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父との最後の電話 ~或る8050問題~

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文・写真・ぼそっと池井多

 

両親は、私の戸籍を、私が知らない間に彼らの住所に移した。

しかし、私は自分の本籍がある両親のマンションに
一歩も足を踏み入れることができない。

ある必要が生じ、
コロナウィルスと花粉が飛び交う2020年3月の都市空間を横断して、
彼らのマンションの近くの区役所へ戸籍謄本を取りにいった。


戸籍謄本は語る。
父は87歳、母は84歳で、まだ生きていた。

彼らとはもう20年以上会っていない。
私は、父と最後に電話で話したときのことを思い出した。……

 

これは家族の病である。

20年ほど前、私はまだ
自分のひきこもりを何とかしようとしていた。
思考回路を変えることにより、
ふつうに働ける人になれるように努めていたのである。

そのために必要なのは精神医療だと考えた。

けれど、私一人が精神医療にかかるのはおかしいと思った。
もし私が患っているものがあるとしたら、
それは私の病ではなく、家族の病であるはずだった。
 
しかし、家族会議で話し合っても、
家族は私の治療に協力することを拒否し、
逆に、彼らに都合の悪いことを言い始めた私は家族から放逐され、
しかたなく私は一人で精神医療につながった。

1999年5月のことだった。

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家族から放逐されたころに撮った一枚。ベランダから富士が見えた。
写真・ぼそっと池井多

二年の月日が過ぎ、
やはりどうしても家族、とくに親が参加してくれないと、
私の心の治療が進まない局面にやってきた。

 

主治医は、診察室へ父を連れてくることを私に求めた。

私の家族問題の元凶は母だったために、
家族療法の専門家を名乗る主治医は、母親を避けたのである。
「外濠から埋める」という作戦だったのだろう。
 
私は、内心思った。


「この主治医は、わかってないな。
うちの母親は、自分に隠れて、何か物事が進行すると、
たちまち嗅ぎつけて、かえってモメる。

だから、ここは
『治療者はあなたに関心があるんですよ』
というメッセージをこめて、
母親にアプローチした方がいいんだけど」


しかし、当時の私は、

「自分はただの当事者(患者)にすぎず、
専門家のほうがよく知っている」

とも誤信していたので、主治医の指示に従うことにした。

 

主治医は言った。

 「お父さんを呼ぶときに、あまり強く押さないこと。
 電話をかけて、


  『もし診察室に入って、
  ぼくの主治医に会うのがこわいんだったら、
  近くの喫茶店でぼくと5分話すだけでもいいから、
  ぼくのために上京してくれないかな』


 と言ってみなさい」
 
こうして私が実家に電話をかけたのが、
2001年11月23日、金曜日、午後8時であった。

 

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夜の横浜港。両親は私と音信不通になってから、母親の出自である横浜へ2004年に引っ越した。その時にどういうわけか私の戸籍もそこへ移したために、私は自分の本籍地に一歩も足を踏み入れることができない。両親のマンションからは横浜の港が見えるはずだ。2020年3月、私は戸籍謄本を取りに横浜へ向かった。写真・ぼそっと池井多

 

実家へかけた電話

久しぶりに実家に電話をかけるのは、
たやすい作業ではなかった。
番号をプッシュすれば電話は機械的につながるが、
そこで出てくるのは父とは限らない。
 
「母親が出たら何て言おう? 
 すでに父親が死んでいたらどうする? 
 かりに父親が生きていたとしても、
 電話で話せる状態でなかったら?」
 
向こうの状況は何一つわからないのが不安であった。
多くの人はこういうとき、
まず親戚などに電話して実家の様子を聞くのではないか。
 
ところが、私にはそれができなかった。
 
私の幼時より、母は親類縁者と深く交わず、
うちの家はたえず「栄光ある孤立」を保って暮らしてきた。
 
だから私には、大人になったときに、
気軽に電話をかけられるような親戚が一つもなかったのである。
 
しかたなく、さまざまな場合を想定してシナリオを練った挙句、
ようやく私は受話器を手にした。
 
運よく、父が出た。
 
「最悪の場合、父はもう死んでいるのでは」
という心配すらしていた私であったが、
父はまだ死んでいなかったばかりか、
想像していたよりも、はるかに生気のある声であった。
 
私は心ひそかに、これを喜んだ。
 
父のことは、嫌いではないのだ。
ただ、母の尻に敷かれて不自由な人生を送っている父が
不憫で、なさけなくて、見ていられなくて、
これまではついつい顔を合わせると
父につらく当たってきたのだった。
 
父親に虐げられる母親が情けなくて
同じような感情を母に持つ娘の話は
よく社会でも語られることがある。
 
しかし、私のような息子は
他にまったく居ないわけでもないだろうに、
ほとんど語られるのを聞かない。
 
その父が、予想よりはるかに元気な声で電話に出た。
齢六十八になっているはずであった。
 
「ぼくは病気です。上京して主治医と会ってほしい」

と話を始めると、父は用心深く、

「病名は何だ」

と訊いてきた。
 
病名か…。
 
私の病名は何なのだろう?
 
