(文 喜久井伸哉)
山とか海とか宇宙とか、未知の領域に挑める人は、そもそも体が健康だな、と思う。
私はまず、家を出るために一歩を踏み出す、ということにすでに冒険性がある。
挑戦の第0歩目(もしくはマイナス1歩目)で、自分の身体、という珍奇にたじろいでしまう。
「一番身近な物体」※1 が、すでに驚嘆すべきものだ。
自分の身体がどのようなもので、そしてそれをどのように表現したらいいのか。
もっとも身近な、身体というフロンティアがあり、それを言葉にして拓いていく、というところには、開拓者精神に似た何かがある。
伊藤亜紗の新刊『体の居場所をつくる』は、難病、摂食障害、ナルコプレシー(睡眠障害)など、異例な身体の経験者11人を取材した本だ。
「体」と「環境」の両方を模索し、いかに「居場所」をつくっていくか。実践のノンフィクションとなっている。
伊藤亜紗は、これまでにも『体はゆく』、『記憶する身体』などを著しており、最先端の「身体」の記録者として、これ以上の人はいない。
「疲労感」「倦怠感」「忌避(きひ)感」など、辞書に載っている言葉はいくらでもある。
しかし、どれだけ一般的な言葉を費やしても、唯一無二の状態におちいっている身体は、当人のオリジナルの言葉でしか伝えられない。
それは本書の場合、以下のような表現になって表れている。
摂食障害を語って「(高速道路の)海ほたるみたいに帰ってこれちゃう」。
PEM(労作後倦怠感)を語って「幻肢痛的不快感」(+漫画の『メイド・イン・アビス』で描かれる「上昇負荷」)。
タンパク質の生成に関する難病を語って「自分が花みたい」。
……など。詳細は本書を読んでほしいが、誰もが持っているはずの「身体」が、誰も聞いたことのない物体に変わっている。
本書の読後感は、イヌイットの犬ぞりや、パタゴニアのフィヨルドの記述か何かでも読むかのように、未知のルポルタージュを知って「こんなことってありえるのか」と驚く感覚に似ている。
そもそも世界的に報告例の少ない難病の場合、専門の医師でさえ詳細がわからない。
かつて誰からも語られたことがない状態を記述するためには、必然的に当事者がパイオニアになる。
言葉で切り開いていくさまは冒険者的で、いさましくさえある。その一方で、自分自身から放逐されてしまった、祖国喪失者的な悲運の記録でもある。
自分の身体を「噛み合わない他者」と表現し、「どうにかしてまた体と出会いたい」と語る経験は壮絶なものだ。
本書は「体の居場所」と題しているとおり、直接的な障害以外もテーマになっている。
著者は、「空間のどこへでもずかずかとためらいなく入っていける人は、その社会におけるマジョリティです」と言い、人種や国籍によって生じる、身体的な「居心地」の悪さについても言及。
このような観点は、「生きづらさ」全般も射程に入ってくるものだ。
誰もが「自分の身体」の当事者だ、という根本はいったんおくとして、文字通り「我が身」をかえりみる読書になる。
私は自分の身体の語り方を、伊藤亜紗のいくつもの著書から学んだ。
たとえば、「私は◯◯だった」ではなく、「私に◯◯があった」という言い回し。
これは、「私は」でなく「私に」と語る、(文法的には与格という)一文字の違いに過ぎない。
しかしこの一文字に、社会問題をめぐる思想があり、生き延びるための秘儀が宿る。
たとえば、「私は」と「私に」の違いを「不登校」に応用した場合、「私は不登校だった」でなく「私に不登校が起きた」という言い回しに変わる。
英語を交えるなら、「I am 不登校」でなく「I have 不登校」だ。
これだけでも、「自分」の現状のとらえ方が変わり、ひいては「自分」の認識が変わる。そうして、「居る」ことの容易さが変わってくる。
獲得された「身体の居場所」は、他の誰かとつくる「居場所」にも居やすくさせる、かもしれない。
異文化を知ることで、自明だと思えていた自国の文化に衝撃が加えられるように、誰かの「身体」を知ることで、自分の「身体」に変革が加えられる。
「ひきこもり」の身体も、その例に漏れないだろう。
他の誰かの「身体」の記述は、いつも私の実学だった。
※1 本書は朝日出版社のウェブマガジン『あさひてらす』の連載「一番身近な物体」に書き下ろしを加えて書籍化されている。

題名:体の居場所をつくる
著者:伊藤亜紗
出版社:朝日出版社
ページ数:312ページ
発売日:2026年2月21日
定価: 2,090円(本体1,900円+税)
ISBN:9784255014081
公式ホームページ
https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255014081/
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。
