不屈に花は初めて作った曲。病んでる友達に向けて作った。こちらがどんなに弱っていようが、生活は容赦なく追い討ちをかけてくる。だから自分本位に生きたほうがいいと思う。ふてぶてしくあればいい。貴方を守れるのは貴方しかいないのだから。(Jo0ji)
私は近頃、歌手のJo0ji(ジョージ)にハマっている。
Jo0jiは2023年にデビューしたシンガーソングライターで、最近はアニメの『呪術廻戦 死滅回遊 前編』のエンディングテーマ『よあけのうた』が話題になっている。
私はこれまでにJo0jiのライブへ2度行き、1stアルバムの『あえか』もCDで聴き込んだ。
中でもリピートしているのが、代表作の「不屈に花」だ。
先日の3月20日には、「あの日の春の歌」という短編映像化の企画で取り上げられた。
ドラマは乃木坂46の遠藤さくら主演で、現在ユーチューブにて公開中。
今回は「不屈に花」の歌詞が気になったので、ちょっと読み込んでみたい。
ちなみに、私は普段「現代詩」という奇怪なジャンルにふれている。そのためごちゃごちゃした書き方になりやすいのだが、あくまで詩を読む時のノリでいきたい。著作権の都合上歌詞の全文が出せないため、先に検索などで一読してもらった方がわかりやすくなる。
Jo0jiの文学的センスの高さ
特筆すべきは、Jo0jiがつづる歌詞の文学性の高さだ。
本作の「花」にもセンスがある。
J-POPの歌詞で、「花」は常にキーワードとして使われてきた。
有名な曲では、『世界で一つだけの花』や『愛を込めて花束を』などがある。
しかしそれらの曲では、「花屋の店先に並んだ」と歌われるような、小売りの「花」のイメージが作用している。
一方、Jo0jiが作詞する「花」はもっと文学的なニュアンスだ。
古典文学のなかで「花」の描写と言えば何があったか。
たとえば有名な和歌では、
「花の色はうつりけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」。
漢詩が元になった詩では、
「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」。
近現代では、一例として林芙美子の短詩。
「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき/風も吹くなり 雲も光るなり」。
では、「不屈に花」はどのような歌詞か。
まずは冒頭の一節から。
「結局coda」は親とのコミュニケーション不全?
近頃は調子がいいが
日々は無理が祟って結局coda
まぁそれらに面食らうような
僕はもういない
「結局 coda」は「結局、こうだ(こうなっちまうんだ)」という嘆きにも聞こえる。「coda」は音楽用語で「結尾部」の意味らしい。そのため「頑張っても結局終わってしまうんだ」と読むのが解釈の一つ。
しかしもう一つ、「コーダ」には「聴覚障害の親を持つ、耳の聞こえる子どもたち」といった意味がある。
「Children of Deaf Adults」の略称でCODAだ。
「まぁそれらに面食らうような/僕はもういない」を少年期からの成長と読み、後続の「さようなら、ママ、パパ」にもつながるため、「coda」を親とうまくやりとりができない息子=親子のコミュニケーション不全、と連想することもできる。
拡大解釈だが、次節の「ひっきょう」の音を「卑怯(ひきょう)」ととらえることもできる。
「coda」とからめて「自分のせいで相手の声を聞くことができなかった。それゆえに失敗してしまい、穏やかな日々が崩れてしまった」という自戒に読むこともできる。
でも些細に痛みでも参ってしまうな今日は
畢竟 僕らの日々はひどく脆い
「畢竟(ひっきょう)」は仏典由来の言葉で、終盤の「彼岸は甘く誘い続けるから」の「彼岸」も同様。
「祟って」から「参ってしまう」の漢字表記の流れは、「参拝」的な意味で「参る」のニュアンスを汲めなくもない。
この後で出てくる「花」は路傍の小さな存在であり、東洋的なアニミズムの視点に思える。
このあたりの言葉選びの仕方に、東洋的なイメージが頻出する『呪術廻戦』との相性の良さがあったのかもしれない。
「人生の意味を問う」のではなく、「人生から意味を問われている」
くだらないことで今日が暮れる
意味はいつでも迎えにいくものでしょう
訳などはいらないから そこにあればいい
止めどなく押し寄せる日々にそっと花束を
ここに出てくる「意味」は、ストレートに「人生の意味」だろうか。
だとしたら、自分が「人生の意味」を問うことで答えが現れてくるのを待つ、という姿勢ではなく、自ら求めて意味を発生させる、という姿勢が示されている。
このあたりの歌詞には、『夜と霧』で知られるV・E・フランクルの思想を連想した。
フランクルは、一人の人間が「人生の意味」を問うても、そこに真正の「答え」はないと言う。
そうではなく、人生から「意味を問われている」存在として人間がある、と考えた。
本作の歌詞の場合、「なぜこんなにも苦しむのか」と「問う者」ではなく、「訳などはいらないから そこにあればいい」と、「答える者」に転じている。
「訳(わけ)などはいらないから」は、苦しみを経て命の受動性を体感した境地かもしれない。
吉野弘の詩「I was born」のように。
