの制作をやることになったのね。
ぼそっと池井多 ほう。
なお そのプロジェクトは楽しかったっすよ。調査でいろんな所へ出かけていったりして。そういうときにどうしても他のプロジェクトの話とか聞くじゃないですか。そこで、
「先輩は月500時間仕事しました、同僚も月400時間働きました、それで残業代は出ません」
って聞くと、
「なんだ、このブラックな会社は」
って思うようになりますよね。
ぼそっと池井多 私は働かない人生を歩んできたからわからないんだけど、月500時間、月400時間っていうと、どのくらいひどいの?
なお 今ふつうに働いたら、週40時間だから月160時間じゃないですか。だからその3倍っすね。
ぼそっと池井多 ああ、なるほど。
なお 先輩たち、みんな徹夜してましたよ。これじゃあ出向先から本社へ戻ったら身体をこわすと思ったら、案の定、身体こわしました。
まず徹夜とか続くから睡眠のサイクルがおかしくなって、医者に行ったらうつ病と診断されて、「仕事やめろ」っていわれたから仕事やめて、それで闘病生活の始まりよ。
ぼそっと池井多 仕事やめることに対して未練とかなかったの。
なお その会社に対してはやめることに未練はなかったかな。ただ、仕事やめてそのあとどうするかっていうプランがまったくない状態でやめざるをえなかったから、そこに不安はあったね。
やめたといっても傷病手当をもらえるので、2年間休職にしたの。
傷病手当が切れたときに、仕事に戻ろうと思って、それで就職したのが不動産業界で有名なH社ですよ。H社のことは前からよく知っていたんだよね。前の会社でも不動産関係のプログラム作ってたから。
ホームレスになってうつ再発
ぼそっと池井多 H社に入れたのは、なおさんが持ってたスキルの高さのおかげだろうね。
なお そう、それは本当にスキルの高さ。それに同じ不動産関係ということでプログラムも作りやすかった。はじめ試用期間3ヵ月で働いて、ようやく正社員になれそうだっていうときに、今度は家庭のほうでトラブルが起こったのよ。
ぼそっと池井多 どういうトラブル?
なお 父親から「出ていけ」って言われたんです。
父親とはいっしょに住んでてもずっと仲が悪くて、もう会話もしてなかったから、いま俺がどういう状況かなんてこともまったくわかってなくて、それで何も聞かずにとにかく「出てけ、出てけ」ですよ。
しょうがないので、もう「じゃあ、出てく」って話になって、仕事は週5日働きながら夜は帰る家がないというホームレス状態になりました。最初はカプセルホテル3連泊から始まって、最後は友達の家に泊めてもらったりとか。昼間は仕事へ行きながら、合間に新しく住む部屋を探すという生活。
母親も、俺と仲が悪かった義理の父親とは離婚してくれるってことだったのに、やっぱり離婚しないって言ってきたし。じゃあ、俺はもう誰も家族いないまま生きていかなくちゃいけないんだな、と思って。それでうつ病が再発したんです。
ぼそっと池井多 そうかあ。ぼくも37歳で誰も家族がいないまま生きていくことになったな。
なお 俺の場合は、それでも頑張って1年ぐらいは仕事続けてたんだけど、やっぱり無理だったんだよね。毎日終電になるみたいな仕事だったし。
H社の仕事は、楽しかったは楽しかったけど、親から切られた心の負担がすんごい大きかったから、それで病気が再発して、もうだめだとなって会社をやめた。H社にはほんと未練タラタラでやめることになったんですけど、それからいろいろな職場を転々として、結局もう正社員は無理だと思ってフリーランスになるんですよ。
ぼそっと池井多 フリーランスになって、どうでしたか。
なお フリーでも当時で月55万という破格な仕事ができたんすよ。でも、やっぱ病気が治ってないから身体を壊して長く続かない。どんなに頑張っても半年が限界だった。
そのうち完全に仕事ができなくなって、パチスロで生活するようになりました。それと同時に障害年金を申請して、こちらは運が良いことに5年分の遡及請求が認められて330万円ぐらいが一気に入ってきた。27歳で病気になったんだけど、申請した時は33歳だったので。
そうしたら双極性障害が躁転して、金遣いがむちゃくちゃ荒くなって、全部スロットとか海外カジノとかギャンブルに使っちゃった。ものすごい借金を背負っちゃって、にっちもさっちも行かなくなって、それで自殺を考えたんです。
富士の樹海で死のうとしたら
ぼそっと池井多 何歳のときですか。
なお 34歳です。ときに2010年の11月で、死のうと思って、富士の樹海へ行ったんです。
でも、樹海のなかで2、3日は生きてたいなと思ったから、寝袋とお酒だけは持っていったんですよ。いよいよ死にたいと思ったら、これで酔っぱらって死ねばいい、と思って。