考えてみれば、
私は今日まで自分の正確な病名を知らないまま患者をやってきた。
主治医からも、自分の病名を聞いたことがない。
 
「家族の病気」というのは、まったく病名を語っていない。
 
私がつらい症状は、なんといってもうつである。 
しかし今日、鬱病ほど「仮病」だと思われている病気も他にない。
 
「働きたくない。怠けたい」

という者が、看板に掲げる仮病のナンバーワンが鬱であるらしい。

そんな説得力のない病名を、私だって好んで掲げたくはない。
私だって、いつまでも
「鬱です」などと言い訳がましく言っていたくないのだ。
 
それでは、この「動けなさ」は何だ。
やる気が起こらないもどかしさは何だ。
世界すべてが灰色にしか見えない、
砂を噛むような、この嫌な感じは何なのだ。

これらが改善するなら、病名など何でもいい。 
しょせん病名などというものは、
私を保険医療という制度につなぎとめる
一本のかぼそい糸にすぎない。

 

しかし、電話の向こうで父は、
私の病名だけを知りたがっていた。

その病名をもって父は、
私の状況をすべて把握した気になるのだろう。
 
もしここで私が、たとえば末期がんとか、
今にも死にそうな内科的な病名を告げたならば、
父は私の求めに応じて、主治医に会いに来るにちがいない。

親としての体面を果たすため、
息子が死ぬ前に一度だけ主治医に顔を見せておこう、
などと考えるだろう。

鬱病だって、十分に
今すぐ死ぬかもしれない病気のうちに入るのだが、

メンタルな病気ではダメなのである。
 
だからといって、私は父を東京におびきよせるために、
いまにも死にそうな病気を
詐称することはしたくなかった。
 
それでは母と同じになってしまうからだ。
 
母は、いつも今にも死にそうだと私たちを脅かし、
そこにつけこんで理不尽な要求を通してきた。
私は母を「詐病の女王」と呼んでいる。
 
そこで私は父に、このように答えてみた。
 「病名は、主治医から直接聞いてほしい」
 
父とは、ギリギリの綱引きをしているようであり、
たぬきの化かし合いを演じているようでもあった。
 
すると、父は仕方なさそうに、
「じゃあ、そうするか」
と引き下がった。
 
「お父さんの体調は悪くないの?」
と案じてやると、
「そうだね、あいかわらず持病の血圧と尿酸値は高いが、
上京できないほどひどいわけじゃない」
と父は答えた。
 
その言葉の裏には、

上京して私と一緒に主治医に会いに行く意思が感じられた。
 
「そう。それはよかった。じゃ、いつにする?」
 
「そうだな。じゃあ、予定を調整してみるから、
 来週のこの時間にまた電話くれ」
 
「来週のこの時間だね。金曜日の午後8時か。わかった」
 
こうして一回目の電話は尋常に終わった。
それはまるで、ごくふつうの
父と息子の会話のようであった。

 

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壁 横浜港赤レンガ倉庫 写真・ぼそっと池井多

 一週間後の電話

ぴったり翌週のその時間、すなわち
2001年11月30日、午後8時に私はふたたび実家へ電話をかけた。
 
今度は、電話に出るのは父だとわかっていたので、
その点、前回より気が楽だった。
 
「もしもし、ぼくだけど。
上京してぼくの主治医に会ってくれる話は、どうなった?」
 
すると、この時の父の答えほど、
拍子抜けを通り越して、呆気に取られるものはなかった。 
父はあっさりと、
まるで前の週の会話などなかったかのように、
こう言ったのである。
 
「ああ、あれか。行けないね」
 
耳を疑う、とはこういう時のためにある言葉だろう。
 
私は耳を疑って、口迅くちどに言った。
 
「行けない? ……
 行けないって、どういうことだよ」
 
「いや~、なんか調子悪くってねえ」
 
どことなくのどかな響きだった。

調子悪い? 
「血圧も尿酸値も大丈夫だ」
と先週、言っていたばかりじゃないか。
 
それに今だって、
その呑気な口調はまったく病気を感じさせる声ではない。
 
だいたい「なんか」調子悪い、っていうのは何だ。
「なんか」って。


ほんとうに調子が悪いのなら、
どこが調子悪いか、具体的に言うべきだろう。
 
いやいや、ここで苛立ってはいけない。……


そこで私は、主治医に与えられたアドバイスを、
ここで投入してみることにした。
 
とっておきの抑えのピッチャーを
満を持してマウンドに送りこむ野球監督とは、
さぞやこういう気持ちであることだろう。
 

あのう、……もし診察室に入って、
ぼくの主治医に会うのがこわいんだったら、
クリニックの中には入らないでもいいからさ。
近くの喫茶店で時間つぶしててもらってもいいから。
だから、5分でも10分でもいいから、
ぼくのために上京してくれないかな


