文・ぼそっと池井多
この映画批評はネタバレを含みます。もし筆者自身が読者だったら、映画作品をしっかり味わうために、このくらいのあらすじはぜひ事前に読んでおきたいと思うのですが、ストーリーを追いかけることが映画鑑賞の重要な部分だと思っている人には、これを読むことで本編を観る気をなくすかもしれません。
閲読は、各自のご判断でお願いいたします。
今年(2024年)公開された映画作品のなかで、私が感想を述べておきたいのが、入江悠監督、河合優美主演の『あんのこと』である。
Amazon Primeでもレンタル料金なしで観られるので、自宅でごらんになった方も多いだろう。公開後しばらく経ち、すでに多くの方が論じている。いまさら私如きが論じることもなかろうと思っていたが、
「この作品には希望がない」
といった感想がネット上に多かったため、それではこの作品が報われないと思い、私も筆を執ることにした。
この作品は、2020年6月に朝日新聞で「ハナ」という仮名で報道された或る女性の人生に基づいているという。
ハナさんは幼いころから虐待を受け、薬物依存におちいっていたが、それを懸命に乗り越え、夜間中学で学び直して介護福祉士になろうとしていた。そこへコロナ禍がやってきて社会で孤立し、2020年春に自死したらしい。
映画のストーリーは、ハナさんの人生を忠実に再現したものではない。
今年の急成長ぶりが話題になった俳優、河合優美の演じる主人公、
21歳になった杏は、ホステスをしながら売春でも稼いでいるらしい母と、足の不自由な祖母といっしょにゴミ部屋となった団地の一室に暮らしている。
しかし、彼女ら三人の収入のほとんどは杏の売春に頼っているようである。
母は、娘である杏を「ママ」と呼んでいる。
この呼び方は観ている者に奇妙に聞こえる。なぜ娘が母の「ママ」なのか、反対ではないか、と。
しかし、そこには娘に依存する母と、依存を断ち切れない娘の共依存カプセルが示されている。杏は、母と祖母のヤングケアラーなのである。
親身な刑事との出会い
ある日、杏は覚醒剤使用の容疑で逮捕され、刑事の
「サルベージ」と呼ばれる更生施設には、薬物を断ちたい者たちが集まり、シェア・ミーティングやヨガといったプログラムに参加している。彼ら彼女らのほとんどは、かつて多々羅に薬物で逮捕された人々であり、いまは多々羅の存在を心の拠り所としながら日々の回復に努めている。
このように多くの人々に信頼され慕われている多々羅だが、けっして聖人君子ではない。むしろ、その逆である。しかし、その人間臭さが良い方向に作用し、依存症者たちは多々羅に
多々羅の親身なサポートにより、杏は少しずつ心を開いていき、人間としての尋常な感覚を取り戻す。
母と祖母が暮らす団地から逃げ出し、DV被害女性たちが暮らすシェルターへ避難し、サルベージの自助グループへ通い、介護の仕事に就き、夜間中学で勉強を始めることによって、杏の人生は順調にリスタートするかに見えた。
しかしそこで、多々羅が性加害の容疑で逮捕されるという事件が起こる。
この事件のあとも、作品のなかでは、杏がシングルマザーから幼い息子を押しつけられ慣れない子育てに奮闘したり、その子どもが杏の虐待母によって児童相談所へ送られてしまい、生き甲斐を失った杏は絶望して投身するという悲劇が続いていくのだが、多々羅の性加害事件はこの作品の
だから、この事件を深掘りして論じていきたい。
性加害の多義性
性加害事件の伏線として、まず薬物依存からの更生を目指しサルベージに通っていた女性、
やがてジャーナリスト桐野は
タレコミされたこれらの証拠によると、多々羅が雅に対して暴力的で虐待的な性的関係を強要しているようだった。
喫茶店では目つきの暗い貧相な男がいっしょに現われて雅の横に座った。雅は
「あれ見せていい?」
と男に許可を求め、男は
「いいんじゃね?」
とゴーサインを出す。
その様子から、この男が告発に関して実質的な決定権を持っているようにも見える。
男はおそらく雅の新しい愛人なのだろうが、よくわからない存在として描かれ、作中では名前も与えられていない。
彼の出現によって雅のなかで多々羅が「蛙化」し、それで多々羅を性加害者として訴えることにしたのではないか、という解釈の余地が漂う。