ぼそっと池井多 そっかー、追い詰められてたんだね。
なお ところが、樹海で独り最後の宴会を張ってた初日の夜に携帯が鳴ったんです。
「樹海でも電波が届くところがあるんだな」
と思ってびっくりした。
誰かと思ったら、もう何年も連絡してなかった母親だったんですよ。
「このごろどうしてるの」
なんて訊くから、
「なんだよ、いま死のうとしてるんだけど」
って言ったら、母親は
「やめなさい、なんとかするから」
って泣きだしちゃって。
それで死ぬのやめて樹海から帰ってきて、母親の家に寝泊まりするようになったんです。借金もぜんぶ立て替えてもらって、しばらくそこで暮らすことになりました。
ぼそっと池井多 よかったねえ。
なお そうやってメンタルがボロボロの状態で2011年を迎えたわけ。2011年というと、ほら、東日本大震災ですよ。それでいよいよ何もできなくなっちゃって、ほとんど寝たきりの生活を送っていたんだけど、母親が再婚した義理の父親は、
「お前は自分で病気から治ろうと努力していない。出ていけ」
というんですよ。
ここで出ていったら、もうホームレスになるしかないと思って、絶望して2011年8月に2回目の自殺未遂をしたんです。
でも死ねなくて。入院すらできなくて。あのときの絶望感はたまったもんじゃなかったです。親はもう何もしてくれない、病気で何もできない、どうやって生きていったらいいんだろう、と思って。
そのときに「俺、まずギャンブルをやめなくちゃいけないな」って考えたの。
それでホームページ見てたらGA(ギャンブラーズ・アノニマス)ってあるじゃないですか。
「なるほど、自助会っていうのがあるんだ」と思って。
それでうつ病の自助会を探したら、家から近い浅草にあったんです。そこへ行ったら、今も当事者活動をいっしょにやっているゆまさんに初めて会ったというわけ。
自助会で仲間たちと出会って
ぼそっと池井多 ゆまさんはそのころは運営者でなく、参加者としてうつの自助会にいらしたんですね。
なお そう、そう。でも、その自助会の主催者のおじさんがちょっと攻撃的な人で、
「ちょっとあの人危ないよね。いつまでもここに居られないね。どうしようか」
ってアフターでファミレスに行った時にゆまともう一人の参加者と話していたんです。
それで「自分たちで作っちゃおう」ということになって、2012年2月に立ち上げたのが「東京うつ病友の会」でした。
その自助会はおかげさまで大きくなって軌道に乗ったんだけど、家庭のほうが相変わらずうまく行かなくて。いろいろな人に相談したら「やっぱり独り暮らしするしかないんじゃない」ということになって。
それで親からも少し援助してもらって独り暮らしを始めました。一方で自助会を運営して。
あとは仕事ができないから作業所に行くことにして、でもIT業界に戻りたいという気持ちはあったから、作業所へ行きながらホームページ制作を請け負ってました。
それでしばらく順調に行ってたんだけど、2017年に東京うつ病友の会に変なスタッフが入ってきちゃって、たちまちトラブルが起きて荒れた状態になっちゃったの。それで2017年の終わりに解散して、ゆまがそれを引き継いでやっているのが今のReOPA(レオパ)。
東京うつ病友の会が荒れて悩んでいたころ、住んでた荒川区の精神障害者地域生活支援センター「アゼリア」でがきんちょに出会って、がきんちょにいろいろな他の自助会や当事者会に連れていってもらったんすよ。それが庵-IORI- であったり、みなきんぐさんの界隈バーであったり、みどるだったりするわけなんだけど。
生きづらさJAPANを立ち上げる
ぼそっと池井多 それが2017年から2018年ぐらいですか。
なお そうですね。それまで自分は「ひきこもり」というワードとは無縁でした。
それでがきんちょの家でみんなで飲んでるときに、
「なおさんはいま何もしてないけど、スキル持ってるんだから、何かに使った方がいいんじゃない」
みたいなことを言われて、作ったホームページが「生きづらさJAPAN」だったんですよ。
生きづらさJAPANのメインな機能はイベント・カレンダーだったんですけど、イベントを登録者に告知するのってなかなか大変じゃないですか。そのシステムを作ってT.Hくんに教えていたのが2019年から2020年にかけてぐらい。
それで、2020年に生きづらさJAPANが本格的に完成したところでコロナ禍がやってきた。
イベントが開催できないんじゃ生きづらさJAPANをやっててもしょうがないよね、ということになった。一方では、コロナ禍でリモート勤務が増えてきた。それで俺はコロナ禍はチャンスだと思ったんだ。
ぼそっと池井多 ほう。
極貧から高給取りへ一発逆転?
