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〈豊かな孤独〉をつくる ハンナ・アレントと茨木のり子に学ぶ「にぎやかな一人ぼっち」

文 喜久井伸哉

 

詩人の茨木のり子に、「一人は賑(にぎ)やか」、という作品がある。

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
良からぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も


(中略)


一人でいるのは賑やかだ

誓って負けおしみなんかじゃない


一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな


恋人よ

まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ

 

茨木のり子は、「自分の感受性くらい」や「わたしが一番きれいだったとき」など、気丈な作風で知られる詩人だ。
70代で出版した『寄りかからず』(1999年)という作品集は、詩集としては異例のベストセラーになった。
また、自ら翻訳した『韓国現代詩選』は、近年になって再脚光を浴びている。
詩人でこれほど名を残している人は、なかなかいない。


 詩人・茨木のり子(1926—2006 )

 

では、「一人は賑やか」は、どのような作品か?
たいていの場合、一人きりでいるのは、さびしいことだ。
少なくとも、誰とも話さないで一日を過ごしたり、「ぼっち」でどこかに出かけたりすることは、あまり体面がよろしくない。

だが本作は、ひとりでいるのが「にぎやかだ」と断言する。
たしかに、ひとりでいたとしても、頭の中や体の中が、止まることはない。
常に何かが、めまぐるしく蠢(うごめ)いているものだ。
それこそ「森」のように、あれやこれやの思念が繁殖してくる。
そのなかには「良からぬ思いも」あるため、「エーデルワイス」のような美しい花なのか、「毒の茸(きのこ)」のような危険物なのか、どちらが生え出てくるのかわからない。

 

一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい

一般的には、誰かといれば孤独が解消される、と考えるだろう。
「孤独対策」や「ひきこもり支援」では、「人とのつながり」が大切だと言われている。
だがここでは、「二人寄ったら なお淋(さび)しい」と言う。
おそらくここでいう「淋しい」は、中身が「にぎやか」でないこと、つまり、殺風景だったり、からっぽだったりすることだろう。

おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな

中身がからっぽの人が集まったら、どうなるか。
自分で考えていない、という点では、同調圧力に流されて、他の人の言いなりになってしまうかもしれない。
「だ だ だ だ だっと」の音は、ダ、ダ、ダ、と駆け出す足音のようでもあり、「脱兎(だっと)」のごとく走る人、が連想される。

 

本作で描かれた「賑やか」さは、どうやら、一般的な「孤独」ではないらしい。
この「孤独」に、思想家のハンナ・アレントを思い出す。
アレントは、「孤独(ソリチュード)」と、「孤立(ロンリーネス)」を、分けて考えた。
おおまかに言うと、「孤独(ソリチュード)」は、自分自身と共にあること。
「孤立(ロンリーネス)」は、自分や他のものと共にあろうとしても、それができないことだ。

たぶんアレントの「孤独」は、一人でいても、頭や体が「にぎやか」なことだ。
一人であれこれ考えているとき、そこには、自分自身との「対話」がある。
その点では、「自分と〈ともに〉」ある。
一人きりであっても、独立した考えをもつ「自分」がいるわけだ。

一方、「孤立」はそうではない。
まわりに大勢の人がいても、誰とも話せず、落ち着いて自分と向き合うこともできないなら、誰とも〈ともに〉いない。
他の誰かとも、自分自身とも、親しくいられない。そこに、「孤立」がある。

意訳するとしたら、孤独が「にぎやかな一人ぼっち」で、孤立が「さびしい一人ぼっち」になるかもしれない。

「一人は賑やか」で呼びかけられるのは、「孤立」した人でなく、「孤独」な人だ。
それは自ら考えている人であり、ある意味でとても忙しく、自分自身と〈ともに〉ある人だろう。

 

詩の最終連。

恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ

「まだどこにいるのかもわからない」、ということは、出会ってもいないし、存在も知らない。
にもかかわらず、呼びかけは「恋人よ」だ。
「ヤツ」という表現にも、親しみがこもっている。
ここには、「にぎやかな一人ぼっち」でいる人が、「親愛なる人よ」、「魅力的な人よ」と呼びかけるに値する人だという、意味の断定がある。
(他の作品でもそうだが、詩人・茨木のり子は、断定のスペシャリストだった。)

 

自分では深く考えずに行動したり、同じ意見の人だけで集まったりすることも、それだけで終わってしまうなら、ある意味では「淋しい」ことだ。
大勢の人のなかにいても「さびしい一人ぼっち」になりえる。
孤立解消のためだからと言って、やみくもに人といたところで、「孤立」はなくならない。
それよりも、「一人でいるとき 一番賑やかなヤツ」を目指すのも、方法の一つだ。

一人でいるのは賑やかだ
誓って負けおしみなんかじゃない

 

 

 

 参考文献
『茨城のり子集 言の葉3』 筑摩書房 2010年
ハンナ・アレント著 ジェローム・コーン 編『責任と判断』中山元訳 ちくま学芸文庫 2016年

画像: Pixabay,Wikipedia

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ 
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2024/01/31/170000