~ ご注意 ~
この記事では、美人という語句が出てきます。
読みたくない方は読まないでください。
「ひきこもりの考古学 第4回」からのつづき・・・
文・写真・ ぼそっと池井多
美人教師に嫌われる
今はもう言ってはいけない言葉になったようだが、小橋先生のような人を「ビジンキョウシ」というのだと、私は早熟なクラスメイトたちから教えられた。
小橋先生は、私たち5年6組の教室と同じ階にある4年2組の担任だったが、書道の時間だけ私たちのクラスへやってきて習字を教えていた。
そのかわり、私たちの担任である大矢先生がその時間に4年2組へ行って体育を教えるのである。
中学生の姉がいたり、自身もすでに身体が大人になりかけていた早熟な男子児童たちは、この美人教師の来る時間が近づくと騒がしくなるのだった。
いっぽう、そういう面では著しく精神の発達が遅れていて、小橋先生のいったいどこが「ビジン」なのかさっぱりわからない私は習字の時間が嫌いであった。
小橋先生も私という児童が嫌いであることは、彼女の態度のあちこちから感じられた。
なぜ私を嫌いなのだろうか。
考えるまでもない。答えは明らかだった。
私が頭でっかちな肥満児で、やることなすことがダサかったから、ということもあるだろうが、何といっても私が字を書けなかったからである。
習字を教えているのに、字を書けない児童は厄介ものでしかない。
字が書けなかった私
話を進める前に、私が持つある性癖を告白しなければならない。
私には幼いころから今に至るまで、言語に対してフェティシズムがある。
遠い異国の言語や見知らぬ文字を眺めているだけで、他につまみは何もなくても、ウットリと独り想いをめぐらせながらしみじみと酒を呑み楽しむことができる。
たとえば、私の昨晩のつまみはこれであった。
そんな変態性癖を持つ私であるから、幼稚園に入るまでには、ひらがな・カタカナ・数字はもちろんのこと、ヘボン式ローマ字と簡単な英語は読んでいた。
小学校へ上がるまでには、小学校6年生までに習う当用漢字はすべて習得し、小学校に入ってからは父の本棚にあった角川の漢和中辞典を熱読して「鬱」だの「麤」だのといったゲテモノ的に画数の多い漢字を好んで憶えていった。
だから、小橋先生が小学5年生の書道の授業で教える漢字を私が知らないわけがない。
ところが、前回に詳しく述べたように、東京から名古屋へ引っ越してから強迫性障害がひどくなり、書字障害という症状が出るようになったため、思うように字が書けなくなったのである。
ちゃんとした字を書こうとすると、
「それを書くと、お前が恐れていることが起きるぞ」
という強迫的な妄想が生まれる。
だから、書いている文字にわざと余計な点を打つ。
たとえば「井」という字ならば「丼」と書かないと気がすまなかった。
すると、それはすでに「イ」ではなく「どんぶり」だから、字としては間違えていることになる。
私が恐れているのは、母の死という概念だった。
「お前が言うことを聞かないと、お母さん死んでやるからね」
などと2日に1回は母に脅かされているうちに、母の死という概念が私の心を奥深くまで恐れさせ、病変させていたのである。
そんな字を書いていたものだから、たとえば国語のテストであれば、100点満点で20点ぐらいしか取れなかった。あとは、答えは合っているのだが、おかしな字が書いてあるのでバツになるのである。
教員たちは職員室で、
「あの子は前の学校では成績が良かったそうだが、それにしてはなぜ簡単な漢字をまちがえるのか」
「いや、これはわざとまちがえているとしか思えない。反抗期が始まっているのかも」
などと訝っていたようである。
まだスクール・カウンセラーなどがいなかった時代、
「この子は心を病んでいるのではないか」
と疑って救いの手を差し伸べてくれる教師は一人もおらず、容赦なく私にはバツだらけに採点された答案用紙だけが返ってきた。
そして、毎晩夜中の2時まで母に私が中学受験勉強を強いられている事実を知ってか知らずか、
「こんな点数じゃダメじゃないか。もっと勉強しろ! お前はやればできる子だから」
と担任の大矢先生は私を諭すのであった。
そんなある日、知能検査があった。
重ねて描かれている積み木の総数を推測したり、同じ記号どうしを線で結んだり、まるで幼児がやるような他愛ない問題ばかりがならんでいた。
こういう問題を解くときにも、私の強迫症状は顔を出し、
「簡単な問題だからといって、そんな調子に乗ってすんなりと答えを書いてはいけない。そんなことをしたらお母さんが死んでしまうぞ」
というストップがかかった。
症状が起こると、私はもう勝てなかった。
天王寺の謎
私たち5年6組の教室は新校舎の3階にあり、いちばん近いトイレに行こうとすると、どうしてもその隣にある4年2組を通らなければならなかった。
美人教師、小橋先生が担任する学級である。
ところがある日、私がトイレから出て5年6組へ帰ろうとすると、4年2組の児童たちがいっせいに廊下側の窓から顔を出して、
「テーノージ! テーノージ!」
と私の方へ向けて叫んできた。
はじめ私は、彼ら彼女らが「
私は大阪へ行ったことはなかったが、天王寺という地名は知っていた。
―― 誰か、大阪から転校生でも来たのかな?
