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学校と時計の文化史 「誰だ、時計なんか発明しやがったのは」 100年前の〈家族〉の暮らし⑥

 文:喜久井伸哉

 

くたばっちまえ、時刻なんぞを見つけやがった奴は
それに、ここに日時計を最初に置いて、
情けないことに、俺の一日を 時間刻みの細切れに仕上がった奴も。
おれが子供の頃は、腹だけが時計代わりで、あんな日時計のどれよりも頼れる、正確無比の日時計だった。
食い物がない時は別だが、食いたい時はいつでも教えてくれたものだ。
ところが、今じゃ、食い物があってもお天道様が気に入らなきゃ、
食うこともできぬ。
それでもって、町中、日時計だらけ。ひもじさでひからびて、
住人の大抵が通りを這い回っている有様だ 
(古代ギリシアの風刺詩 アウルス・ゲッリウス「アッティカの夜1」)

 


現代では、時間にしばられる暮らしが、あたりまえとなっている。
社会人らしい生活をしていくうえで、厳密な時間管理は欠かせない。
子どものころから、ずっとそうだ。
大人の都合に合わせて生活をしていく、ということもあるが、本格的な訓練の場となるのが、学校だろう。
毎朝の登校時間はもちろんのこと、時間割どおりの授業によって、分刻みのタイムスケジュールにされている。
何時に放課し、何時間宿題をし、何時に寝て、何時に起きるか。
ひいては、入学や卒業が年単位の時間で区切られ、同学年の子どもたちと、一律の生活をするよう馴致(じゅんち)されている。
学校制度がそうであるように、もはや「時計」のない暮らしを、想像することもできない。
しかし学校制度と同様、厳密な「時計」のある暮らしに、長い歴史があるわけではない。

 

明治維新前後に日本社会を見て回ったイギリス人(外交官随員 アーネスト・サトウ)は、当時の日本で「一般の人々は時計を持たなかったし、また時間の厳守ということはなかった」と記している。
時計が普及していったのは明治時代だが、正確な時間意識が根付くまでには、さらに年数がかかっている。

 

1920(大正9)年には、市民に時間規律を浸透させるため、「時の記念日」が制定された。
東京教育博物館(現国立科学博物館)の「時」展覧会がきっかけとなっており、毎年6月10日が記念日だ。
制定は意識が高まったためとも言えるが、逆に考えると、当時は時間厳守のキャンペーンをせねばならないほど、市民の時間感覚がアバウトだった、ということだろう。

 

明治期の人々にとって、「時間」のある暮らしはどのようなものだったのか?
例として、石川啄木の「雲は天才である」という小説を挙げる。
明治39(1906)年に、岩手県の尋常高等小学校(現代の小学校1年生から中学2年生の年齢に相当)で代用教員をしていた時期のことが描かれている。
この小説の冒頭でふれられるのが、学校の時計の不正確さだ。
個人的に印象に残ったポイントが、3つある。

① 学校の時計は、いつも30分以上遅れていた。
② 教師も「遅刻」していた。
③ 校長の裁量で授業時間が変わった。

「雲は天才である」の冒頭を引く。

 

 六月三十日、S――村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計がいつものごとくきわめて活気のないものうげな悲鳴をあげて、――おそらくこの時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであろう、――午後の第三時を報じた。おおかた今ははや四時近いのであろうか。というのは、田舎の小学校にはよくありがちなやつで、自分がこの学校に勤めるようになってすでに三ヶ月もにもなるが、いまだかつてこの時計がK停車場の大時計と正確に合っていた例(ためし)がない、ということである。少なくとも三十分、ある時のごときは一時間と二十三分も遅れていましたと、土曜日ごとに該(この)停車場からほど遠くもあらぬ郷里へ帰省する女教師が言った。これは、校長閣下自身の弁明によると、なにぶんこの校の生徒の大多数が農家の子弟であるので、時間の正確を守ろうとすれば、勢い始業時間までに生徒の集まりかねる恐れがあるからということであるが、実際は、勤勉なるこの辺の農家の朝飯は普通の家庭に比してよほど早い。しかし、同僚の誰一人、あえてこの時計の怠慢に対して、職務柄にも似合わずなんら匡正(きょうせい)の手段を講ずるものはなかった。誰しも朝の出勤時間の、遅くなるなら格別、一分たりとも早くなるのを喜ぶ人はないとみえる。自分は? 自分といえども実は、幾年来の習慣で、朝寝が第二の天性となっているのである。

 

このあと、本来なら授業をすべき時間であるものの、校長の都合(妻が頭痛で弱っているため)で生徒を早めに帰らせた、という話がつづく。
生徒が授業に遅刻する、という問題はよく聞くが、本作では、教師の方が授業時間を守っていない。
そもそも厳密な時間がよくわからず、(少々の後ろめたさはあるにしても、)それがたいして問題だとも思われていない。
明治期に時計が普及していった、と言っても、はじめのうちはこのような不正確さだったのだろう。

それに、時計がどうこうという以前に、現代の「学校」のイメージとはかなり違う。
啄木がいたのは、故郷となる岩手県の学校だった。
在籍者数は、6~9歳にあたる尋常科が215名、10~13歳にあたる高等科が68名の、あわせて283名。
当時の学校事情からすると、通学率はかなり低かったと思われるが、この人数に対して教員は4人だけ。
そのうちの1人が、代用教員の啄木だった。
授業の時には、50人前後に向けて話していたらしい。
また、農繁期には15日の休暇があった。
啄木は学校が休みの機会に上京し、自身の小説を出版社に売り込んでいる。
小説家としては大成しなかったが、歌集『一握の砂』(1910年)によって、俳句史に名を刻んだ。
なお、享年26歳。
時計があろうがなかろうが、短すぎる一生だった。

(つづく)

 

 

 参照
西洋古典叢書編集部編 『西洋古典名言名句集』 京都大学学術出版会 2023年
橋本毅彦、栗山茂久編 『遅刻の誕生』 三元社 2001年
石川啄木著 『雲は天才である』 講談社 2017年

Photo by Pixabay
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文・喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。