文: 喜久井伸哉 画像:Pixabay
題名:電話恐怖症 著者:大野萌子 出版社:朝日新聞出版
発売日:2024年9月13日 ISBN:9784022952820 定価:924円(税込)
私は、電話がこわい。
特に、まったく知らない相手に、電話をかけるのがこわい。
電話をかけるくらいなら、丸一日かけて移動し、現地で本人を探し出して、直接話しかける方がマシだ。
先日、そんな私のための本が出版された。
大野萌子著『電話恐怖症』。
その名のとおり、電話に対する恐怖がテーマだ。
「電話がこわい」感覚は、人によっては、まったく想像できないことかもしれない。「電話をかける前には、何を話すかあらかじめ考える」、「ベルが鳴ると激しい動悸がして、受話器をとることができない」といった体験談に、うなづけない人もいるだろう。
しかし、「電話がこわい」人は、確実に増えている。
2015年ごろから、「電話に出るのがこわくて退職した」という、「電話離職」が起きているくらいだ。特に若い世代で急増しており、イギリス、アメリカ、韓国など、各国の調査でも、電話に出る前に不安を感じる人が、増加傾向にある。
マイナビが新卒者を対象におこなった調査によると、友達との連絡に電話を使う人は、わずか1%だという。メール、ライン、ズームなど、連絡方法なら、いくらでもある時代だ。
家に固定電話がなく、使う機会がない人も、あたりまえになってきている。そもそも、受話器をあげてからボタンを押す、といった、基本的な使い方を知らなかったりする。
「恐怖」が起こるポイントは、人によって違う。
外からかかってくる電話がこわい人もいれば、電話でのやりとりを周囲の人に聞かれるのがこわい、という人もいる。電話によるクレーマー対応が、トラウマになっているケースも紹介されているが、そこまでいくと、電話だけの問題ではないだろう。
著者は産業カウンセラーで、職場でのコミュニケーションの問題を、専門にしてきた。本書の後半も、コミュニケーション面でのアドバイスが中心となる。(個人的には、ビジネスと関係なく、「人と会話するとはどういうことか」という、根本的な議論が悩みどころなのだが、それは本書のテーマではなかった。)
コミュニケーションというと、一般的には、「人との関係」のことだと思われやすい。
しかし著者によれば、まず「自分自身との関係」が大切だ、という。自分自身と向き合い、自分を認めることで、相手のことも認められるようになる。周囲の人の感覚を重視する「他人軸」ばかりでなく、自分が何を感じているかを大事にする、「自分軸」を持つ重要性が述べられている。
ためになるコミュニケーション論、だと思う。だがそれはそれとして、電話恐怖症は「治る」のか?
著者は、会話するときのコツや、家族と電話をして慣らしていく方法など、具体的なアドバイスを提示している。若い世代だと電話の経験が少ないため、「とにかく場数を踏むことも方法の一つ」だという。
とはいえ私は、子どものころに固定電話を使っていた世代だ。一時期は仕事で頻繁に電話を使っていたこともあるため、経験がないわけでもない。おそらく会話時のマナーも問題がなく、口調はかなり丁寧な方だ。(「丁寧すぎて不自然」、と言われてきたので、むしろ言葉遣いを雑にするよう心掛けてきた。)
それでも、こわいものはこわい。高所恐怖症や先端恐怖症と同様、これは理屈ではない。
私の場合、恐怖が起こる要因の一つは、視覚情報がまったくないことだと思う。
電話は、音声情報のみを頼りにせねばならない。本書でも軽くふれられているが、相手に反応がないと、どう話していいかわからなくなり、不安になってしまう。はたから見たらうまくしゃべれているように見えても、内心では自分の話が伝わっているのかどうかがわからず、制御不能な混乱が起こる。
この感覚は、体験したことがない人には伝わらない。それでもあえて説明するなら、五感が消失する感じだ。
仮に、目の前の人と会話する感覚が「歩行」だとしたら、音声のみの会話は、真っ暗な海底での「潜水」に等しい。地上の歩道を進むのであれば、平衡感覚がしっかりした状態で、自分がどこに向かっていて、次にどこへ進めばいいのかが、冷静に把握できる。周囲の様子や標識など、目印になるものがいくらでもある。
しかし、知らない相手の音声情報のみだと、そのような安定感が消失する。茫漠たる大海で海中に引きずり込まれて、渦潮の闇の中をさらわれていく感じだ。岸辺の方角どころか、上下の感覚もわからなくなり、どこにもしがみつけるところがない。
電話での会話を完遂するためには、すさまじい精神力が必要になってくる。
本書の広告には、「大丈夫、きっと治せます」とあるが、本書を読んだだけで、私ほどの電話恐怖症が治るとは言えない。しかし恐怖心と向き合い、自分自身を知ることで、コミュニケーションを見直すきっかけにはなる。
今後「電話恐怖症」は、一般的に認知されていくはずだ。本書はその最初期の記録として、幅広い層に参照されていくだろう。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2024/01/31/170000