連載 100年前の〈家族〉の暮らし 第10回
「若者に囲碁なんてやらせるな」
ゲームやスマホよりバッシングされていた100年前の娯楽
文・喜久井伸哉
昨今はスマホやゲームのやりすぎを防ぐため、条例で制限する動きがある。しかし、50年前にはロックやファッション、100年前には小説や囲碁が、「若者を堕落させる」ものとして抑圧されてきた。〈若者の娯楽〉VS〈大人の抑圧〉の100年を振り返る。

「スマホは1日2時間」の条例
先日、「スマホ2時間条例(案)」が話題になった。
愛知県豊明市の議会に提出されたもので、正確には「スマートフォン等の適正使用の推進に関する条例(案)」と言う。
スマホのやりすぎをひかえるために、利用を「1日当たり2時間以内を目安」にするよう促すものだ。
条例なので、法的な拘束力があるわけではない。
なお、香川県にはすでに「ネット・ゲーム依存症対策条例」(通称「ゲーム条例」)がある。
こちらは「ゲームは1日1時間」、と促す条例だ。
もっとも、効果が出ているのかどうかよくわからない。
現代では、スマホさえ持っていれば、アプリゲームやオンラインゲーム、またSNSやネット動画など、ハマりそうなコンテンツがいくらでも見つけられる。
教育者や親にしてみれば、子どものネットやゲームのやりすぎは心配の種だろう。
ゲームに対して依存的だと、「ゲーム障害」や「ゲーム脳」への危惧も出てくる。
だが子どもに限らず、そもそも人は娯楽的なものに「ハマる」ものだ。
古代ギリシアの古典にも、ゲームに「ハマる」人々が記録されている。
ヘロドトスによる「歴史」の、古代リディア人の逸話だ。
約三千年前、古代リディア人の住む王国が、長い飢饉に見舞われた。
飢えの時代は18年にも及ぶ長いものだったが、その間、「羊の骨で作ったダイスゲーム」があったことで、国民は遊戯に興じ、飢えを耐え忍ぶことができた、という。
なお、その後にダイスの出目に応じて国民の半分を新天地へ出国させ、一部の人々がローマ帝国の礎を築くことになった。
「寝食を忘れてゲームをした」という体験を持つ人は少なくないが、上記は命がけの実践が記録された、最古の事例かもしれない。
昔も今も、大人たちは、若者が没頭するカルチャーを危険視してきた。
ネット、ゲーム、テレビ、音楽、ダンス、映画、ファッション……。
中高年世代から見て、自分たちが育ってきた時代にはなかった新しい文化が興隆すると、たいてい警戒心を持った目で見てきたものだ。
音楽で例を挙げるなら、ビートルズだ。
今では「ビートルズが好き」というとおだやかな印象さえ受けるが、当初は「不良」の音楽だった。
若者世代が熱狂し、ライブで気を失う人も珍しくなかった。
ロックという音楽ジャンルそのものへの新奇さもあれば、見栄えの新しさも影響していたのだろう。
男性が髪を伸ばしたり派手な服を着たりすることが、「若者の堕落」的な目で見られていた時代だ。
「低俗なテレビ番組」への批判
「テレビ」が危険視されていたのも、それほど昔ではない。
今の中高年世代は、上の世代からの、テレビへの批判の強さを覚えているはずだ。
今ではネットの動画にお株を奪われているが、以前は特にバラエティ番組の俗悪さが批判されていた。
文化的に程度が低く、子どもの頭を悪くさせるもの、といった見方が強かった。
1959年の文部省の調べによると、小学校高学年と中学生では、5人に1人が「1日5時間以上テレビを見る」生活を送っていた。
ジャーナリストの大宅壮一は、日本人の「一億総白痴化」が起きていると評し、テレビの興隆を批判。
1980年の日本学校保育会の調査では、小・中学生の「6割が睡眠不足」におちいっており、テレビの視聴時間の長さを指摘している。
今のスマホに比べれば軽いかもしれないが、親世代だって娯楽に「ハマって」きた。
たしか十年以上前の雑誌記事で、ある保護者が子どものゲーム好きを気にして、このように言っていた。
「子どもがゲームばかりやっているから、『テレビでも見てなさい』と叱りたくなる(笑)」。
これは当時の私には、なかなかの冗談に聞こえた。
子どもが低俗なテレビを見ている方が、もっと低俗なゲームをするよりもマシ、という判断だ。
この10~20年ほどで、テレビは子どもにとって「安全」な媒体に成り上がって(もしくは成り下がって)いる。
この先、スマホよりもさらに先駆的な何かが生活に入り込んだら、「〇〇ばかりやってないで、スマホでも見てなさい」という叱り方が生まれるかもしれない。
囲碁は「亡国の遊戯」
100年ほど前はどうだったか。
子どもがハマるもの全般が、だいたい批判を受けていたように見える。
今では信じられないが、批判対象の一つは囲碁だった。
当時の名のある評論家が、若者にふれさせてはならない、と口すっぱく言っている。
ある識者は、囲碁を「亡国の遊戯」だと酷評した。
古代リディア人のケースと違い、ゲームのせいで国が亡びることを危惧していたらしい。
主な舞台は江戸時代だが、落語には、囲碁の影響力を思わせるものがいくつかある。
囲碁が元で切腹沙汰にまでなる「柳田格之進(やなぎだかくのしん)」や、囲碁から目が離せなくなった若者が大金を忘れる「文七元結(ぶんしちもっとい)」などだ。
熱中ぶりという点では、現代のオンラインゲームや、1950年代の街頭テレビに通じるものかもしれない。
娯楽を批判する大人は、子どもが何かに熱中するせいで、思い通りにいかなくなる、という事態そのものが嫌なのだろう。
大正時代に書かれた「清兵衛(せいべえ)と瓢箪(ひょうたん)」では、ひょうたんがやり玉にあげられる。
本作は志賀直哉の短編小説で、著者の父子関係が反映されているという。
ひょうたんにハマった子どもの清兵衛にしくじりがあり、激怒した父親がひょうたんを叩き壊す、という筋書きだ。
(ただ、もはや子どもがひょうたんに熱中する、というのがよくわからない。むりやり現代に置き換えるなら、フィギュア作りを極めようとした「オタク」の子がおり、キレた父親がフィギュアのコレクションを叩き壊す、という感じだろうか。)
清兵衛はひょうたんを取り上げられ、次には絵に関心が向く。
しかし、絵への関心にも父親が目をつけた、というところで話は終わる。
いつの時代も、子どもの娯楽には受難がつきもののようだ。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。
