支援においては、当事者の言葉に耳を傾け、内面を理解することが重要だとされています。しかし、そこで用いられる言葉が間違っていたり、そもそも説明できる言葉が存在していなかったとしたら、どのような「理解」が可能なのでしょうか? 理解しあう難しさについて、マイノリティの当事者が語ります。
文: 喜久井伸哉 画像:Pixabay
「わからない」=「あなたはふつうではない」
人からの「なぜ」という質問が、すでに傷つくことでありうる。
私は、人に自分の過去を話したときに、よく、「なぜ?」「原因は?」などと、聞かれてきた。
たとえば、「働いていなかった」という話に対する、「なぜ?」であり、「ひきこもっていた」という話に対する、「原因は?」だ。聞く側からすれば、適当な雑談の、話のふり方の一つにすぎないのかもしれない。しかしその質問は、常に一定の否定性を含んでいる。
もっとも苦しかったやりとりは、「不登校だった」に対する、「原因は?」だ。学校へ通う「ふつうの子」に、「なぜ?」と聞く人はいない。通わなかった私は、「ふつう」ではなかった者として、質問に答えねばならなくなる。
何らかのマイノリティであることは、世の中の多くの人にとって、「わかりにくい」存在であることだ。自分の境遇を伝えたときに、内実を説明せねばならないことが、特徴の一つでさえある。居てあたりまえの、「ふつうの人」ではいられない。
「ふつう」と「わかりやすい」は、かなり意味が近い言葉だと思う。「学校に行っている子」は、「ふつうの子」とみなされる。それは標準的というだけでなく、「わかりやすい状態にある子」だ。一方で、「学校に行っていない子」は、「わかりにく状態にある子」として、「なぜ?」が口をつく。「不登校」の子が数十万人に至っても、依然として「標準的」=「ふつう」とはみなされていない。私にとって「なぜ?」という質問は、「あなたはわかりにくい」という表明であり、結果として、「あなたはふつうではない」という非難に響く。
「なぜ?」「どうして?」という質問自体は、多くの人にとって、会話のなかでの、ささいな言い回しにすぎない。応える側が、サラッと答えて、受け流せればいいのだろう。しかし、それが重荷になることがある。社会学者のジンメルに、『一滴の水で容器が溢れるときには、いつもその一滴以上のものが流れ出る』、という警句がある。相手からしたらささいな一言であり、わずかな一滴だったとしても、私にとっては、耐久の限度を超える、最後の一滴になりえてしまう。マジョリティは、「そんなささいなこと、気にすることない」・「ちょっとした不快さくらい、誰だって経験している」、などと言うかもしれない。小さなひとしずくが、「とどめ」になるかもしれないとは、想像できずに。
「当事者を理解する」とはどのようなことか
「原因」を、抵抗なく説明できる人が、うらやましい。「私は〇〇によって、〇〇になった」と、まるで数学の公式のように、明確に因果関係を説明できたなら、どれほど便利だったろう。しかし私の「原因」は、常に説明しがたいものとしてあった。さらに言えば、説明のための言葉も、あまり役に立たなかった。語れない、という支障がある一方で、語れてしまう、という支障もある。
「〇〇の原因は、〇〇のせいだ」、と言ってしまえば、細かな意味は、なかったことになる。最大公約数や四捨五入のように、素数のような出来事や、小数点以下の情念は、切り落とされてしまう。そうして、私とはあまり関係もないことが、「原因」として抽出され、相手に「理解」されていく。
「不登校の原因は、〇〇だった」、と言えば、聞いた人(と自分自身)は、その「〇〇」一つに、「原因」を集約してしまう。それが唯一の、最大の「原因」となって、「理解」されていく。雑多で、鬱蒼(うっそう)と生い茂っていたはずの内実は、いつのまにか、なかったことになる。そこでは、意味の摘蕾(てきらい)が、起きてしまっている。ほんとうはもっと大きな花が咲くはずのつぼみが、あったかもしれないのに。
(「摘蕾」は、余分なつぼみを摘みとること。――余談だが、現代詩は、意味が「わからない」言葉の代表だろう。言葉が鬱蒼と生い茂っており、意味が摘蕾されていない。それゆえある面では、出来事に対するもっとも正確な言葉として読むことができる。)
そもそも私は、「不登校」という言葉が、受け入れられない。「年間30日以上の欠席」、といった定義はあてはまっていたにしても、自分のものではない、という拒絶反応が表れる。どうにも、言葉の輪郭線が、自分とは合わない。身の丈に合わない服しかないのに、それを着るしかないような、居心地の悪さだ。「ひきこもり」や「ゲイ」にも、そんなところがある。(なお私は、「ゲイ」という言葉の定義にも、あてはまっている。)言葉そのものが、現代の日本語として、現代の日本社会で使われている、限定的な共有財にすぎない。社会的通念に則して、大勢の人が、理解できるかたちに、濾過(ろか)され、加工されたものだ。
「不登校」・「ひきこもり」・「LGBT」の言葉は、いずれも半世紀前には、ほとんど使われていなかった。「私は不登校です」・「私はひきこもりです」・「私はLGBT(の当事者)です」と言う表明は、つい半世紀前には、誰にも通じなかったと言っていい。私はそのような言葉を用いて、人に自分のあり方を伝え、さらには「なぜ?」や「原因は?」の問いかけに対して、わかりやすい言葉を選んで、応えている。
それはよく考えれば、ずいぶん奇妙なことだ。もしも、短期間の流行語や、奇妙な方言や、小さな集落でしか使われていない言葉でしか、自分の境遇を説明できないとしたら、相当の制約だろう。
しかし、一億人が使う「ふつう」の言葉も、しょせんは不正確極まりない、制約だらけの言葉だ。「私は〇〇です。その『原因』は〇〇です」、と語ったとして、それはどれだけ、「正確」な意味を伝えているのか。そしてそのような言葉で、私のことが「理解」されるとき、その「理解」は、どれほど信頼のおけるものなのだろうか。相手への「理解」は、常に不明瞭な、あやうい認識のうえに成り立っているのかもしれない。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2024/01/31/170000