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「あのとき息子が母に求めたもの」 ひきこもりの考古学 第4回

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かつて私の通学路だった道。アパートのあった場所から小学校を見る。
当時はもっと路面はデコボコで、クネクネと曲がっていた。
半世紀近くのあいだにまっすぐに整備され、きれいに舗装されていた。
撮影:2021年

 

ひきこもりの考古学 第3回」からのつづき・・・

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文・写真・ ぼそっと池井多

 

私たちは、父の会社の社宅で暮らしていたが、母はそこで子どもたちを集めて塾を開き、父の給料の3倍もの月収を得ていた。

これが社宅の妻たちの嫉妬を買い、夫たちを通じて会社の人事部に垂れこまれ、1973年、父は東京本社から名古屋営業所へ左遷となった。

こうして私は、小学5年生から名古屋の小学校へ転向することになった。私にとっては2回目の転校である。

私たちにとって、名古屋は親戚も知己もいない不慣れな土地だった。

そこへ加えて母の収入がなくなったので、私たちはとたんに貧しくなった。

母は心細くて仕方なかっただろう。

 

よく貧困は人生を悲劇にした理由として語られる。

ところが、私はあまりそう思わない。

小学5、6年生の日々は、私の人生で最も暗黒な2年間だったが、その理由は貧困とはちがう所にあったと考えている。

 

東京からやってきた転校生

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1973年、名古屋へ転居した時に住んだアパート(2階隅黄線枠)
2010年ごろ取り壊され現在はもうない。 撮影・1999年

 

転校前、千葉県松戸市に住んでいたころは、家から学校まで歩いて40分だった。

運動しない私にとって、この距離は貴重な運動になっていた。

また、誰にも監視されずに独りで道草を喰える時間が、良いストレスの発散になった。

 

しかし、名古屋へ来てからは家から小学校まではたった4分だった。

貧乏アパートの台所に立つと、窓から通学路が始まりから終わりまで眺められ、校門を出てくる児童たちの顔が識別できるのである。

これでは運動にはならず、台所から母に監視されているので道草も喰えなくなった。

たちまち私は、風船に空気を吹きこむように、プーッと膨らんで太っていった。



肥満児はいじめられる。

ただでさえ私は、同年代の子たちと話が合わなくて千葉県の学校でもいじめられてきた者である。

そこに加えて肥満児とくれば、これほど美味しい好餌はない。

他の男子からはデブだのブタだのと呼ばれ、女子からは嘲笑の的となった。

 

さらに、「東京から来た」というのがいけなかった。

今はどうか知らないが、当時の名古屋は「巨大なる田舎」と呼ばれ排他的な風土があった。とくに東京に対するコンプレックスが強かった。

横浜に生まれ、千葉県を転々として育った私は、「東京の人間」になったことはなかったのだが、名古屋の人たちからすると、なぜか私たちは「東京の人間」になるのであった。

 

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当時のアパート。この窓から通学路が見渡せた。撮影・1999年

 

そこで、5年6組のクラスメイトたちが話している名古屋弁を話せば、少しは仲間に入れてくれるだろうと思い、私は名古屋弁を真似るようにした。言語を習得するのは、幼いころから早かった。

しかし、すると今度は家で母が、

「なあに、そんな話し方しちゃって。まるで名古屋人みたいに」

と言って猛然と嫌うのであった。

母がこう言うのにも理由があった。

 

カラフルなおばさんたちに囲まれる

私たちが住む貧乏アパートは2階建てで、一階に6戸、計12戸の世帯が入っていた。間取りは2DKなので、独り者は住んでいなかったようだ。

住人の社会的な階層はアパートの造りに比例していた。正式な結婚をしていない家庭が多かった。

 

他の部屋の女性たちは、男を朝に仕事場へ送り出したあとは、カラフルな寝巻のような服のままアパートの前の駐車場に出てきて、そこで一日じゅう立ち話をする。

立ち話の内容は、生活の愚痴、他人の噂話、下ネタ、芸能ネタの4つの話題に限られ、それ以外の話は出てこなかった。


「近所づきあいをしなければ、地域の情報が入ってこない」

と母は立ち話に参加してみたが、たちまち我慢ができなくなった。

母にしてみれば、1950年代に4年制の有名女子大を出た知識人女性として、関東ではかなりの収入を得ていたのに、名古屋へ引っ越したとたんに知識も実績も使えなくなったわけである。

