文・まさと
編集・ぼそっと池井多
ひきこもりの私が自立するために利用しているさまざまな制度について、私の体験した範囲内で具体的にまとめてみようと思います。参考になる方がいれば幸いです。
障害者雇用の制度を知る
私は東京の北隣にある埼玉県に住んでいます。土地柄としては大都市の郊外です。
精神病院での2度の長期入院のあと、私はひきこもっていました。倦怠感に苦しみ、将来を悲観して、無神経な母親を避けるため昼夜逆転していました。
それでも図書館で本を借りたり、NHKのニュースを観たりすることで社会とかろうじてつながっていました。
県知事の肝入りで川口市というところにニート支援の施設が開設されるのをニュースで知りました。交通費にも事欠く状態でしたが、なんとか工面し、施設に通うようになりました。そこは就労を目指す施設で、キャリアカウンセリングが受けられました。そこでカウンセラーに障害者雇用で働くことを薦められました。
障害者雇用での社会復帰を目指す
私はワープロのお世話になった世代で、パソコンが苦手でした。そこで職業訓練を受講することにしました。
職業能力開発センターという、厚労省管轄の訓練校でOA実践科という4カ月のコースを受験しました。受験する手続きはハローワークでできました。
試験科目は筆記試験と面接で、過去問をもらって対策しました。数学が出来なかったのですが、大学の受験勉強で得た知識でなんとか対応できました。
パソコンの基礎知識を問う問題はちんぷんかんぷんで、とりあえず何か書いておきました。面接は手応えがよくわからない感じでした。
いったん不合格通知が来ましたが、後日面接を受けた教官から電話があって、
「欠員が出たので受講しませんか」
と誘われ二つ返事で「受講します」と答え、それで受講することが出来ました。
雇用保険受給者は交通費がもらえるのですが、私は無職が長いため交通費は実費といわれました。どうしようかと思っていると、父が自転車を買ってくれて、自転車で通学することができました。訓練校には就職指導専門の教官がいて、面接指導の講義などもあり、通学しながら就活しました。
民間企業の障害者職業訓練を受ける
就職の教官に、「障害者雇用での就労を目指している」と伝えました。そうしたら、精神障害者の雇用に積極的な人材派遣会社の職業訓練を紹介してくれました。
障害者手帳と障害年金の申請は、通院している精神病院の精神保健福祉士に教わって問題なくできたのですが、まだ障害者手帳は交付されていませんでした。それにも関わらず、その人材派遣会社は私を受け入れてくれました。
OA実践科を修了して、すぐその人材派遣会社の訓練を受けました。埼玉県の中心部、浦和というところに、派遣登録しているスタッフさんのスキルを簡潔に1枚にまとめるスキルシート作成の専門部署があり、そこでスキルシート作成の訓練を受けました。
私はこの仕事に適性があったらしく、訓練用に用意されていた課題を早々に終えてしまいました。訓練の修了式で、本社の人事の方に、
「手帳とハローワークでの手続きが済み次第働いてください」
と言われてうれしかったです。
当時の障害者雇用は軽度身体障害者が主流だった
人材派遣会社の勤務時間は9時から13時半までで、時給1,000円の非正規雇用でした。当時、フリーターという言葉の響きは非常にネガティブだったので、私は正社員にステップアップしたいと考えるようになりました。「サーナ」という団体が障害者雇用の面接会を都内で開催しているのを知り、それに参加しました。
そこで私は精神障害者を排除している企業が多いことを知りました。足を少し引きずるとか、指が少し曲がっているというだけでも障害者手帳が取れるようです。
知名度のある企業は軽度身体障害者と内部障害で法定雇用率をらくらく達成しているようでした。私は幸い履歴書の空欄を埋めるため英検準1級を取っていたので、輸出に力を入れている部品メーカーに応募し、障害者トライアル雇用で採用されました。一般職でしたが正社員であり、年金と合わせたら十分すぎる給与がもらえました。しかし、リーマンショックがおき、トライアル満了で解雇されました。