なお そのころB型作業所で人間関係がうまくいってなかったので、A型作業所に移動したんですよ。
でも、そこで副業は禁止といわれたのがキツくて。だって俺のスキルだったらホームページ制作を受注することができたもん。
それにその作業所で働いている他の人はみんな技術なくて、そこで技術を勉強をしに来てるんだけど、俺はすでにプロとして仕事してきたキャリアがあるし、そこで教えている作業所のスタッフなんかよりはるかに俺の方が知識を持っていて、結局は俺がスタッフたちに教えることになる。そうすると作業所のスタッフに毎日教えて、それで自分がもらうのは最低賃金っていうのは、ちょっとバカバカしいなってことになって。
それでA型作業所やめて、またフリーランスの仕事探したんですよ。そうしたら月60万の仕事が見つかったというわけです。
ぼそっと池井多 おそらく読者の人たちは、そこをいちばん聞きたいんじゃないかな。
なお 月60万の仕事の中身はバリバリのプログラミングですよ。でも、そこでやってることはA型作業所と変わらない。
でも、拘束時間が作業所は1日4時間だったのに対して8時間だったの。勤務が週5日であることは変わらない。
でも作業所は週5で通勤、フリーランスは週5でフル・リモート。ずっと家にいられるんだったらフルタイムで仕事できるかな、って思ったわけ。
ぼそっと池井多 フリーランスは自分で仕事をもらってくるのが大変なのでは?
なお いや、フリーランスはエージェントがどんどん営業してくれるんですよ。
それで面談依頼がたくさん来るから、面談をたくさん受けてるうちに、
「あ、ここいいな」
と思って決めたところが月60万でした。
もう決まるまでA型作業所やめてから1ヶ月ぐらいでしたね。
2021年までB型作業所にいて時給200円、実質タダだよね。
2022年にA型作業所へ移って時給1000円、最低賃金。
でも一ヵ月で月60万の収入に変わりました。時給換算3750円。
それはほんとうに一瞬の出来事みたいな感じでした。
そこでやってた仕事はプログラムの設計と開発、プログラム確保とか全てです。
ただやっていたのはH社なみに難易度が高いプログラムで、ガチな職場に戻るのは久々だったので、いろいろ苦労はしましたけど。
一発逆転を狙う当事者たちにアドバイスは
ぼそっと池井多 話を戻すと、2019年に生きづらさJAPANを立ち上げて、そのときはどういう将来性や展開を考えていたの。
なお もともとはさっきも言ったように、イベントカレンダーを作りたかったんですよね。でも、それだけでは収益が入ってこないから、ブログとかも考えていて。あれは課金できる、noteみたいなサイトだったんですよ。ウェブ上の雑誌ですよね。だから読者が増えていけば、課金で収益が入ってくるというのを期待しました。クレジットで課金できるシステムはもうできあがっていたので。
あとは客を増やしていくだけ、っていう所まで行ってたんだけど、コロナ禍で世の中おかしくなっちゃって、それでうまく行かなくなりました。
それから生きづらさJAPANの真の目的には就職活動もあったんです。
フリーランスで仕事していたときのエージェントに「もっと直近の実績がほしい」って言われていたことがあって、もし生きづらさJAPANをサイトとして最新の技術を入れたしっかりしたものに作れば、あれ自体が一つのプレゼンになって、それを実績として大きな会社とかプロジェクトに入れるかな、という期待もあったんです。
それは実際、月60万の仕事をゲットするときにすごく役立った。あの仕事はやっぱり生きづらさJAPANを作ったという実績を示せたから獲れた仕事だと思う。T.Hくんもあれでインフラ会社に就職したし、やっぱり生きづらさJAPANという当事者活動から二人は社会へ巣立っていったという側面がある。
ぼそっと池井多 今ひきこもっている当事者の方々のなかで、なおさんみたいな一発逆転を夢見る人ってきっと多いと思うんですよ。B型作業所の時給200円から、あっという間に月給60万になる奇蹟みたいなことを夢見る人って。そういう人たちに何かアドバイスはありますか。
なお 極貧状態から月60万稼げるようになった秘訣は、コロナ禍を味方につけたことかな。
