
文・雨川雅生
編集・石崎森人
ひきこもりはカテゴリー名ではなく、自殺のような状況や状態を表す名詞であり、
自殺の背景が様々なように、ひきこもりの背景も様々である。
これは「ひきこもり」という状況や状態を考えると、当たり前の理解かもしれません。
例えばひきこもり状態に陥った要因が性的少数者であることや、それに伴う性に関する悩みや社会からの偏見などによりシンドくなって引きこもりがちになったというケースの場合。
ひきこもり状態に陥った要因の1つである性的少数者の方が生きづらさを抱えていることは、ひきこもり状態を改善・解消するためにも、ひきこもりの問題を考え取り組む上でも、重要な課題だと思います。
これは僕にとっては当たり前のように思えますが、
人々の間で共有されているのか疑問を感じることがあります。
僕の場合はひきこもり状態=社会参加に困難を感じている要因の1つは、視力矯正の不具合を抱えていることでした。
そのため、ひきこもり関係の集まりでもそのように語っていました。
僕がひきこもり=社会参加に困難を感じていた理由は、主に
1.視力矯正の不具合、
2.履歴書の空白
3.仕事をした経験が少ない、
4.その他、いくつかの語れない事情
などです。
そして、4.に含まれる事情については人には語れませんが、社会参加に困難を感じている度合いにおいては、かなり大きなものでした。
また、4.が理由で、社会参加に困難を感じている、という以上に、20代前半くらいまでは、人間社会に参加していないという意識がありました。
そのため、社会に参加して得られる利益を受けとることができない以上、社会に参加して被る不利益からも免れる権利があるという論理をつくりあげていました。
しかしその論理は自分自身と家庭内にしか通用せず、市民社会では通用しない論理であることも承知していました。
けれど、自分がそのトンデモない論理を働かせて、とてつもなく狭い世界にいたと気づいたのは、だいぶ後になってからのことです。
求職活動を始めていくらか経った後になって、初めて自分に社会性が身についていなかったことに気づきました。
その意味で僕は「ひきこもり」でした。
しかし、視力矯正の不具合のことを話した際、
「今はひきこもりの話をしているので、視力矯正の不具合の話は別ではないのか?」と言われたことがあります。
これは上の例で言えば、
ひきこもり状態に陥った要因である性的少数者であることと、ひきこもりの話を別の話だと捉えることと同じです。
また、
ひきこもり状態に陥った要因が学校でのイジメ体験(学校でのイジメを例に挙げるのは、ひきこもりになる要因として一般的に語られることも多いからです)にある場合に、ひきこもりとイジメ体験を分けるようなものです。
でも、視力矯正の不具合の場合は「今はひきこもりの話をしているので、視力矯正の不具合の話は別ではないのか?」と言われたように、視力矯正の不具合を抱えて悩んでいるという話は、
ひきこもり関係の集まりでは共感を得づらい現実がありました。
また、支援の現場でも視力矯正の不具合を抱えて悩んでいるという話をすると、
支援の対象外になることがありました。
このような問題が起こる理由は様々ですが、
「ひきこもり」の背景は様々である、
という当たり前のように思える前提がきちんと人々に理解されていないことが理由の一つとしてあるように思います。
厚生労働省も、ひきこもりを「状態」として定義していますが、
その「状態」の背景が様々であることは共有されていないように思います。
また、先に述べた、
要素の一つが例えば性的少数者だとしたら、日本社会でもいくらか認知され、メディアでも語られるようになりましたが、50年前の日本社会だったら余り人々に知られておらず、今ほど世の中に受け入れられていないため、今以上に引きこもるリスクは高いと思います。
そのように考えると、
50年前の性的少数者にあたるような、
現代ではまだ世の中に受け入れられていない病気や障害、困難な事情を抱えている人は、
抱えていることを語ることが難しいと思います。
抱えている困難さを語ることができない、
というのは抱えている困難を解決するための助けを呼びづらく、引きこもるリスク=社会参加や社会生活に困難を感じる度合いは高まります。
必ずしもこのような人に語れない病気や障害、困難な事情を抱えているとは限りませんが、
ひきこもりの人はひきこもり状態に陥っている要因を語れない可能性が多く考えられます。
一方で、
ひきこもりという概念があることで、
語れない困難さを抱えていても、
「語れないけれど困難を抱えている」ということが語れるようになります。
例えば、ひきこもりや生きづらさを抱えている人たちの集まりでは、「言いたくないことは言わなくていい」ことになっているので、困難を抱えていることを安心して語れる場が多くあります。
このような問題意識を持つようになった背景について。
「ひきこもり」の問題についてはメディアを通じていくらか知っていました。
でも、メディアでは心理的な理由などで対人関係に苦手意識を感じている人たちの問題を語っているように感じていたので、
そもそも人間社会に参加していないという意識があった僕の境遇と、「ひきこもり」の問題で語られている人々は、全く異なると思っていました。
しかし、人々はメディアを通じて考えを形成しているため、社会に参加してこなかった僕が、メディアで論じられているひきこもり像や当時よく語られていたニート(学校に通わず、働かず、職業訓練も受けていない若年無業者)と呼ばれる若者たちの境遇と重ねられるのは避けられないと感じていました。
実際に約17年前、
社会に参加したいと思って求職活動を始めた際、
最初のキャリアカウンセリングで、カウンセラーの方に、「雨川さんは踏みとどまっているのかと思ったら、踏み出していた」と、驚かれました。
恐らく僕がキャリアカウンセラーの方の質問に流暢に答えられず、自信がなさそうにしているのにも関わらず、職業訓練を受けることを積極的に検討している姿にギャップを感じたのではないかと思います。
その最初のキャリアカウンセリングを始め、「ひきこもり」の問題が語られる際、支援機関での状況が問われていないことに問題意識を感じ、様々なひきこもり関係の集まりに参加することを通じて、自分もやはり、この人間社会に生まれて生活をしている当事者であることを受け入れ始めました。
このように、
世間で言われている心理的なひきこもり言説と、
僕の境遇にはかなりギャップがあります。
このギャップが、
「雨川さんは踏みとどまっているのかと思ったら踏み出していた」という驚きや、「今はひきこもりの話をしているので、矯正の不具合の話は別ではないのか?」という誤解につながるような気がします。
そして、適切な支援を受けられず、
様々な支援機関を巡り、多くの支援者と出会っても、社会参加に困難を感じたまま...
今の僕は公的な支援を通じて困難な状況を改善していくことを、ほぼ諦めています。
このような現状を変えるために、
まずは、
「ひきこもり」の背景は様々であり、
その背景=要因については語れないことである場合もある、
という基本的な前提を共有する必要を感じています。
まずはこの概念を共有し、現実を知ること。
......
「ひきこもり」はカテゴリー名ではなく、
ひきこもりや生きづらさを抱えている人たちの背景は様々なので、
異なる障害や病気、背景を持つ人たちが「ひきこもり」という名詞のもとに対話をしたり、異なる背景を持つ人たちが繋がれる可能性もあります。
そして、人とつながり対話を続けているうちに、
語れなかった具体的な事情を語れるようになれるかもしれない。
これが「ひきこもり」という問題や概念に対して、
僕が感じている可能性の1つです。
