
シリーズ・私のひきこもり体験 〜隠された子供〜
文・はな 編集・石崎森人
絵を描くことだけを道しるべに進んだ高校は、私立で自由な校風だった。中学までの息苦しさが嘘のように、そこにはギャルもいればギャル男もいて、私などは真面目な人間だと思えるほど、みんなが緩やかだった。「この世にこんなのが許されるんだ」と驚いたくらいだ。高校一年生の時、私は初めて「学校が楽しい」と思った。やることなすことが全て新鮮で、やっと肩の荷を下ろして学校に通えている、そんなウキウキした一年だった。
私には未来がない
しかし、その時間は長くは続かなかった。高校二年生になると、私は自分の家の経済状況を、おぼろげながら理解し始めていた。そして分かってしまったのだ。私はきっと、美大には行けない、と。行きたかったけれど、お金がかかるから無理だろう、と。母と同じように、私も高校を卒業したらすぐにでもこの地元から出たいと思っていた。その未来が、急に見えなくなった。
その現実がはっきりと見えた途端、私の気持ちは急降下していった。何をしても覇気がなく、身が入らない。卒業までの時間が、ただの残り時間のように感じられた。みんなは先の未来が見えて楽しそうなのに、私には何もない。どうなってしまうのだろうという不安ばかりが募っていった。
友達関係は悪くなかった。みんな良くも悪くもチャランポランで、緩い感じだった。でも、みんながのびのびすればするほど、私にはそれが羨ましくて仕方がなかった。保育園の頃からずっとそうだ。楽しい輪の中に、自分は入れない。私はこういうポジションで、こういう人生なのだと、また思い知らされた気がした。その頃から、また遅刻や早退が増えていった。
何も決まってない進路
高校三年生になっても、私の進路は決まらなかった。三者面談をしても、母親は上の空だった。「美大に行きたいなんて言ってた?」と、私の将来に全く関心がないようだった。お金がなさすぎて、考える余裕もなかったのかもしれない。でも私は、一度でいいからきちんと話がしたかった。「うちの経済状況はこうだから、短大までなら行けるよ」とか、そういう話をしてほしかった。しかし、母は不機嫌なオーラを出し、そうした話し合いから逃げ続けた。結局、何も決まらないまま卒業する生徒は、学年で私ともう一人くらいしかいなかった。
周りの友達は、あそこの美大に決まった、ここの大学に受かった、と次のステップのためにキラキラしていた。田舎から出て、楽しいことしか待っていないように見えた。私には、何もない。そんな友達と話せるはずもなく、私はクラスにいることさえ、耐えられなくなっていた。
卒業に必要な単位が確定すると、私は学校に行かなくなった。自由を求めてではない。ただ辛くて、ずっと家に横になっている、引きこもりのような状態だった。卒業式の練習にも行かなかった。
走って帰った卒業式
仲が良かった友達もいた。でも、話せなかった。心配して連絡をくれた子もいたが、その子は有名な大学の美術学部に進学が決まっていた。「あの子はいい大学に行けるから、そんな余裕があるんだろうな」。そんな風に、ひどく卑屈になってしまっていた。高校三年生になってからの私は、本当に嫌な奴だったと思う。周りからは「様子がおかしくなった」と思われていたかもしれない。
それでも、気にかけてくれる友達が一人いた。その子とは、今でも連絡を取り合っている。私の人生には、どこかで必ず一人、守護天使のような人が現れる。不思議なことだ。
卒業式も行くつもりはなかったが、前日に担任の先生から電話があった。「明日来るの?来ないの?」と、心配している素振りもない、事務的な声だった。私は「行きます」とだけ答えた。その先生も、どこか抜けている人で、生徒からは「仕事ができない」と馬鹿にされているような人だった。私のことまで手が回らなかったのだろう。
結局、卒業式には出た。でも、式が終わると、誰とも話さず、走って家に帰った。みんながキラキラしている中で、話せることなど何もなかったから。
そして、その翌日から、私の本格的なひきこもり生活が始まった。(つづく)