だとしたら、男は雅の前の愛人である多々羅に嫉妬の気持ちもあって、多々羅を性加害者にするために雅を告発に駆り立てたのかもしれない。
しかし一方、男の険しい目つきは、雅が桐野に語るように、たんに多々羅が刑事だから恐れているためとも取れる。
雅には薬物で前科があるので、そういう女が話すことは信用されないのではないか。また、告発する相手は警察官だから、警察によって組織的にもみ消されるのではないか。いや、もみ消されるだけで済めばまだ良いほうで、もっとひどい目に合わされるのではないか。……そんな恐れを、雅も、横に座った男も共有しているから暗鬱な表情をしている、という解釈である。
それは悪いことばかりではない。だからこそ自助グループなどに通って、仲間と声をかけあっていれば、依存症から回復していけるのだろう。
しかし、暗示にかかりやすいということは、自分が何を選ぶか、誰を好きかといった主体的選択も、他者から耳に入れられる言葉で変わっていきやすい、ということである。
「お前はあいつを本当は好きじゃなかったんだ。お前は無理やりやられていたんだ」
と新しい男に耳元でささやかれれば、そう信じこむまでそれほど距離はない。
性的同意とは危ういものだ。
近年では「自己責任」という概念がさかんに批判されるようになってきた。自己責任がないということは、選択をした本人の主体性を否定することにつながる(*1)。となると、性的同意をした女性(*2)の中のいったい何が同意したということになるのだろうか。
*1. このあたりのことに関しては以下の別稿で詳しく考察させていただいたことがある。参考にしていただきたい。
*2. ほんらい「人間」と書くべきだが、あえてここでは「女性」と書かせていただいた。
また、たとえ行為の時点で同意が結ばれても、あとから後悔が起こったり、相手が嫌いになったり、時間とともに心境が変化することによって、評価が変わる可能性も多分にある。
「あの時は同意したけど、いま考えると同意してなかった」
「あの時は『いい』と言ったけど、いま考えると、あれは『いやだ』と言えなかったから」
といった表明が成り立ってしまう。
そして、そのようにいろいろな感情や感覚が混在しているのが人間の心というものかもしれない。
それを本人の主体性の欠如と難じたところで、現代では通用しない。暗示にかかりやすい性質だと診断されれば、なおさらそうである。
そのように考えていくと、はたして雅の多々羅刑事との情交はどのようなものであったのか。……
入江監督は、ここをあえてグレーのまま観客に提示している。
そのため、この作品は観客に対して、多々羅の性加害が提供された証拠によって直線的に思い描かれるような暴力的で虐待的なものではなく、多々羅と雅のあいだにはもっと合意的な成り行きがあったのではないか、という想像をもぼんやりと抱かせるのである。
録音に出てくる多々羅の
「悪いと思う自覚があるなら早く下着になれよ」
という言葉も、それだけを断片として取り上げれば性虐待を想わせる命令だが、じゃれ合った関係の中で発せられたのなら、それはお互い痴情に酔った戯れにすぎなかったことだろう。
性にまつわる状況は、簡潔に表現することがむずかしい。だからこそ、エロティシズムが古代から現代に至るまで芸術家たちの表現欲をかき立てる対象でありつづけるのだろう。
映画でも、古くは黒澤明監督『
逆にいえば、論文やネット記事など、芸術的な叙述が許されない場所や言葉を豪奢に使えない文章では、性加害や性被害はフェミニズムの術語や法令の用語などだけで簡潔に述べられがちだ。
すると、まるで複雑な形状をした立体がスクリーンに投影されて平板な図形に押しこめられるように、奥行きのある事実や事象はすべて捨象されて、単純で明快な構図に還元されてしまう。すると、結果として誤った全体像が伝えられていくのである。
もちろん、この作品のストーリーでは、そもそも多々羅は警察官であったのだから、たとえ雅が
「あの時は同意していた」
と主張したとしても、それは彼が職務中に立場を利用して更生者と及んだ性行為ということになり、彼の行為は完全に正当化されるものではない。
