第3回
文・ぼそっと池井多 / テルリエンヌ
<プロフィール>
ぼそっと池井多 : 日本の男性ひきこもり、55歳。
テルリエンヌ : フランスの女性ひきこもり、38歳。
「第2回」からのつづき・・・
そして、ひきこもりになる
テルリエンヌ: 高校で、わたしの成績は壊滅的なまでに下がっていきました。でも、両親が望んでいたので、なんとか学校はやめないで行っていました。
そのころになると、少し友達ができるようになりました。でも、学校の教師たちとの関係では、悪い思い出しかありません。彼らの中には、わたしは勉強すればできるようになると信じているのがいて、さかんに「なぜもっと勉強しない」とわたしを尋問する教師がいました。
ぼそっと池井多: あなたは大人がこわかった?
テルリエンヌ: そう、そう。それ。わたしは大人がこわかったのよ。とくに高校で私を批判し傷つける大人たちが。
ぼそっと池井多: そのあと、あなたは大学へ進んだ、と。
テルリエンヌ: そう。でも、わたしはその時点でたくさんの問題をかかえていた。高校のときに勉強しなかったものだから、とうぜん知っているべきことをいろいろ知らなくて。それで生活がどんどん難しくなったの。
ぼそっと池井多: 大学で何があったのですか?
テルリエンヌ: ようするに、わたしが外の世界とのコンタクトを持ち続けられなくなったということよ。わたしは20歳のときに閉じこもり始めて、2003年、24歳までには完全にひきこもりになりました。
ぼそっと池井多: 大学での専攻は何だった?
テルリエンヌ: わたしは映画と視覚聴覚芸術を専攻しました。必要な資格を取るのに、まるまる四年かかりました。それを取るのに、わたしはいっしょけんめい勉強した。でも、取ったら、それを役立てることもなく、卒業のあとその分野はすぐに離れてしまったんです。
ぼそっと池井多: なぜ、そんなに時間と労力をつぎこんで取ったものをすぐに捨てちゃったの?
テルリエンヌ: だって、その分野をつづけようと思ったら、修士過程に進むために、ある教授ともう一年、やっていかなくてはならなかったんです。それは、わたしにはできないことだった。その教授はわたしからするとこわい「大人」でした。
外界とコンタクトできない
ぼそっと池井多: なるほど。ひきこもりになるきっかけというものは、「ふつうの人たち」には理解しがたい話であることが多いね。私の場合もそうなんです。
私もまた、あなたと同じように、大学を卒業するときに始まった。よく、受験に落ちたとか、失敗体験がひきこもりのきっかけになる人がいるけれど、私の場合はそうではなかったのです。私は問題なく卒業できそうだったし、就職が内定していたのも良い会社でした。
「ふつうの人たち」は、「それじゃあ、ひきこもる理由なんて全然なかったじゃないか」というのだけど、私にとってはそうではない。これはもう、ひきこもるしかなかったのです。そして、ひきこもりになることを意識的に選んだわけでもない。
怖い教授に連絡ができなくて、あなたはどうしたの?
テルリエンヌ: わたしは一年留年して時間を置きたいといったんです。それはフランスではよくあることだから。でも、留年している間に、わたしはどんどんうつに落ちていきました。そして、もう「外」とはコンタクトを取らなくなったのです。わたしは家から出るのをやめ、両親の家の中にずっと一年中こもっていました。でも、ここが大事なんだけど、わたしは何もひきこもりになることを選んだわけじゃないの。わたしは、なりなくないものになった、ということです。
ぼそっと池井多: もし、両親の家に住んでいる間に私のひきこもりが始まっていたら、私もあなたと同じ道をたどったかもしれないね。たまたま私の場合は、ひきこもりが始まったのが、すでに両親の家から出て、一人で東京の大学に通い、大学の寮でのことだったから、両親の家にひきこもることにはならなかったというだけで。
大学の寮も、卒業すれば追い出されてしまう。そこで私は自分が属している社会から、どこか部屋のような内側へひきこもるのではなく、外側へひきこもることになりました。私は日本社会から逃げだし、海外を放浪することにより、ひきこもりを続けていたのです。こういうひきこもりのパターンを「そとこもり」といいます。
あなたは、大学では友達はできたの?