LITALICOに通う
障害者向けの就労支援で知られるLITALICOは、当時ウイングルという名で、障害者の訓練と職業紹介をする民間企業として埼玉県が誘致したところでした。
無料でアットホームな雰囲気で、パソコン訓練や社会性を育むために協同してジグゾーパズルをしたり、人間関係を学びました。
自宅に居ると母にいじめられるので、そこに通うことは居場所にもなりました。生活も、そこへ通うために早起きを続けました。
通いはじめて2ヶ月くらいたった頃、ハローワークから求人表と「採用試験を受けないか」という文書が郵送されてきました。
損害保険会社の求人で、自宅から歩いて30分の会社だったので、採用面接を受けました。しかしそこは軽度身体障害者を採りたいようで、いったん不採用になりました。ところが数日後また電話があって、子会社の派遣会社の派遣社員という身分ならば、ということで採用されました。
損害保険会社で10年働く
保険会社は書類の段ボールが大量に発生するので、体格のよい精神障害者を雇って力仕事をさせようと思っていたようです。
働くことで経済問題を解決しよう、と思っている方は、腕立て、腹筋、スクワットがお金をもらいながら出来るのでお薦めです。
力仕事以外にも、便利屋さん的に雑用をこなしました。そこは男性社員が仕事ができないのに高学歴で思い上がっている人が多い会社だったので、私は女性管理職に大事にされました。
その後、系列に派遣会社を作ってグループ企業に派遣社員の身分で働かせることが禁止され、派遣社員は雇い止めになる人が多かったのですが、障害者雇用なので一年更新の非正規社員になれました。
統合失調症の不調の波がくると働くことが苦痛になり、主治医に診断書を書いてもらい2回休職しました。
2度目の休職から復職すると、身体障害者の同僚から浦和の外れに、障害者ならば無料で利用できる施設があると教えてもらいました。休日はそこのプールで、50分間平泳ぎの遠泳をすることにしたら、陰性症状が治まりました。
深夜に目が覚めたら、そのまま起きることにして、睡眠導入剤を減薬していき、やがてやめることが出来ました。睡眠導入剤のせいで空腹に苦しむと、深夜に牛丼チェーンで大盛りを食べててメタボだったのも解消しました。職場での昼食を高カカオチョコレート50グラムだけにしていたら、メタボ解消を通り越して激ヤセしてしまい、水泳はカロリーの消費量がものすごく高いので、ヨガに替えました。
ヨガには現状維持を期待していたのですが、ものすごく元気になり、能力もアップしました。仕事での貢献度も上がり、会社でものすごく目立つ存在になりましたが、昇給は一切なく口先でおだててくるだけの無能な正社員にイライラするようになりました。その鬱憤を寿司アカデミーにかよったり、ピラティスのインストラクターの資格を取ったりすることで晴らしていたのですが、社員のバカさ加減に限界になり、10年で辞めました。
寿司屋で板前の見習いをやる
退職して一年近く雇用保険がもらえるのですが、やることがなかったのでハローワークの寿司屋の求人に応募したら、面接してくれた社長に「明日から来い」と言われました。
介護の畑では「すぐに来い」という事業所はブラック企業である、という法則は有名らしいのですが、この寿司屋も法令遵守する気のない有限会社でした。
ブラック士業の社労士と契約して、違反ギリギリの働かせ方をしていたのですが、働いている人たちは教育水準が極めて低いために文句すら言わない感じでした。働きの悪いのを、威張り散らすことでカモフラージュしている婆さんを好き放題させていて、あまりにも非常識なので労働基準監督署に相談にいきました。女性の職員が、
「円満退職に応じなかったら、労働基準監督署が対応する」
と言っている旨を電話で伝えたら、ビビったらしくすぐに辞められました。
通訳案内士を目指す
英検準1級は難なく取れたのですが、「英検1級の壁は厚いなあ」と思いながらたまに受験していました。