と思ってあたりを見回してみたが、そこには私しかいない。
どうやら4年2組の児童たちの
私が転校生であるという事実は、この学校では広く知られていた。
これは、もしかしたら私が天王寺から来た転校生だと思われているのではないか。
そう考えた私は、彼ら彼女らの誤りを正してやろうと、
「ちがうよ。ぼくは千葉県の松戸から来たんだよ」
とその子たちの方へ向き直って言ってみた。
私の言った意味が伝わったのか伝わらなかったのか、4年生たちはどっと笑った。
やがて、私も彼ら彼女らの意味するところをまったく理解していなかった事実を知ることになる。
彼ら彼女らは私に向けて「天王寺」ではなく「
低能児批判、始まる
数日後、私は4年2組の中でも良識派の少年である長谷川君とぐうぜん帰り道がいっしょになった。
そこで、私は驚くべき新事実を知らされたのである。
事の発端は、先日行われたあの知能検査であるらしい。
検査の結果、 IQ が 75 以下だと「低能児」と呼ばれるのだという(*2)。
それで私の IQ は、テスト結果から 72 と算出されたとのことだった。
*2. 現在は「低能児」という呼称は廃止されており、IQ が 50 から 70 を「軽度知的障害」と呼ぶようになっている。
担任の大矢先生は、各自の結果を児童本人たちに知らせる前に、授業を担当している小橋先生と情報共有した。
個人情報という概念がなかった時代、小橋先生はそれを自分の学級でこんなふうに話したのだった。
「ほら、先生が習字を教えている5年6組に、ぼそっと池井多というデブの子がおるでしょ。
あの子、頭わるいのよ。
こないだ5年生が知能検査をやったら、あの子は IQ が 72 で低能児だったんだわ」
4年2組の児童たちは、どっと笑った。
おそらく「低能児」の意味するところも理解しないままに笑ったのだろう。
「あのデブの上級生、頭わるいんだと。いじめてやろまい(*3)」
という暗黙の合意が形成され、私がトイレへ行くため彼ら彼女らの教室の前を通るたびに、
「テーノージ、テーノージ!」
と囃し立てるようになったのである。
*3. 「やろまい」という名古屋弁は、名古屋周辺だけでなく遠州弁として浜松あたりまで用いられるものだが、標準語の「やるまい」(=しないでおこう)とよく間違えられるけれども、正しくは「やろう」という意味である。
4年2組の暴徒派児童による「低能児批判」が始まってから、私は彼ら彼女らの教室の隣にあるトイレには怖くて行けなくなり、わざわざ別の校舎や別の階のトイレへ長い時間かけて通うようになった。
そのため、他の子は5分もあればトイレへ行って帰ってこられるが、遠距離通勤する私だけはどうしても10分以上かかる。
とくに、とちゅうの廊下が混雑して渋滞していたりすると、10分間の休み時間のあいだに教室へ戻ってこられない。
すると今度は、
「
などと5年6組の男子が想像でものごとを決めつけ、女子がその捏造された事実を前提として、
「キャア、きたない!」
と眉をひそめて嬌声をあげ、いじめの口実がまた一つ追加されていくのであった。
学校は殴られにいく場所
家では、相変わらず母が私に毎晩、夜中の2時まで中学受験勉強を強いていた。
「四当五落」(*5)などともっともらしく唱えられている時代だった。
それでなくとも、母は睡眠時間が短くても平気な人で、だいたい深夜2時ぐらいまで何か仕事をしていたため、私も父も、家庭内でいちばん権力を持つ母を恐れて先に寝るわけにはいかなかったのである。
*4.四当五落(よんとうごらく)「受験生は、一日の睡眠時間は4時間になるほど勉強すれば志望校に受かるが、5時間ならば勉強不足で落ちる」という意味。
いっぽう、学校からは担任の大矢先生から「自由研究」という宿題が出されていた。
「何でも自分が好きなことを調べてノートに書いていく」という宿題である。
ここだけ聞くと、1970年代の公立小学校にしては先進的で、児童の自主性を重んじる教育のように思われるかもしれない。
たしかに、毎日の予習・復習を強いられたり、たっぷりと宿題のプリントを渡されたりするよりは、おおらかで良い教育方針であった。
しかし、そこで賞讃するのは早い。
