
シリーズ・私のひきこもり体験 ~隠された子供~
文・はな
編集・石崎森人
私の母親は、どんな人だったか。子供の頃の記憶をたどると、まず浮かぶのは「怖い」という感情である。外では愛想が良く、美人だと言われて育った人だったらしい。だからこそ、怒った時の顔には、すごい迫力があった。イライラしている時の、突き刺さるような目線。感情がすぐに顔に出る人だったので、顔色を窺うこちらとしては、その点は分かりやすかったかもしれない。「私は今、とても不機嫌ですよ」と、その全身が醸し出す雰囲気で日常を支配していた。
ゼロか100かの愛情
母は、何事においても「0か100か」の人だった。好きか嫌いか、白か黒か。その中間にあたる「グレー」というものがない。人の意見をまったく聞き入れないところもあったし、物事に対する決めつけも強かったように思う。
その性質は、私への接し方にも表れていた。機嫌がいい時は、本当に私のことを可愛がってくれる。けれど、一度怒り出すと、物を投げつけることもあった。その高低差が、とにかく激しいのである。機嫌が悪い時が六割、良い時が四割くらい。ただ、それは母自身の機嫌であって、私に対して機嫌が良い時間はもっと少なかった。私が関わると、その割合は七対三くらいで悪い方が多かったように思う。
特に印象に残っているのは、夜中の出来事だ。トイレに起きた私がリビングを覗くと、母は一人でお酒を飲みながら、楽しそうにテレビを見ていた。その穏やかな顔を見て、「今なら話しかけても大丈夫だ」と思ったのだろう。私が「お母さん」と声をかけると、その顔色は一瞬で変わった。「何で起きてんの」。その声は、私の時間を奪ったな、という響きを持っていた。躾で怒っているのとは、明らかに違う。その時、ああ、夜は話しかけてはいけないのだと、子供ながらに学習した。
家の中には、そういう母だけの聖域のような場所がいくつかあった。「ここはお母さんの場所だから、絶対触っちゃダメ」。そう言われた本棚には、母がどんな漫画を読んでいるのか、私は高学年になるまで知らなかった。子育てに自分のすべてが侵食されていくのが、きっと嫌だったのだろう。自分を取り戻すための時間を、必死で守っていたのかもしれない。
ある女性の横顔
母は、五人兄弟の末っ子だった。一度子供の頃の写真を見せてもらったことがいる。、笑っている両親と兄、姉達。その中で一人だけそっぽを向いて口を曲げている可愛げのない子が写っていた、母である。。大家族に馴染まない性格は年齢を重ねるごとに強くなり、高校を卒業するとすぐに家を出て一人暮らしを始めたそうだ。
私が生まれる前の母は、ずいぶんと刺激的な生き方をしていたようだ。バイクの後ろに乗って事故に遭い、鼻を折ったこともあるという。スピードを出す車に乗るのも平気で、常に何かを求め、ギリギリのところで生きていた。そんな母が、私が生まれて初めて「スピードが怖い」と思った、と話していたことがある。
「一人で自立できる」と言いながら、怪我をすれば結局自分の母親や姉に頼っていたという。聞けば聞くほど、一人立ちしているようで、していない。そんな危うさも抱えた人だった。
見えない檻
母もまた、生きづらさを抱えた人だったのだと、今になって思う。そのきっかけは、母が高校二年生の時に亡くなった、私の祖父の存在だった。
祖父は、自営業を営み、五人の子供を育て上げた、昭和の父親そのものだった。母はそんな父親を怖がり、同時に深く尊敬していた。しかし、その祖父は「女が家の外に出るのはおかしい」と、母が地元から出ることを許さなかった。母は、尊敬する父のその言葉に、強く反発していた。九歳年上の私の父に惹かれたのも、どこか亡き父の面影を追っていたからなのかもしれない。
東京で働くことを夢見ていた母。その願いを阻んでいた父が亡くなった時、母はその言葉の呪縛から逃れられなかった。父の言葉を忠実に守り、地元で就職し、ずっとそこで生活を続けた。
やりたいことがあるのに、できない。結婚の約束も果たされず、なぜ私はここで子供を育てなければいけないのか。母がいつもヒステリーになっていたのは、そういう満たされない思いがあったからなのだろう。
そう考えると、母もまた、見えない檻の中でもがいていた、一人の人間だった。(続く)
