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美大の修了展という〈可能性の祭〉 そして若さの蕩尽を見ると、一年や二年のひきこもりなんてどうということはないように思えてくる

文・写真: 喜久井伸哉

 

現代の日本は、生きづらい社会だ、と言われている。
しかしこの社会には、「美大」という魔境が残っている。

 

 

現在、東京・六本木にある新国立美術館で、「五美大展」が開催中だ。
美大の修了者の作品が大量に展示されており、全フロア無料で観覧できる。

 

正式名称は「東京五美術大学 連合卒業・修了制作展」。東京にある5つの美大(東京造形大、日本大芸術学部、武蔵野美術大、多摩美術大、女子美術大)が参加している。

 

私は、すべての美術展の中で、本展が一番好きだ。
一つひとつの作品がどうというより、空間そのものに魅力がある。
全部で約900点に及ぶ作品が、壁にズラリと並んでいたり、床にゴロゴロ転がっていたりする。
その「ぞんざいさ」が良い。

 

新国立美術館の大半のスペースを使用しており、全作品を丁寧に観てまわると大変。


ジャンルは、油絵・日本画・版画・彫刻・インスタレーション、と多彩だ。
客層(と監視員)も、他の美術展とは違う。二十歳前後の美大の学生が、わんさかいる。
来場者には、志望校を見に来ているらしい、高校生年代の人たちも多い。
アートに振り切った「若者たちのフェス」、とでも言えるような活気がある。

 

展示品には、3メートル級の巨大なオブジェもあれば、ミリ単位の緻密な手仕事もある。
観念的・哲学的な絵画がある一方で、アニメやBLがモチーフの、ポップな作品もある。
これほどの幅の広さ(ないし無節操さ)は、なかなか味わえない。
少なくとも、ふだん生活をしている中では、決して目にすることがないものだ。

 

写真は、来場者がいないところを見計らって撮影した。実際はかなりにぎわっている。

 

良い意味での、「雑さ」があるように思う。
一般の公募展のように、審査の結果選出されたわけではなく、アートフェア(展示即売会)のように、値札が張られた商品でもない。
共通点は、「美大を修了した人の作品」というだけだ。
その結果として、他にはない公平さが生まれている。

たとえば一般の美術展では、作家が男性に偏っていることが珍しくない。
特に旧来の美術の教科書に載っている作家は、はっきりと男性に偏っている。
本展の場合、女性や外国出身者(留学生)の比率が高めだ。
(女性ということで言えば、そもそも女子美術大学が入っているので、「女性の作品しかない」一角もある。)
基本的に無作為であることによって、出品者の偏りが、かなり薄まっている。
どれも「前衛的な作品」だが、それ以上に特別なのは、展示空間が「前衛的な社会」を垣間見せているところだ。
言い過ぎかもしれないが、ちょっとしたアジール(自由領域)ができている。
アートがゴロゴロしている場所は、これくらい無作為であってほしい、と思う。

 


本展は、作品の「量」だけでなく、「質」も特別だ。
プロと遜色のない高度な技術を持つ人もいれば、まあ、そうとは言えない人もいる。
(美大に入るくらいなので、もちろん基本的な技量は高いのだが、構想力と画力が合致してないケースは多い。)

それでも、いずれも学生が、「時間を費やした」ところに、迫力がある。
私が本展に魅かれるいちばんのポイントは、おそらくここだ。
もっとも若く、もっとも活動的な年月を、アートに費やす、という豪奢(ごうしゃ)な選択。
アートを学ぶことにも年月が必要だし、作品制作そのものにも、多大な労力と時間が要る。
作品によっては、本当に年単位で時間がかかるものがあるくらいだ。
私はそこに、壮大な「若さの蕩尽(とうじん)」を感じる。
学生時代の時間が費やされた、という点で、非常に「贅沢」な作品群だ。
もしこれがポトラッチだとしたら、相当の富裕層だ。
(※ポトラッチは「贈り物」を意味する言葉。マルセル・モースの『贈与論』などで言及されている。)
しかも、学生たちの作品の内、保管のあてがないものは、展示後に破棄されてしまう。
ふつうの住宅におさまらないほど巨大な作品も多いため、すべてを保管することは、とてもできない。
時間的にも物質的にも、なんて豪勢なことか。

もちろん、将来アーティストとして成功する人がいるなら、社会的・経済的な意味でも、「時間を無駄にした」ことにはならないだろう。
本展の作品だって、いつかは何億円という値段で取り引きされる日が、くるかもしれない。
とはいえ現時点では、社会的な面で、はっきりと「有用」であることはないはずだ。
(もし直接的に有用なら、たぶん修了の作品と見なされない。)

仮に本展で目立ったとしても、成功が約束されるとは言えないだろう。
展示数が多いとはいえ、出品者は東京の5つの美大(東京芸大は入っていない)の内の、一学年の修了者だけだ。他の年度の修了者や、他の地域の学生や、そもそも学校に属していないアーティスト志望者や、さらには外国のアーティスト志望者(、もっと言えば今後のAI作家)まで含めると、競争率は果てしなく高くなる。
ましてや、プロとして何十年も活躍し、功名をあげる人は、確率的にはゼロに近い。

 

それでも、なお、時間を費やして、作られた作品がある。大量にある。ありすぎるほどある。
この事実に、私は動揺する。
いや、もっと率直に、感動する、と言うべきか。

私自身は、自分の人生の時間を、「無駄」にしてきた。
とても長い期間、人と話すこともなく、有意義に過ごすことができないまま、年月が過ぎ去っていった。
いつのまにか、青年時代の大半の時間を、使い果たしてしまった。
その期間にあったのは、(あまり簡単に説明しても、内実から離れていくのだが、)ある種の「問い」だ。
「答え」が見つからず、悩み、苦しんでいた、長い時間だ。
私はこの「問い」の期間に、勝手ながら、現代アートに費やされた「時間」との、親和性を感じる。(私の方は、どんな作品も生み出さなかったにしても。)

おそらくアートも、「答え」ではなく、「問い」を生み出すものだ。
「世界とは何か」「自分とは何か」「ゆるキャラとは何か」などの、フリースタイルな「問い」と向き合って、「世界の解法」ではなく、むしろオリジナルな「世界の問題」を作り上げていく。
(そのせいで、よく、わけのわからないものができあがる。)
しかし大勢の人が、莫大な手間と時間をかけて、「問い」と向き合っている、という事実には、何か、「答え」を解きほぐすような、カタルシスが感じられる。
自分一人が、青年期の年月をまるごと失ったにしても、実はそんなこと、まったくたいしたことがないのではないか。
時間を費やしたにしても、その浪費的な歳月も、実は無駄ではなかったのではないか。
うまく言葉にできないというか、あまり言葉にする気もないのだが、(しかも本稿に、結論らしい結論もないのだが、)本展に宿る歳月の蕩尽からは、言い表し難いたくましさを与えられる、ということは言える。

 

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■東京五美術大学 連合卒業・修了制作展
会期:2025年2月21日(金) ~ 2025年3月2日(日)
開場時間:10:00-18:00
*入場は17:30まで *休館:2月25日(火)
場所:国立新美術館 
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
https://www.nact.jp/

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/