「自由研究」は毎日やっていく必要はないが、毎週月曜日の1時間目に「ノート検査」という時間があり、大矢先生が順番に児童の机を回って各自の自由研究のノートをチェックしていく。
そのときに1週間につき3ページ以上、何か「自由研究」をやったという形跡がノートになければならない。3ページに満たない児童は、大矢先生が竹の棒で頭をなぐって罰を与えるのである。
その竹の棒は、どこで手にいれたのか、直径2センチほどの頑丈な造りをしており、周りには丹念にワックスもかけられていた。
黒板をさす指示棒としてだけでなく、児童の処罰、打擲までこれ一本で行う、大矢先生にとっては文字通り「
*6. 教鞭:「鞭(ベン)」の訓読みは「むち」
1970年代、文部省が全国の公立学校に布告していた指導要領では、すでに「児童生徒への体罰は好ましくない」といった条項が書かれていたはずである。
しかし、私が知るかぎり千葉でも名古屋でもそれはタテマエにすぎず、教育現場で忠実に守っている教師は少なかった。
教師が児童生徒を殴るのは当たり前の時代だったのである。
けれども、さすがに大矢先生もこんな竹の棒で思いっきり児童の頭を殴りつけるようなことはしなかった。そんなことをしたら頭蓋骨が割れて死ぬだろう。
棒を振り下ろす幅はせいぜい5cmくらいである。
それでも、その竹の棒でゴンと頭を殴られると、たん
今ならば確実に傷害罪で、懲戒免職かもしれないが、当時はまったく問題にならないどころか、むしろこういう教え方をする教師は出世していった。
大矢先生は、私たちが小学校を卒業してから、やがてヨーロッパのある国の日本人学校へ文部省から派遣されることになる。
私も竹の棒で殴られるのはいやだったので、なんとか自由研究のノートを1週間につき3ページ以上は埋めていきたかった。
内容は、何でもいいわけだ。
父が取っている新聞からどうでもいい記事を切り抜いて貼りつけたり、年鑑や図鑑からもっともらしい図表を抜き出して書き写していけば、それが「自由研究」として通用し、「自主的に勉強してきた」ことになる。
それは私にとって造作もない作業であり、おそらく30分もあれば、1週間分は埋められる。
しかし毎日、夜中まで母にしぼられている私には、たったそれだけのことに割く時間も余力もなかった。
終わると、もはやそれ以上のことをやる力は一滴も残っておらず、どんな小さなこともやる気が起こらなかったのである。
そのため私は、いつも月曜日のノート検査のときに、
「お前は勉強をしていない!」
と大矢先生に竹の棒で殴られるのであった。
「それでは、毎晩やっている受験勉強を『自由研究』として提出すればいいではないか」
と言う人がいるかもしれない。
ところが、そういうわけにいかないのである。
まず、学校でやっていることと受験勉強は内容が違いすぎた。
中学受験をやった方ならわかると思うが、その内容は中学校、いや、へたをすると高校の履修範囲である。
また、受験勉強で解いている問題の番号と答えだけノートに羅列していっても、
「何かについて調べてきました」
という感じの仕上がりにはならず、それは「自由」っぽくも「研究」っぽくもない。
さらに極めつけだったのは、中学受験勉強をしていることを、
「学校で言ってはいけない」
と母に口止めされていたのである。
周囲から嫉みを買わないように、という配慮だったのだろう。
また、受験に落ちた時にみっともなくないように、という世間体も考えられていた。
このような理由が降り積もり、私は受験勉強の形跡を「自由研究」として学校に提出するわけにはいかなかった。
こうして、毎晩2時まで勉強していたために、学校は私にとってもっぱら、
「勉強していない」
と竹の棒で殴られ、あとは授業中といわず昼休みといわず机につっぷして、睡眠時間を補充する場所となっていた。
不登校する自由がない
そんな私にとって、小学校は「百害ありて一益なし」の場所であった。
名古屋に引っ越してから通った高学年の2年間はとくにそうである。
では、なぜ私はそれでも学校へ通ったのか。
答えは簡単で、不登校できなかったからである。
私は「不登校にならなかった」ではなく「不登校ができなかった」。
正直をいえば、後年ひきこもり界隈でいっしょに活動している多くの仲間が不登校出身であることを知ったとき、最初に私がおぼえた感覚は、