英検1級を取ると通訳案内士の英語の試験が免除されるので、押し寄せてくる外国人観光客のガイドでなんとか食べていこうと思いました。
「とりあえず月十万前後は必要だなあ」
と思っていると、近所のドン・キホーテが早朝シフトのアルバイトを募集していたので、面接を受けたら採用されました。正午までの勤務だったので、昼食のあと図書館通いをしていたのですが、好きな本を次から次へと読むことに時間を費やしてしまい、結局英検1級は取れませんでした。
その間、父が末期ガンで延命が難しいとわかり、在宅緩和ケアの訪問看護を受けられるようにいろいろな手続きを完了させました。父はずっと日常生活が送れていたのですが、飲酒後の入浴で倒れてしまい、それから介護ベットでの生活になったのもつかの間で、訪問看護士に「自宅では年末年始を乗り切れない」と判断されて、入院したところ2日で死んでしまいました。
母との同居が不可能と判断する
父が死に、相続の手続きは大変でした。
母は、私が着実に相続の作業を進めているのが気に入らないらしく、トンチンカンな妄想をわめき散らして私を悩ませました。
なんとか税務署にも目をつけられないで、相続が終わりました。母は、料理のコンロを火にかけたままタバコを吸いに行って焦がしたり、父の看護の手続きから相続のときのトンチンカンな言動は、母の認知症の始まりと私は判断しました。
私が入院し今も通院している精神病院は認知症の拠点病院なので、取りあえずそこのもの忘れ外来につなげて、介護保険の申請を済ませようと思ったのですが、母は聞く耳を持たず、非現実的なことを感情的にがなりたてるので、もう私の手に終えませんでした。怠け放題怠けて生きてきた専業主婦は、自分のことをさかんに偉いと思い上がっているのですが、私から見れば社会の現実も種々の制度も全くわからないただの愚か者です。でも、私がそんな母につらくあたって、警察に虐待を疑われたらたまったものではありません。
いっぽう孤独死であれば法的に事故扱いになるはずなので、私が警察に疑われる危険もありません。そこで私は母を捨てることにして、自分は実家を出て県営住宅に入居することにしました。
公営住宅への入居はハードルが高い
大宮駅の構内に住宅供給公社の出先オフィスがあると知り、私はそこに足を運びました。その日が12月入居の受付の最終日でした。
対応してくれた男性職員は感じがよく、その日までの応募数から割り出した、抽選の倍率のリストを見せてくれました。
県庁所在地であるさいたま市にある県営住宅はどこも30倍以上の倍率で、まず当たらないと思いました。リストを見ていくと、桶川市の団地が2名の定員に1名しか応募していませんでした。
そこで私は桶川市の団地に決めて、その男性職員に教わりながらスマホでの応募手続きを完了させ、応募に関する説明書類をもらって帰りました。
数日後、抽選にならず入居審査に進めることが出来るというハガキの通知が来ました。抽選に当たりさえすれば入居は確定する、と甘く考えていたのですが、ここで一次審査と二次審査に合格しないと入居できないと知りました。
送られてきた説明書類をよく読んでみると、区役所に行っていろいろな証明書を発行してもらう必要があることが分かりました。
やはり情報処理ツールとしての日本語力を身に付けていないと、公営住宅には入居が難しいと思います。手続きがかなり複雑なので、念のため浦和の住宅供給公社の本部に足を運び、提出書類に足りないものがないか確認してもらいました。ここで固定資産証明書に土地に関する証明書は不要であると指摘されました。わざわざ取り寄せたぶん発行手数料の数百円を損した格好となりました。福祉受給のための説明書の読解はこれくらい難解なのです。
あとは全部揃っている、とお墨付きをもらって、クリアファイルにまとめて審査官に渡したら、すぐに終わって合格通知を手渡され、入居説明会の日程を告げられました。
・・・第2回へ続く
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