そのため、まるで情報価値を感じない近所の女たちの立ち話につきあうことが無為に感じられてならなかった。

そこで母は、この近所のおばさんたちを「名古屋人」と呼んで軽蔑したのである。

 

たしかに私も、ある日の体験からこのおばさんたちには良い印象を持たなくなった。

私は小さいころから母に近所の子どもたちと遊ぶことを禁じられてきたので、スポーツ音痴として育った。とくにプロ野球やサッカーリーグとなるとてんでわからない。

あるとき、チューキチだかチューニチだかいう名古屋の野球チームがどこかの運動会で優勝したらしく、アパートのおばさんたちが興奮した面持ちで駐車場に出てきて、一日中そのことを自慢げにしゃべっている日があった。

私が学校から帰ってきて通りかかると、おばさんたちは群れをなして私に詰め寄ってきて、目を好戦的に輝かせながらこう責めるのである。

「あんたは東京もんだからどうせキョジンだろうが、名古屋の人間だってやるときにはびちーっとやるんだでよう!」

 

私は、なぜ怒られているのかわからない。

「ボクが何か悪いことでもしたのでしょうか。だったら、ゴメンナサイ」

と小さくなっていき、おばさんたちの囲みの輪が崩れた隙をくぐって逃れ、急いで階段を駆け上って家に帰った。

あとから知ったことだが、あの怖いおばさんたちが言っていた「キョジン」というのは、なにやら東京にある野球チームのことらしいのである。

しかし、私はそんな野球チームに入ったことは一度もないのだ。

なぜ私が怒られなくてはならなかったのだろうか。

それは長らく謎として残った。

 

帰宅途中を襲われる

いじめは、いじめられっ子になってしまうと、

「あいつは、いじめていい奴」

という共通認識が加害者予備軍の間に広がっていく。

それが恐ろしい。

 

私の場合もそうであった。

名前も知らず、言葉も交わしたこともない隣のクラスの児童まで、いつの間にかいじめてくるようになった。

 

ある日、私が学校を出て帰ろうとすると、前方に5年5組の章夫が自転車であらわれた。

章夫は、私よりも背は10cm以上高く、体格のがっしりした大きな児童だった。

 

章夫は、私が一人で下校しているのを見るとニヤリとし、たちまち草食動物の仔を見つけたライオンのように近づいてきた。

そして私の行く手を自転車でふさぐ。

 

私はそこをよけて、進もうとした。

章夫は今度はそちらをふさいで、私を妨げる。

私はよける。章夫はまた妨げる。

そしてとうとう章夫は自転車の前輪を私にぶつけてきた。

私のズボンは泥だらけになった。

 

「なんでそんなことするんだ!」

私は大声で問うた。

いま考えれば、いじめる者にいじめる理由を訊くのは愚問である。

いじめる者は、いじめることが快感だからいじめるだけなのだ。

いじめることがいじめる者にとって優位性の確認の手段となり、軽い陶酔状態に至れるからいじめるだけである。

いじめる理由はあとからいくらでも作り出せる。

 

章夫は武闘派だったので、私の問いに対して言葉で答えようとはせず、フッと軽い嘲笑を顔に浮かべただけで受け流し、自転車を一度後ろに下がらせて、反動で車輪ごと私にぶつかってきた。

私は地面に突き倒されて、ますます泥だらけになった。

章夫はそのままどこかへ自転車で走り去った。

 

道路交通法で自転車は車両扱いだから、これは立派な轢き逃げ事件である。

しかし、そんなことを言っても仕方がない。

今どきのツイッター・フェミニストが聞いたらたちまち噛みついてくるであろう、「男の子だから」というジェンダー意識で私はかろうじて自らを支え、泥を払ってヨロヨロと歩き始め、なんとか自宅のアパートへ帰りついた。

 

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「ここだ。」半世紀の時を隔てても、私は章夫に自転車で倒された地点を正確に憶えていた。当時のような泥や砂利はなく、舗道になっていたが、マンホールの位置や周りの家の敷地の境界線から、私は地点を特定できたのである。撮影・2021年

 

私を迎えた母の言葉

「ただいま」

と玄関を開けると、そこは台所であり、いつものように母が立っていた。

私は、今にも母がこう言って怒りだすのではないかと予想した。

「どうしたの、その泥だらけの格好は! 

