文・ぼそっと池井多
「ひきこもりの考古学 第1回 慶応入試疑惑事件」からのつづき
前回までのあらすじ
大学受験。私立への合格通知が来たのに、それをまるで裏口入学だったかのように話の筋を変えてしまった母。そのような疑惑を払拭するために、国立大学の入試の結果が待たれた。そして、その日がやってきたのだが……。
合格発表が暗転して
「空は曇っておりますが、ぼくは晴れました」
東京・国立市の中心を走る桜通り。
一橋大学の正門近くの電話ボックスから、私は名古屋の実家にそう電話をかけた。
受かっていたら「晴れ」、落ちていたら「雨」と符牒が決めてあったのである。
携帯電話やスマホといったものは存在せず、外で電話をかけようと思ったら、公衆電話を見つけなければいけなかった時代だ。
1982年3月20日のことである。
受話器の向こうから母が命じた。
「そう。じゃあ、寄り道しないで早く帰ってらっしゃい。早く!」
東京駅へ向かい、新幹線「ひかり」(*1)の自由席に乗り、静岡に差しかかるころには、すでに外は夕闇に包まれてきた。
降りてくる夜の
「……さあ、母はいったいどうやってぼくに謝るだろうか。」
母と私の力関係が、今日からまるでオセロゲームで角を取った時のように逆転するはずであった。
そのために私は、「死ぬほどの苦しみ」という言葉がけっして誇張ではない年月を乗り越えて、ここまでがんばってきたのである。
私は母の虐待を原因とする強迫性障害に日々、苦しんでいた。
一回や二回の土下座ではすまない気がした。
母のエロスの実現
当時「教育ママ」と呼ばれていた教育圧力の高い母親は、関東であれば、まるで岬めぐりでもしているように「トーダイ! トーダイ!」と言っていたものである。
ところが、私の母は教育圧力の高さでは他の母親たちに負けないはずだが、私に「東大へ行け」と言ったことがなかった。
まだ私が幼稚園へ行くか行かないかのころから、
「お前はね、一橋大学へ行きなさい」
と言っていたのである。
私はどんな所かわからないままに幼児の想像力で、本土から一本の橋が渡されている島にある大学を思い描いていた。
父は工業高校を卒業し、中小企業の平社員であった。社宅のせまい6畳間で、父のいる後ろで母は私を懇々と諭すのであった。
「お前はお父さま(*2)のようになってはいけませんよ。
学歴はない、収入は低い、地位もない。
こんな人になったら、もう人間、オシマイよ。
だからね、お前は一橋大学へ行きなさい」
*2. お父さま:私は幼いころから父母を「お父さま」「お母さま」と呼ぶようにしつけられた。8歳下の弟は「パパ」「ママ」と呼ぶ。
私たちに背中を向けた父は、テレビに見入ったふりをして、何も言わなかった。
私が成長するにつれて、母は何事につけ私に本当のことを話さなくなったが、まだ小学生だったときに、母がこんな話をしたのを憶えている。
「結婚する前、お母さんはね、東京女子大に通っていて、東大とか早稲田とか一橋の男の子たちとサークルをやっていたの。
東大生は頭はいいけど、身体が弱かったり、常識がなかったりして、あまり良い人いなかったわ。
早稲田は、ほら横浜の伯父ちゃん(母の兄)が早稲田でしょ、だからあまり知られるのもなんかいやで。
そこへ行くと一橋の人っていうのはね、頭は今一つなんだけど、常識的で良い人ばかりだったわ」
ようするに、母は一橋に好きな男がいたのではないか。
そしてあの性格だから、相手にされなかった。
そこで、これ見よがしに学歴のない父と結婚して見せたのである。
息子の一橋大学への合格は、母のエロスを満たす行為だったのだ。
そう考えると、すべてに説明が通った。
新幹線は、豊橋を過ぎた。
後ろへ飛び去る無数の灯りを眺めながら、私は独り考えつづけた。
「……母に望まれる大学に合格した今日、ぼくは母に課せられた人生のノルマを果たした。これですべてが変わるはずだ。
小学生のとき、ぼくは大学に合格したら、そこで自殺しようと考えていた。
なぜならば、義務を果たしたら、もう母に責められずにこの世界から逃げる権利を得ると思ったからだ。それ以上の生きている苦しみを味わいたくなかったからだ。
でも、合格した今、ぼくはこれで自殺しようとは思わない。だって、これからぼくの人生が始まりそうだからだ。
慶応合格のときは、私学で学費が高いから、母はあんなこと(*3)を言ったのかもしれない。
*3. 「ひきこもりの考古学 第1回」参照
今回はそうは行かないだろう。
一橋は国立だし、そもそも母の昔からの望みなのだから、叶えてやったぼくに母はいくら感謝してもしきれないはずだ。それだけではない。母は、いままでぼくにやってきたことをすべて謝ってもらわなくてはならない。
母とぼくの力関係は、これを機に逆転しなければ嘘だと思う。」
夜の車窓に映る自分の顔を眺めながら、私は内から泉のように込みあげてくるものが、合格の喜びなのか、それとも怒りなのか、判別がつかなかった。
祝宴で母が放った第一声
お祝いをしてやるというので、名古屋駅から母に指定された焼肉屋へ直行した。
私の正面に母が座り、その横に父、私の右隣には小学校四年生の弟が座った。
私のグラスには、はじめて親公認でビールも一杯だけ注がれた。
私が幸福だったのは、この瞬間までだったかもしれない。
乾杯が済むと、母はさっそく口を開いた。
「さあ、お前も一橋に入ったんだから、明日から英語、勉強しなさい」
「は?」
私はあっけに取られた。
そんな私の様子を押し切るべく、母はこう続けた。
「だってぇ、何だと思っているの?