「いいなあ」
という羨望であった。
「そういう手があったか。学校へ行かないなどという選択が許されたのか。
じゃあ、自分も不登校になればよかった。そうなっていたら、どんなに幸せだったことだろう」
と思ったのである。
しかし、それは現実に根ざした羨望ではない。
実際には、あのころの私に「不登校になる」という選択肢はなかった。
明らかに学校は私にとって居場所ではなかったし、居場所どころか、苦しいだけでまったく何のために行っているのかわからない場所であったが、だからといって、そのまま学校に行かず家に居れば、自分の家はもっと居場所ではなかったのである。
児童虐待とは、親が子に対して、立場や体力の優位性を笠に着ておこなう家庭内いじめであるとも云える。
学校でもいじめられていたが、私が家の中でもいじめられていたことは、前回書かせていただいたとおりである。
また、もし仮に家庭内いじめがなかったとしても、
「学校へ行くのはいやだ」
といって、そのまま家に居ても、母がけっしてそれを許さなかったであろう。
すると、不登校だった方々は反論するかもしれない。
「自分は『学校に行かない』という方法がある、と考えついてそれを選んだのではない。不登校になりたかったわけではない。
他に選択肢がないから、不本意ながら不登校になってしまったのだ。
それに自分だって、初めは親は大反対だった。親が不登校に賛成だったから不登校になった、というわけではない」
と。
たとえば先日、本誌に発表された喜久井伸哉さんの秀稿(*7)は、そのあたりの心情を余すところなく語っている。
*7.「不登校もひきこもりも、自分で選んだ人生ではありませんでした」喜久井伸哉
これはすなわち
「不登校になる自由があるから不登校になったのではない」
ということである。
「自由」というと、それを選ぶ選ばないという選択肢があって、自らの意志でどちらかに進むことができる状態のように聞こえる。
だから、非選択的不登校になった方々は、
「不登校になる自由を行使した」
とはけっして言われたくないのにちがいない。
それは、私もとてもよくわかる。
私にとっては、大学の卒業時に我が身に起こった「ひきこもり」という現象がそうであるからだ。
大学の卒業時といえば、学校生活の終わりである。
私の「ひきこもり」とは、学校へ行く年代がもう終わる時になって、遅れてやってきた不登校だったのだろう。
言い換えれば、不登校になる時期が遅すぎたので、私は「ひきこもり」になったというわけだ。
だから、「不登校は自分で選択したものではない」という感覚は私も自分ごととして深く納得できる。
けれども、それはそれとして、やはり私の場合は、
「『不登校になる』という選択肢はなかった」
と言わざるを得ない。
すると、やはり
「自分には不登校する自由さえなかった」
と表現することになるのだ。
「隣の芝生は青く見える」
と謂われるように、人はつねに自分ではない者をうらやましく思うものだ。
不登校になった人のなかには、不登校にならなかった人をうらやましく思う人も多いだろう。
なかには、「不登校にさえなれなかった」私のような登校者をさえ、うらやましく思う不登校経験者だっているかもしれない。
・・・「ひきこもりの考古学 第6回」へつづく
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。東京郊外のゴミ部屋在住。生活保護受給者。孤独死予備軍。犯罪者予備軍。エロオヤジ。精神科医 齊藤學(さいとう・さとる)によって「今までで一番悪い患者」に認定される。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2021年11月、ある特定の人物がVOSOT(チームぼそっと)の公式ブログの記事の送信防止措置を株式会社はてなに申立て、公開できない状態が続いている。著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
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