 父は答えた。
 
「う~ん、無理だな」
 
にべもなかった。


私はあわてた。
あまりにたやすく秘蔵のピッチャーが打ち返されたので、
あわてるしかなかった。
 
「無理って……、いったい何が無理なんだよ」
 
「まあ、また連絡するから」
 
「また連絡って……、いつ? 
 次の機会なんてあるの? 
 そもそも、ぼくの連絡先、知ってるの?」
 
父も母も、私がその時にかけている電話の番号を知らないはずであった。
 
私は自分の部屋の固定電話からかけていたが、
さかのぼること2年前に
前の住居よりもはるかに小さい、しかし
通院に便利なその部屋に引っ越したことは、
父たちにまだ知らせていなかった。

その時も、非通知でかけている。
 
もし、ほんとうに父が私にまた連絡をしようと思うなら、
まず私の連絡先を聞くはずである。
 
「あの~、もう切るからな。
 切るから。
 身体、気をつけてな。
 病気なんかしないように」
 
病気なんかしないように?
 
「あの…、ぼくは病気だから、電話かけてるんじゃないか。
 病院に来て、
 主治医に会ってほしいって言っているんだけど」
 
「え、そうか? 
 んじゃあ、まあ、切るから」
 
私の父は、はたして日本語がわかる人だったのだろうか。
 
私がまだ受話器を耳に密着させているあいだに、
父は、何かに急かされるように、一方的に電話を切った。

 

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横浜港。 写真・ぼそっと池井多

繰り返されるシナリオ

二回の電話のあいだ、わずか一週間に
いったい父の心境にどういう変化があったのだろうか。

じつは、それは容易に想像がついた。
どうせこんな風に、母が父を脅したのにちがいないと思う。
 
「あの子、病名を言わないところをみると、
 きっとまた精神科よ。
 
 あの子の言うままにそんな所へ行ったら、
 そこには精神科医だかカウンセラーだかが居て
 あなた、家の中のことをなしくずしに全部しゃべらされちゃうわよ。
 
 うちに何かまずいところがあると、
 その医者に判断されたらどうするの? 
 
 わたしは別にかまわないけど、
 きっと困るのはあなたよ。
 
 きっと牢屋みたいな所に入れられて、
 もう一生、出てこられなくなっちゃうのよ」
 
家庭内で、いつも繰り返されてきたパターンなので、
母と父のあいだで交わされる会話を、私は如実に想像できる。
 
母はけっして

「わたしが責められることになるのはいやだから、
あの子の病院には行かないでください」
などと正直に父にお願いをする人ではない。
 
「わたしは別にかまわないけど」
と、まるでそこには自分の弱みがないかのように、
必ず余裕をよそおうのである。
 
相手にお願いをしたら、借りができる。
だから「あなたのためよ」と押し通す。
恩を着せて脅迫し、被害者に回りこんで詐病する。


それらの見事なコンビネーションで人生をわたってきた女性である。
その下で、奴隷となって操作されているのが父であった。

 

案の定、その後、父から「また連絡」など来なかった。
あれが父の声を聞いた、最後になった。
それから19年が経った。

 

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この紙は何を語っている?

2020年3月。

区役所のカウンターで私の手に渡された戸籍謄本は、
まだ父は生きていることを物語っていた。

 

それは、私に一つの安堵をもたらした。

そして、そこには小さな可能性があるように思った。

私を放逐し、音信不通となった原家族と
ふたたびまみえて対話する可能性である。

 

私は母に問いたい。

「あなたは、自分がやったことを、

ほんとうはわかっているんでしょう?

それとも、ほんとうにわからないのか」

と。

 

私は父に問いたい。

「あなたは、自分が見て見ぬふりをしてきたことを

ほんとうはわかっているのでしょう?

それとも母親が言っていることが事実だと、

本心から信じているのか」

と。

 

そして私は二人に問いたい。

「あなたがたは、私が年端も行かない幼いうちから、

 

『責任を取れ! 

人は自分が言ったりやったりしたことには

すべて責任を取るものだ!』

 

と言って、私を殴ってきました。

 

そこまでは良しとしましょう。ところで、

あなたがたは、自分が言ったりやったりしたことに

すべて責任を取ってきましたか」

と。

 

しかし同時に、私は両親が生きている事実を知ったことで、

また一つ、大きな問題を背負いこんだようにも思う。

 

もっとも困ったことは、

それがどういう問題であるのか、

よくわからないということだ。

 

 (了)

 

……この記事の英語版

……この記事のフランス語版

 

 ぼそっと池井多いけいだ 東京在住の中高年ひきこもり当事者。横浜に生まれ、2歳まで過ごし、以後、各地を転々とする。大学卒業時23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的に今日までひきこもり続けている。VOSOT(チームぼそっと)主宰。GHO(世界ひきこもり機構)代表世話人。facebookvosot.ikeida twitter:  @vosot_just

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