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鉄道の衝撃と自転車の普及 「女のくせに自転車に乗っている」 100年前の<家族>の暮らし(4)

文 喜久井伸哉

 

100年前のほとんどの人にとって、外出は「歩く」ことを意味した。

そりゃそうだろう、と思うかもしれないが、今と違って、自転車や車が少ない時代だ。

1921年(大正10年)の内務省警報局の調べによると、東京の自転車の数は12万7228台、自動車の数が3492台となっている。

当時の東京の人口は370万人ほどで、庶民で乗り物を持っている人は、まだまだ珍しかった。

 

個人の乗り物だけではない。公共の汽車にしても、新時代の大発明だった。

日本の鉄道開通は、1872(明治7)年の新橋・横浜間に端を発する。

赤レンガで有名な東京駅の開業は、1914(大正4)年のことだ。

鉄道の開通は、当時の人々に絶大なインパクトを与えた。

フランスのリュミエール兄弟が公開した映像で、汽車が向かってくることに驚いた観客が逃げだした、という話もあるが、これは「汽車」そのものが驚異だった、ということも影響しているだろう。

鉄の塊が煙を上げながら走る、という視覚的な衝撃はもちろんのこと、当時は細部の工学的な仕掛けも驚かれた。

1926年には、桜木町・上野間の電車に、初めて「自動ドア」が設置された。今ではどうということもないが、ドアが機械仕掛けによって開閉する、あの自動ドアだ。

最初期には、ドアが閉まり始めるのを見た乗客が、「閉じ込められては大変」と飛んで逃げた、という逸話が残っている。

「鉄の機械に閉じ込められる」という危機感は、人類にとって未知の体験だったろう。

やや話がずれるが、私は田舎に住む高齢の人から、「エレベーターがこわい」と聞いたことがある。

高層の建物を利用したことが少なく、エレベーターに慣れていなかったらしい。

鉄道やエレベーターのような「鉄の乗り物」が身近にある暮らしは、それほど歴史のあることではない。

 

現代では、子どものころからネットを使いこなす世代を、「デジタル・ネイティブ」と言うことがある。

中高年世代は、時代の変化に取り残されかねない、という危惧もあるが、その中高年世代にしても、車や電車の移動方法があたりまえの世の中で育った、「ビークル(乗り物)・ネイティブ」の世代ではある。(このような言い方は聞いたことがないが。)

「パソコンが苦手」、という話はよく聞く。しかし「機械」のある暮らしの歴史の浅さを考えると、本当は「電車が苦手」とか「エレベーターが苦手」といった話が、もっと出てきてもおかしくないのではないか。

SNSがどうとか、新型のiPhoneがどうとかいう以前に、たった100年で、「機械」のある暮らしがあたりまえになりすぎているように思う。

 

鉄道だけではない。人力の自転車でさえ、それほど長い歴史を持っていない。

自転車の発明以前、人々はとにかく歩いていた。というより、馬などに乗らない限りは、歩くしかない。

当時の飛脚や、「東海道五十三次」の旅人などは、日に何十キロも歩いていたという。

子どもだって、何十キロも歩いていた。

1869(明治2)年、国内で初めて学校が開校すると、しばらくして「修学旅行」の風習も始まった。

現代のように大型バスで移動、というわけにはいかない。教師も生徒も、全員が徒歩で移動する。

『近代子ども史年表 明治・大正編』によれば、1886年(明治19)年の修学旅行で、1日に27キロの行軍があった、という。

参加した子ども全員が、徒歩で27キロだ。「遠足」どころではない。兵士の「遠征」のような距離ではないか。

 

当時は、まだ自転車の存在も知られていなかった。

日本で初めて自転車が紹介されたのは、1896(明治29)年で、渡辺修二郎の『自転車術』という書物が発売されている。

自転車は明治のうちに広まっていったが、はじめは男性のための乗り物だった。

むかしの「あるある」で、女性は自転車に乗るものではない、と考えられていた。

そもそも、女性のやることなすことすべてが批判されてきた、という歴史がある。「和服でなく洋服を着る女性」や「腕時計をする女性」も、当初はバッシングの対象だった。

女性が自転車に乗るようになったのは、明治30年代の、和服から洋服への変化も影響している。

日本初のオペラ歌手となった三浦環は、上野の音楽学校に通うため、毎日自転車をこいでいた。

その姿が評判になったというが、同時に「女だてらに」(「女のくせに」といった意味)という批判も受けていた。

やがて女性の自転車操縦は一般化していき、都市部では明治40年代に定着したという。

もっとも、各地で風当りの強さは残っていたようだ。

木下恵介の映画『二十四の瞳』では、昭和初頭の瀬戸内の村で、「洋服で自転車に乗る女先生」(高峰秀子)が印象的に描かれている。

その「女先生」も、村人たちからは「男みたい」と揶揄され、疑念たっぷりな目で見られていた。

なお本作をはじめ、『自転車泥棒』や『サイクリスト』など、自転車がキーになる名作映画は数多い。

「鉄道」も同様だが、かつて「自転車」は新奇な存在だった。やむを得ないことだが、古典映画の「自転車」の特別さが、現代では知覚できなくなってしまった。

 

今の時代の「外出」と言えば、自転車、自動車、電車、さらには電動キックボードや飛行機など、交通手段はいくらもある。

通勤・通学に新幹線を使う人もいるくらいだ。

余談だが、1929年の東海道線(特急富士)の東京・大阪間の所要時間は、10時間52分だった。

約100年前にも鉄道があったとはいえ、東京の人が「ちょっと大阪へ」というわけにはいかなかった。

 

基本的すぎる話だが、乗り物の多様化は、「外出」の多様化を起こした。

庶民の「移動距離」の増大は、「外出先」の増大でもある。

江戸時代の山間の村などでは、「生まれ育った土地から、一歩も出ずに生涯を過ごした」という人も珍しくなかったという。

ひるがえって現代では、誰もがどこかに移動し、旅行することも、移り住むことも、しごく当然となっている。

自転車で学校へ通い、電車で会社へ行き、マイカーで家族と出かけ、飛行機で旅行へ行く、といった現代の「ふつう」の生活は、100年前にはまぎれもなく「異例」な暮らしだ。

交通事情における「文明開化」が、どのように生きていくかをめぐる「可能性」の増大を起こした。

 

 

「ひきこもり」の人にしても、「外出先」の多様化が、ある種の圧力になっている、と言えるだろう。

(当サイト『ひきポス』では、むしろこのあたりの話をメインにすべきかもしれないが。)

学校でも会社でも、行楽でも旅行でも、どこへでも出かけられるからこそ、「出かけない」ことが意味を持ってしまう。

また、「車社会の誕生」は、「成人したのに免許を持っていない」とか、「いい年をして自分の車を持っていない」といった、「劣等感の誕生」にもつながっている。

極端な発想かもしれないが、もし車や鉄道がない世界だったなら、「家の近所しか出歩かない」暮らしが、ことさらに取りざたされることもなかっただろう。

この100年で、「ふつう」とされるライフスタイルは激変している。現代のあたりまえの「外出」のイメージでさえ、100年の歴史に満たないものだ。

 

 

 

 参照
山田邦紀著 『明治時代の人生相談』 幻冬舎 2008年
下川耿史監修 『近代子ども史年表 1868-1926 明治・大正編』 河出書房新社 2002年

Photo by Pixabay
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文・喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。