なお1stアルバム収録の「≒(ニアイコール)」でも、「存在意義なんてはなからいらない ただ、あるようにあれや」「だって答えは俺らの中から 見つけるもんだろ兄弟」と歌われている。
「人生の意味」に迷い苦しむのではなく、「意味」を自ら「迎えに」いき、花束を捧げるという歓待(かんたい)の姿勢を見せ、希望的で明るい展開となっている。
また、「花」が自然発生するものである一方、「花束」は人為的に作り上げるものだ。
地面に散った花びら、という自然現象を受動的にとらえたあと、自ら意味を迎えに行き、意図的に「花束」を捧げる能動への転換。
「花」は「止めどなく押し寄せる」風によって散ってしまうが、その日々の中にあって「花」を意図的に見定め、大事なものとして掴んでいようとする。
哲学者の竹内整一に『花びらは散る 花は散らない』という著書がある。
具体的な事物の一端が欠けたとしても、存在そのものが損壊するわけではない。
歌詞にあてはめるなら、風によって日々の花びらは散ってしまうにしても、生命の「花」は散らない。
この一節で、「僕たちは生きていこう」とそっと宣言している。
Jo0jiのライブパフォーマンスでも、脱力的=非意図的な動作が目立つ。西洋のロックシンガーならバチバチの能動性で盛り上げそうなところでも、あえて力を抜いて中動態的な身振りに引く。「花束」ではなく「花」のありようを見せるのは、J-POP全体の潮流でもあるかもしれない。
その上で、少し飛ばして最終節。
くだらないことも愛したいよな 賞味期限は僅か
それでも彼岸は甘く誘い続けるから 僕ら靦然として太陽
己がための花束掲げて 嗚呼、不屈に花
「意味」という言葉には「味」の一字が含まれている。
「賞味期限」は人生の味わい=意味であるかもしれず、次行の「甘く誘い」でも味覚に言及。
となると「彼岸は甘く誘い続けるから」は、人生の意味を上回る味の発生=生きている意味の喪失となる。
だがそれに対して謳われるのは、「僕ら靦然(てんぜん)として太陽」。
「靦然(てんぜん)」という言葉はちょっと知らなかった。
意味は「まのあたりに見る」「あつかましい」といったことらしいが、「堂々としていよう」のニュアンスではないか。
「てんぜん」の語感には「全然」や「完全」のような、あいまいさを断ち切る強度もある。
「~して太陽」は、音だけ聞くと「~していたいよ」という願望にも聞こえる。
花=光であるなら、それを収斂(しゅうれん)させたものが「花束」であり「太陽」。
「僕らは堂々たる太陽だ」という結論でなく、「太陽のようでいたい」という過程を示していると読みたい。
サビのパートは、はじめ「くだらないことで今日が暮れる」だったものが、最後には「くだらないことも愛したいよな」に転じる。
哲学者のパスカルに、「わずかのことが我々を悲しませるので、わずかのことが我々を慰める」という言葉がある。
この言葉をもじるなら、「くだらないことが僕たちを悲しませるので、くだらないことが僕たちを慰める」といったところか。
「アスファルトに咲いた花」のような「くだらないもの」が、散っていく哀感でもあれば、咲いていく充足にもなりえる。
「不屈に花」の「~に」の部分に呪力がこもっている
曲の 末尾は「不屈に花」。ほぼリフレインのない歌詞で、ラストにタイトルを持ってくるカッコ良さ。
最後の「はな」の歌唱は「(は)なあ!」とややぶっきらぼうに響く。
この「なあ!」は人への呼びかけの声を思わせる。
しかしニュアンスは「頑張って生きていこうぜ!なっ!」ではない。
「あーあ、俺たちはこうしてまた生きていっちまうんだなあ……」という感じの「なあ」がにじんでいる。
もし「不屈に花束」なら人為的なため能動態だが、「不屈に花」は違う。
能動的な希望=「花束」でなく、いやおうなしにオートマチックで脈動する生命力としての「花」だ。
それを一言で表すための、「不屈に」という与格が素晴らしい。
文法の話になるが、「私に◯◯がある」など所有を示す「~に」という表現を与格(よかく)と言う。
ほぼすべての人に通じない話だが、「不屈に花」はJ-POP史に残る与格だ。
これだけ「〜に」がキマっている曲は他に思い浮かばない。「に」にほれぼれする。
文法的には、「不屈の花」=「僕らは不屈の花である」の方がわかりやすいはずだ。
また、「僕らに花」=「不屈の精神を持つ僕らに花が贈られる」としても良かっただろう。
しかし、そこをあえて崩して「不屈に」と来る。
この与格一発で、「僕らは花束を贈与する」という能動態ではなく、「僕らに花が贈与される」という中動態が起きている。
地べたに散り落ちた花びらが、太陽の光を反射して輝く。
そして苦しみを経験してもなお自ら小さな花=光をかき集める不屈の意思を持つ者に対しても、光が反射して輝かせる。
根源的かつ天然な、命の互酬性(ごしゅうせい)。
自力で達成しているわけではないゆえに、最後のピアノの音も「花束を掲げるぜ!」というロックな高揚感でなく、「嗚呼、花だなぁ……」といったかなげな終わり方をする。
静かに散る桜を見上げる、春らしい情緒とも重なる。
こまごまと書いてしまったが、要するに、すごい良い歌詞ってことだ。
参照:Jo0jiオフィシャルサイト https://jo0ji.com/s/jo/?ima=3430
サムネイル画像:Jo0ji『475』 アートワーク
--------------
文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。