それがわかっているから、桐野から問い詰められたときに多々羅はノーコメントを貫く。これで多々羅は性加害者として逮捕され、彼が主導してきた回復施設サルベージの活動も休止へ追いこまれるのである。
折しも2020年、コロナ禍が始まり、非正規雇用であった杏は仕事を失い、せっかく通い始めた夜間中学も休校となる。杏はサルベージという行き所を失い、多々羅という心の拠り所もなくし、社会で孤立していく。
そして子育てという生きがいを母親に取り上げられ、自殺してオシマイという身も蓋もない結末へつづいていくのである。
安っぽい希望は要らない
「この作品には希望がない」
という感想に立ち戻ってみよう。
後日談として描かれる最後のシーンでは、
「ぼくがあの記事を書かなければ、杏は死ぬことはなかったんでしょうか」
と桐野が後悔の涙を流す。
「それでも杏は薬物はやめられた。たいていの更生者はそういう時、クスリに戻っていくんだ。でも杏はやめられたんだ」
と拘置所のなかで多々羅はつぶやく。
また杏によって一時的に育てられていた子どもは、やがて元気な姿で実母のもとへ返される。
監督は、こういった回収によって作品を希望につなげて終わろうとしているのかもしれない。しかし、これらの希望はどうも安っぽい味がして、それまでのリアリティ溢れる展開に比べると色褪せて仕方がなかった。
薬物依存症者は、薬物に戻っていくよりも死んでしまったほうがよいのだろうか。
私はそう思えないのである。
たとえば、ひきこもりも一種の依存症と見なされることがある。いうなれば「お布団依存症」である。
布団やベッドという母親の子宮の代替物にひきこもり、自分を傷つけるものが
薬物やアルコールの依存症者が自らの依存を正当化するためにありとあらゆる理屈をひねり出すように、ひきこもりもまた、ひきこもりを正当化するありとあらゆる理屈をひねり出す。……
このように見れば、たしかにひきこもりも依存症かもしれない。
しかし、依存は命に替えても断たなければならないものだろうか。
少なくとも私は、
「あの人は死んでしまった。でも、ひきこもりには戻らなかった」
などという言葉を希望の結末としてつぶやく気にはなれない。
むしろ、
「あの人は死を選ぶことなく、ひきこもりとして生き延びている」
ということを賞揚とともに希望として伝えたい。
絶望によって見えてくる希望
「映画でも文学でも、最後は希望に満ちたハッピーエンドで終わるものがよい」
という作品観を私は持っていない。
ハッピーエンドばかり見ていたら、希望のない自分の人生がみじめに見えて仕方がない。
映画でいえば、デンマークの巨匠ラース・フォン・トリアーの作品などはいつも絶望で終わる。
ところが、救いようのない絶望で終わるがゆえに、まるで暗闇に目が慣れて新しい光の広がりを見いだすように、観客は不思議な希望をお土産に持たされて日常へ帰っていくのだ。
いわばラース・フォン・トリアーの作品から絶望を取ったら希望がないのである。
文学では、カフカやモーパッサンなどがこれに当たる。
コロナ禍の始まった2020年は、まだ今ならば、皆が生々しく昨日のことのように憶えているのではないか。店々は閉まり、街には誰もいなくなり、人と会うことが禁じられ、催事はおこなえず、窒息させられたあの日々。これまで知っていた世界がどんどん変わっていく恐怖と不満。
そして今年2024年、まだ夏には一時期コロナ禍の復活がささやかれたが、どうやら大したことにはならず終息したかに見える。そういう年にこの作品が発表されたのは幸いだった。
本作の結末を観て、人はコロナ禍を経て生き残った自分の今の生活を見つめなおすかもしれない。また、あらためて人と人のつながりというものを考えるかもしれない。杏の人生を想い、自らの環境に感謝するかもしれない。
それが私たちがこの作品から得られる希望なのではないだろうか。
(了)
<著者プロフィール>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOTの公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
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