ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

自己否定感でなく〈自己未満感〉に打ちひしがれている 何をしても「ほんとうの私」になれない不全感

文: 喜久井伸哉

「本当の自分はこんなものではない」。
そんな、憤(いきどお)りがある。
環境のめぐりあわせや、人間関係によっては、もっと社会的に成功できるのではないか。知的な面でも、活動の面でも、もっとうまくやれるのではないか。
そんな、人生の不全感がある。

この感覚は、「自己否定」なのだろうか。
「自分はダメだ」という感覚は、「自己」に「否定」的なわけだから、一般的には、この言葉で十分なのかもしれない。
だが少し考えると、正確な状態を、ぜんぜん表していないように思える。

 

まず、本当に「自己」を「否定」しているなら、「自己」の基準そのものが、根本的に否定されるのではないか。
「本当はもっとできる」とか「自分はこんなものではない」というとき、内面的な「自己」の基準が高い。
「100点をとれるはずなのに、70点しかとれていない」というとき、「100点をとれるはず」の「自己」が設定されている。
「自己」のすべてに否定的なら、「もっとできるはずの自分」も、「100点をとれるはずの自分」もいないはずだ。
「本当はうまくやれるはずの自分」が前提になっているという点では、むしろ、「自己肥大感」でさえあるかもしれない。
「自己否定感」という表現は、ちょっと違うのではないか。

 

それなら何がよいか……、と考えたとき、「自己未満感」という表現だったら、そこそこ合っている気がする。
「自分はすべてがダメだ」ではなく、「本当の自分に満たない」感じだ。

社会的な圧力のなかには、「もっと勉強しろ」「もっと『ふつう』になれ」「もっと規則に従え」といったメッセージがある。
それらはたしかに、「今のあなたであってはならない」(=今の自分であってはならない)という「否定」のメッセージだ。
同時に、「今のあなたは本来のあなたに満たない」というメッセージでもある。
達成可能な、ありえる「自己」に満たないことが問題になっている。
「メジャーリーガーになれ」とか「ノーベル賞をとれ」というような、ありえないことを言われているのではない。(言われたとしても、それだと気にならない。)
世の中からプレッシャーを受けるなかで、「私が私に満たない」感覚が強まっていく。「自己未満感」だ。

おそらく、毎日いたるところで目に入る広告も、「自己未満感」を生じさせている。
広告のなかには、「あなたは損をしている」と訴えるものが多い。
「ふだんの生活でポイントが溜められる!」「新しいものに買い替えるべき!」「もっと便利な物がここにあるのに!」といった宣伝。
さらに、「キミならできる!」「ポテンシャルを発揮しろ!」といった、自己啓発的な高揚。
これらのメッセージは、広告を目にする自分を「否定」しているのではない。
むしろ、「あなたはこんなものではない!」という、「肯定」的なメッセージだ。
しかしその作用には、自己の「否定」がある。
広告を目にしなければ、「100点満点」の自分でいられたかもしれないのに、実は「101点目」が存在することや、すぐそばにいる人たちが「105点」をとっていることを告げられているようなものだ。
100点で満足していたはずの自分が、広告のせいで、99点になったり、落第点に相当したりする。

 

このような「減点」の作用は、子どもに対するメッセージとも、通じるところがあるかもしれない。
日本の子どもは、国際的な調査において、「自己肯定感」が際立って低い、という結果が出ている。
ある比較調査では、先進国中、ダントツでワーストだった。
その影響もあり、よく「自己肯定感を高めよう」という声が聞かれる。
しかし、「肯定すべき」という自己啓発的な観点に、すでに「自己否定」的な作用が含まれていないだろうか。

「自己肯定感を高める」べき、ということは、「本当のあなたはもっと価値がある」と伝えることだろう。
それが、「あなたはそのままでいい」というメッセージになるなら良い。
「あなたは100点満点の存在だ」と云ってくれるなら、けっこうなことだ。
しかし伝わり方によっては、「あなたは自己肯定感が低いからダメだ」になってしまうのではないか。
「あなたの自己肯定感は90点だ」と「評価」するとしても、結局は「自己」の不完全さを強調してしまう。
「自己肯定感」を高めようとしたときの、「今の自分は十分でないから、変わらなければならない」、「新しい自分にならなければ人から認められない」といった向上心は、現状の自分への「否定」も生んでしまう。

 

そもそも、「自己」に肯定・否定の価値観をあてはめること自体が、けっこう乱暴なことなのかもしれない。
仮に、「子どもの自己肯定感を高める」と言って、子どもの「自己」を取りざたし、狙い通りに「肯定感」を高められたとする。
しかし、そうした管理下で大人の価値観どおりに高まった「肯定感」は、本当に子どもの「自己」を豊かにするものなのだろうか。
「肯定」の尺度をあてはめると、必ず一方に「否定」の尺度が生まれる。
この問題は、「自己未満感」という尺度でも変わらない。
本来、すべての「自己」は例外なくかけがえのないもの……であるはずだ。(深く立ち入るのは、次回にする。)
その「自己」に、「肯定」や「否定」という言葉をあたりまえに用いる社会に、警戒心を抱くべきなのではないか。
「自己肯定感」の価値観そのものを疑うような、「『自己肯定』否定感」みたいなものを持つことも、大事なのではないか、と思ったりもする。

 

 

Photo by Pixabay

--------------
喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/