お前みたいな英語力で、一橋の授業はついていけるわけないでしょ。
あそこ、海外駐在の息子さんとかたくさん行ってるところで、英語のレベルなんかすごいんだから」
私は言葉を失った。
私は、箸もつけないまま、言うべき言葉を頭の中で高速度で検索していた。
しかし、怒りはあまりにも熱せられて、言葉という型に鋳造して発することなどできなかった。
そのぶん私の母をにらむ眼が、刃物のような光を帯びたらしい。
「な~に、その眼は」
私の眼に気づいた母は気色ばんだ。
横で空気を察知した父は、口に運ぼうとしていた焼肉をあわてて取り皿に戻し、こちらへ顔をあげて、
「そうだ。なんだ、親に向かってその眼は」
と付け加えた。
そういう時に、そういう応援を出しておかないと、あとで母に何と言って責められるかわかったものではないから、父はそうしているのであった。
私が答えるわけもなかった。
私の沈黙につけこむように、母は一転して、下からナメクジが這いあがってくるような、いやらしい口調でこんなことを言い始めた。
「あのね、お前は知らないかもしれないけど、お前みたいな子を一橋へ入れてやるのに、どんだけお膳立てが必要だったと思ってるの。
正隆ちゃんにも頭を下げて、頭下げてもらって。
どんだけの人がお前のために汗水垂らしたと思ってるの。
誰のおかげで受かったと思ってるの」
正隆ちゃんとは、前回「第1回」にも登場した、教育雑誌の編集長になっていた母の従弟である。
これは母が暗に、私の合格は私自身の力によるものではなく、親戚の正隆おじさんを通じて母が工作してあげた裏口入学のおかげだ、ということにしてしまおうという
前回も述べたように、ふつうの家は、たとえ裏口入学であっても、正規のルートで合格したことにするものだろう。
それが、私の母にかかると逆なのだった。
正規のルートで合格していても、母はそこに自分の存在価値を差しはさみ押し売りするために、母が裏口から合格させたことにしてしまうのである。
これによって私は、いつも自分の達成を母に没収される人生を送っていた。
おそらく母は自分が口走った「明日から英語を勉強しなさい」という言葉を支えきれなくなり、会話を打ち切りたくなったのだが、あくまでも「勝ち逃げ」で事をおさめたいがために、こんな話をその場でつくりあげたのだと思われる。
先日、ある政治家が、
「女はいくらでも嘘がつけるから……」
と発言したとかしないとかでマスコミが騒がしくなった。
「女は」などと主語を一般化するのは女性一般に対して失礼極まりないが、少なくとも私の母に関しては「いくらでも嘘がつける」女であった。
しゃべっているそばから、嘘話をつくっていくのである。
私ははじめて口を開き、吐き捨てるように言った。
「ありえない。いくらぼくら一族でいちばん出世してる正隆おじさんだって、国立大学や文部省まで動かす力なんてあるわけない(*4)。
こないだ、ぼくが慶応に受かったときも、お母さまはなんか同じようなこと言ってたよね。あの日は黙っていたけど、今日ばかりはそんな口から出まかせに乗らないからね。『はい、そうですか』なんて、頭下げるわけにゃいかないからね!」
*4. 国立大学や文部省……:当時は、国立大学法人といったものはなく、現在の文部科学省の前身である文部省が全国ほとんどの国立大学を管轄していた。
すると母は、高飛車に巻き返しを図った。
「フン、わかるもんですか。
お前なんかに社会がわかるもんですか。
何もわかってないんだから、『ありがとうございます』って頭下げて、親の言うことを黙って聞いてりゃいいのよ!」
「社会がわかっていない」という母の言葉は、たしかに私の弱点を突いていた。
まだ社会に出たことのない19歳の青年にとって、社会というものは、いろいろな人から聞けば聞くほど、裏で何が行なわれているかわからない、底知れない闇を持った恐ろしい空間だった。
それでは、母自身はそんなに社会がわかっていたのだろうか。
塾を経営しているといっても、そんなに深く社会と関わっていたわけでもない、政治家でも何でもない一介の市民であった母という人が、とくに社会に精通していたとは思えない。
しかし、母は私より26年長く、この世に生きていた。
その長さの分だけ、私よりも社会のことを知っているとは考えられる。
私が母より先に生まれることはできないから、この差ばかりはどうにもならない。こういう「どうにもならないもの」を、母は支配の道具として使うのがうまかったのである。
「万が一、母の言っていることが正しかったらどうしよう」
どこまでも透明に澄みわたった湖に、たった一滴だけ落とされた墨汁のような不安を、私は拭い去ることができなかった。
大学へ通うために、実家を出てからも、母はずっと暗部のように私の中に棲みつづけ、実家の中で精神的虐待を受けているのと同じになった。
こうして大学への合格も、私にとっては、大人としての自己を確立する自信の構築につながる機会とはならなかった。
もし「ひきこもりである」という事実が、社会的に大人になっていないということであるならば、母による度重なるこうした去勢が、私が大人になるのを疎外する遠い原因になったといえる。
また、人生への解放を夢みて大学合格の知らせを持ってきた私に、母が開口一番ぶつけた
「これからは勉強しなさい!」
という言葉によって、伸ばしきったゴムがついに弾け飛ぶように、私の中で何かが切れた。
必死にフル・マラソンを走り切った人が、精も根も尽き果ててゴールに飛びこんだところが、またしても新しいマラソンが始まったと告げられたようなものであった。
「これじゃあ、終りがない。
ぼくの人生はいったいいつ、始まるんだ?」
大学へは入ったものの、私はなにやら馬鹿馬鹿しく思えて、ほとんど授業に出なくなった。
そして4年後、大学卒業を控え、就職先が内定すると同時に、私はひきこもりになったのである。
ぼそっと