テルリエンヌ: 大学では、わたしはもっぱら男の子たちに交じってました。いちばん親しかったクラスメイトは同性愛者の男。だから、口説かれるとか、恋愛とか、そういう問題は起こりませんでした。
ぼそっと池井多: 両親の家でひきこもるようになってからも、親しかった友人との関係は続けることができましたか。
テルリエンヌ: いいえ。わたしはもう大学へ行けなくなった時、彼との関係を切ることを望みました。何か月かしてから、彼が電話をくれて、それからときどき話すようになりました。わたしも何回か出かけていって、外で彼と会いました。彼はわたしのうつ状態を理解していました。でも、しまいには彼は私の状態にうんざりしてたかもしれない。彼はこう言ったのです。
「人は、自分と同じような人を助けることはできない」
この言葉はわたしの中に深く残っています。
外の世界はこう見える
ぼそっと池井多: ひきこもりになったとき、あなたは24歳だったわけだね。そのころひきこもり部屋の外にひろがる世界はどう見えていた?
テルリエンヌ: それは複雑な質問ね。前にも言ったように、わたしはひきこもりになることを選んだわけではありません。だから、そんなわたしにとって外の世界は反発と憧れの両方で見てました。
外の世界は大人たちによって動いている。それがわたしを怖がらせました。わたしは他人というものを危険と見なして、接触を避けました。でも、はっきり言って、わたしは「ふつうの人」の暮らしができたらいいのに、とも思っているのです。だって、「ふつうの人」の暮らしには良いものがたくさんあるから。
だから私は、人々と接触するために何回か外出を試みたんです。残念ながら、わたしの目には、「ふつうの人」たちは攻撃的で馬鹿な存在として映りました。わたしは彼らといっしょにいることに疲れ果てました。
いま私が「一緒にいてもいい」と思える外の世界の人はケア・スタッフだけです。つまり、看護師、心理士、精神科医の人たちだけ。彼らは頭が良くて、問題の核心を素早くわかってくれます。彼らがいるからこそ、わたしは今なんとかやれている。それが今のわたしにとっての唯一の「外の世界」とのつながりです。
精神分析と就労支援
ぼそっと池井多: そんな状況は、24歳から後もずっと続いたの?
テルリエンヌ: 25歳のとき、わたしは就労のための訓練を受けました。芸術作品の修復の仕事でした。それと同時に精神分析も受けました。どちらもわたしが社会復帰して仕事を見つけるために必要なことだと思ったから。
就労訓練は6ヵ月つづいて、わたしはちゃんと全部やり通しました。でも、それは残念ながら結果に結びつきませんでした。就労訓練が終わると、わたしはすぐひきこもりに戻っていきました。
ぼそっと池井多: そのとき訓練された仕事、…芸術作品の修復という作業は、あなたにとって面白くなかったの? あまり人と会わないでできそうなのに。
テルリエンヌ: 面白くありませんでした。その訓練をやり通すのに、かなりパワーを必要としました。訓練で何を習得したか、ほとんど憶えていません、絵の描き方以外はね。
わたしは高校で絵を描いていたけど、大学へ入ってからやめてしまっていた。就労訓練のおかげでそれを再開することができて、それまで学ぶことのなかった、絵の描き方の基礎を勉強する良い機会とはなりました。
でも、それ以外のことは、ただひたすら忍耐だったのです。人間関係もいくつか面倒なことがあって、わたしはいつもアフターの集まりへの誘いを断り続けていました。
ぼそっと池井多: 精神分析の方はどう進んだのですか。
テルリエンヌ: こちらも良くは進みませんでした。だから、わたしは精神分析の方は4ヵ月でやめてしまいました。精神分析はわたしに何も解決を与えてくれなかった。だから、終わると、わたしはさっさとひきこもりに戻っていきました。
ぼそっと池井多: それでどうしたの?
テルリエンヌ: わたしは、自分のひきこもり部屋から出たかった。だから、そのためにあらゆることにトライした。わたしは、部屋から出るためには、「外へ出たい」というモティベーションを高めなければいけないと思ったの。だから、2006年、26歳の時に写真を始めました。
大学で映画と視覚聴覚芸術を専攻したわたしにとって、写真は専門から遠い分野ではなかった。だから、ある意味、わたしに合っていました。自然から抽象まで、わたしは何千枚も写真を撮りました。
この「ひきポス」の記事のなかに読者の皆さんが見ている写真は、わたしがそのころに撮った作品がほとんどです。これらの写真を撮っていたころ、少し部屋から出られるようになっていました。
でも、三、四年経って、写真もやめてしまいました。ふたたび外へ出るのが難しくなってきたからです。
ぼそっと池井多: 読者のみなさんは今、そのころあなたが撮った写真をとても評価していると思いますよ。じっさい、そういう声を読者の方々から私も個人的にうかがっています。「いい作品だ」って。
それで、26歳以降はどうなっていったの?
テルリエンヌ: 27歳のとき、わたしは軍隊へ入りました。陸軍です。
ぼそっと池井多: え?! ぐ、ぐんたい?
・・・「テルリエンヌの場合 第4回」へつづく
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