また洗濯しなくちゃいけないじゃない!

いつもそうやってお母さんの仕事を増やすことしかしないんだから!」

 

母が怒り出す前に泥だらけになった理由をさっさと早く釈明しなければならない。

しかし、いじめられっ子がおそらく皆そうであるように、自ら「いじめられた」とは言いたくない。

そこで精いっぱい強がって、こう言った。

「いや、ちょっとそこで、……ちょっとあってね」

 

すると母は言った。

「見てたわよ」

 

母は台所の窓から私の通学風景を見ていたのだった。

母のひと言を聞いて、私は一瞬、安堵した。

「そうか。お母さんが見ていたのなら、安心だ。

ぼくがどんなひどい目にあったかを実際に見てたんだから、今さら何も説明しなくてもいい。

それどころか、

『いじめられて可哀想に』

と、ぼくをいたわってくれるのではないか」

そう期待したのである。

 

ところが、母は続けて言ったのはこんな言葉であった。

 

「お前が悪い」

 

私は耳を疑った。

母へ、怪訝な顔を向けた。

 

私のその表情を見て、母はひるんだのか、自らの言葉を引き取ってダメ押しするように、さらに語気を強めて言った。

 

「お前が悪い。

 お前がみんな悪い。

 お前がちゃんとしていれば、あんなことにはならないはずだ。

 あんなことになったのは、お前がちゃんとしてないからだ。

 ぜんぶお前が悪いのよ」

 

私の内部で、何かが瓦解して沈んでいった。

 

 

私が求めていたもの

後年になって虚栄や強がりを脱ぎ捨てたときに、私はわかった。

あのとき、私の内部で瓦解したものは何であったか。

 

私は、母になぐさめてほしかったのだ。

母に、おふくろをやってほしかったのだ。

私が打ちひしがれ、弱っているときに、世の中の他の母親のように、子どもである私を抱きしめ、なぐさめ、励ましてほしかったのだ。

「お前は悪くない。

お母さんは見ていた。

お前はぜんぜん悪くない。

つらいだろうね。でも、お母さんだけはお前の味方だからね。

家族で助け合って、この冷たい街で生きていこうね。

家族でがんばっていこうね」

 

……そんなことを言ってほしかったのだ。

あのとき私の内部で瓦解したものは、家族愛への期待であり幻想であった。

 

母も、自分がアパートの他の女性たちから疎外され、無為な日々をすごすことを余儀なくされ、怒りがたまっていたのだろう。

そんな母にとって、家庭のなかにいる私は、格好のストレスの捌け口であった。

こうして見知らぬ街、名古屋で始まった私の小学校高学年の2年間は、もともと病んでいた強迫性障害も極度に悪化し、人生で最も暗黒な年月となっていった。

 

家族が危機を迎えたとき、家族は団結して危機を乗り越えるのが望ましい。

しかし、我が家の場合は、そういうときに団結や連帯はできず、家族の中も一般社会と同じくホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」の舞台となった。

こういう経験をした私は、後年ひきこもりを始めたり自殺を考えたりしたときに、家族には助けを求めることなどまったくできなかった。

 

・・・「ひきこもりの考古学 第5回」へつづく

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<プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。東京郊外のゴミ部屋在住。生活保護受給者。孤独死予備軍。犯罪者予備軍。エロオヤジ。精神科医 齊藤學(さいとう・さとる)によって「今までで一番悪い患者」に認定される。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2021年11月、ある特定の人物がVOSOT(チームぼそっと)の公式ブログの記事の送信防止措置を株式会社はてなに申立て、公開できない状態が続いている。著書に世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

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