あれで会社への通勤がみんなリモートになった。たとえばひきこもりとか精神障害をかかえている人っていうのは、みんな朝起きられないじゃないですか。だから会社に通勤して週5日働くというのが無理になっちゃうわけだけど、フルリモートならばワンチャンあるんじゃないか、って。ひきこもりながら仕事できる。それは伝えたいですね。
それから、ポンと月収がとつぜん60万に跳ね上がったように見えるだろうけど、そこに至るまでにはやっぱり地道な努力もあったのよ。
まずは体力づくり。フルタイムで働こうと思ったら、たとえリモートで働くにしても、1日8時間、週5日は最低働かなくちゃいけない。それに耐えられる身体を作っておくこと。
でも、何か過酷なトレーニングとかする必要はない。ジムに通う必要なんかもない。
自分の場合、身体づくりはどこで行なったかというと、B型作業所通いですよ。
作業所なんて、金を稼ぎに行くところじゃない。時給200円もらったって、何にもならない。でも、毎日外に出てどこかに「通う」という習慣がつく。「通う」体力は馬鹿にならない。そのための作業所だと思ってる。これで体力はつく。
それから第二に、自分なりの武器を作っておくことですかね。自分の場合たまたまITという武器があったから、作業所でもその武器を磨いていた。それがいざとなったら役に立って月収60万に化けた。武器は何もITじゃなくてもいいと思う。
だから、一発逆転を考えている人たちへの俺のアドバイスは「体力と武器を持っておくこと」かな。
終活専門アドバイザーを始める
ぼそっと池井多 しかし、なおさんはその月収60万の仕事もやがて辞めちゃうんですよね。そのあたりを詳しく教えてくれませんか。
なお まあ、IT業界に戻ったはいいけど、やっぱり精神障害をかかえて夜は23時まで仕事なんていう日々は、そう何年も続かない。
結局1年半でやめたんだけど、いま振り返ってみると、よく1年半続いたと思うよ。
ITの世界には、また何かをきっかけに舞い戻るかもしれないけど、今のところはもっと緩い仕事をしようと思って、終活専門アドバイザーの資格をとって、そういう仕事を始めてます。
ぼそっと池井多 それはまたなぜ終活専門アドバイザーなどという、ITとはぜんぜん違う畑の仕事を始めることになったんですか。
なお 自分の親も年老いてきたし、自分ももう50歳だから、老後のこととかすごい関心があって。
やっぱり関心があることをやったほうがいいと思って。
お金は二の次なんですよね。
やっぱり自助会や当事者会で福祉の活動を長くやってきたから、この領域はなじみがあるんですよ。
【ご挨拶】
このたび相続終活専門士の資格を取得して、相続と終活のカウンセラーを始めました。(有償)
ミラクルカンパニー(代表:なお)
まだまだひよっこのカウンセラーですが、皆様のお役に立てれば幸いです。
もし何かありましたらまでご連絡下さい。
ご連絡先:miraclenao777@gmail.com
また、5/25に下記のようなオンラインセミナーを開催することになりました。
オンラインセミナー
「一から始める相続と終活」
誰もが訪れる老後
避けては通れない相続と終活
この期にいっしょに考えてみませんか?
8050問題でお悩みの方、ぜひお越しください。
日時 5月25日(土)14時~16時
場所 ZOOM
講師 宮野宏樹(相続なんでも相談センター代表)
参加 無料
お申込み方法
1.miraclenao777@gmail.com までメール
または
2.こくちーず告知サイトから
https://www.kokuchpro.com/event/b43b7cd6c5d2c1506fc54b9ee82629c8/
いずれかの方法でお申込みいただいた方にZOOMのURLをお送りします。
主催:ミラクルカンパニー
これからもどうぞよろしくお願いします。
<インタビュワー>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。VOSOT(チームぼそっと)主宰。著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
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