文・ぼそっと池井多(VOSOT主宰)
「ひきこもり親子クロストーク」(旧・ひきこもり親子公開対論)では、これまでいくつかの都市で、ひきこもりに関わる親・子の立場の言い分を開かれた空間で語り合ってきた。
そのたびに「ひきこもりと父」などなどのテーマを設けてきたが、次回は『ひきこもりの真実』(ちくま新書, 2021)を出版された、ひきこもりUX会議代表理事の林恭子さんと彼女のお母さまを登壇者にお迎えして、同書をテキストに私の体験も交えながら、双方の言い分をうかがっていく。
すれちがう親子の言葉
同書では、たとえば第三者である妹さんによる次のような短い記述がある。
p.221
姉の個室からギャーギャーと泣き叫ぶ姉の大声だけが聞こえてくる。「どうしてわかってくれないの」と泣きながら訴える姉に対し、母は抑えた声で「わかっているわよ。無理に学校へ行きなさいなんて言ってないじゃない。好きにさせてあげているのに、これ以上どうすればいいのよ」というようなことを答える。
太線部は引用者による
ここには、ひきこもりを問題として抱える家庭のコミュニケーション不全が凝縮されている。
私のいう「ねじれの関係」。
それは、ぶつかっているように見えて、じつはぶつかっていない。ぶつかることもできないでいる。
双方とも懸命に自論を述べるのだが、それらの言葉は立体交差する高速道路を猛進する車たちのように、近づいては離れ、すれちがっているのである。
葛藤の神話
これまでも、ひきこもり親子クロストークでは実の親子にご登壇いただいたことがあるが、やはり大半は別々のご家族から登壇し、舞台の上で仮の親子になっていただいた。
今回、久しぶりにまた実の親子で公開対論である。
こうなると、テーマは「母娘の葛藤」だろうとお考えの方は多い。
もちろん、それは当日の話題の多くを占めるだろうけれども、私としては、
「今回のテーマは『母娘の葛藤』に留まるものではない」
と考えている。
この「ひきこもり親子クロストーク」への登壇ゲストとして、私が究極に招きたいのは、私自身の母親である。
しかし、それが叶わないから、同じく母親の立場であるいろいろな方をお招きして、その声から私が自分の母親の本音を推測しているのに他ならない。
この「ひきこもり親子クロストーク」というイベント自体、母親との関係をこじらせた一人の男の、きわめて迂遠な母求めのプロセスなのである。
これまで多くの精神科医やカウンセラーなど、人の心理の専門家が、
「母-娘の葛藤は存在するが、母-息子の葛藤は存在しない」
と主張してきた。
このような「神話」の根拠は、たいてい
「異性の親子のあいだでは、そういう葛藤は起こらないから」
というものであった。
いっけん同語反復のように聞こえるが、フロイト理論の表面的な適用のつもりでもあるのだろう。
しかし、はたしてそうだろうか。
現実には、私自身をはじめとして、私が開催する当事者会にいらっしゃる多くの男性当事者が母親との葛藤に苦しんでおり、それに対する適切な精神医療も受けられないまま「生きづらさ」を生きている。
また、表面的には「父との葛藤」のように見えても、よくお話をうかがっていくと、実相は「母との葛藤」だったりすることもある。
娘も母親と葛藤してもちろん苦しいだろうが、息子の場合は、葛藤の苦しみに加え、
「マザコン」
などとレッテルを周囲から貼られて、苦しんでいること自体を馬鹿にされる傾向がある。
そのため「母との葛藤」に苦しんでいることを、すなおに言葉にして出すこともできないまま苦しんでいる男性が多い。
つまるところ、
「母-息子 葛藤は存在しない」
と主張する専門家たちにとって、主張の根拠は、そういう症例や事例が、たまたま自らが診察や担当をしたクライエントの中に居なかった、ということにすぎないのではないだろうか。
それをあたかも人間普遍の心理現象であるかのように断言してしまえることは、専門家の特権である。
けれど、翻せば、それは専門家としての立場の濫用だ。
林恭子さんが著書『ひきこもりの真実』(2021年、ちくま新書)のなかで描く母親問題は、彼女が娘であり女性だから背負ったものとは、私には思えない。
それは、ひきこもりの息子であった私や、他の男性当事者が現在進行形で持つ母親問題と、そっくり共通の構造を持っている。
たとえば、同書から50頁から51頁にかけての文章を抜き出してみよう。
途中で解説を加えさせていただくために、あえて(1)(2)(3)と3つに分割する。太線部は引用者による。
(1)
p50.
かつては男性ばかりが「働いて一人前」とされ、女性は「家事手伝い」や「専業主婦」という肩書きもあり、働いていなくても特に問題視されない時代もあった。しかし近年では「女性活躍」などと言われ、女性も正社員で働くことが当たり前とされたり、充実した毎日を送り、キラキラしていなければダメだと思われるような空気もある。それを誰よりも内面に取り込み、「正社員になるか死ぬしかない」と言うほどに、ひきこもり女性たちも追い詰められている。
この文章は、
「今や男女の役割が逆転して、男性の側が『働かなくてもよい』と言われるようになった」
といっているのではない。
あるいは、
「今や男性は『家事手伝い』と名乗っていれば、働いていなくても社会的に認められる時代になった」
といっているのでもない。
また、
「男性は、旺盛に活躍したり充実した毎日を送ったりキラキラしていなければダメだ、と思わなくてよくなった」
といっているのでもない。
この文章は、男性は1986(昭和61)年の男女雇用機会均等法改正の前から課せられている重圧を、女性の社会的活躍が少しは進んだ2022年現在も依然として課せられており、その苦しみにあえいでいるためにひきこもりになっている当事者がいる、という事実を裏側から照らし出しているともいえるのだ。
この(1)につづいて、次の(2)が書かれている。
(2)
pp.50-pp51
あえて女性ならではの理由を考えてみると、ひとつには、女性当事者のなかには母親から(ときには父親の場合もある)の過保護、過干渉、支配に苦しみ、「良い娘」であることを続けてきたことが生きづらさの原因となっていることがあるように感じる。母親の理想に適うように自らを抑圧して育ってきた結果、自分らしさを見失い、どう生きていったら良いのかわからなくなる。そのことに気づいて親子間を修復しようにも母親のほうにはその自覚がなく、逃げれば追われることもあり、一度絡めとられた呪縛から抜け出すことは容易ではない。
「良い娘」の先には「良い妻」「良い母」、そして今や「良い社会人(正社員)」であることも求められている。雑誌やテレビを見ていても、すべてをなんなくこなしているように見える女性たちはキラキラしていて、それができない自分は「ダメな自分であり」「価値がなく」「生きていてもいいと思えない」という、徹底した自己否定につながっていく。
冒頭に「あえて女性ならではの理由」とあるが、試しにそれに続く文中の名詞の性別をすべてひっくり返してみよう。
男性当事者のなかには母親から(ときには父親の場合もある)の過保護、過干渉、支配に苦しみ、「良い息子」であることを続けてきたことが生きづらさの原因となっていることがあるように感じる。母親の理想に適うように自らを抑圧して育ってきた結果、自分らしさを見失い、どう生きていったら良いのかわからなくなる。そのことに気づいて親子間を修復しようにも母親のほうにはその自覚がなく、逃げれば追われることもあり、一度絡めとられた呪縛から抜け出すことは容易ではない。
「良い息子」の先には「良い夫」「良い父」、そして今や「良い社会人(正社員)」であることも求められている。雑誌やテレビを見ていても、すべてをなんなくこなしているように見える男性たちはキラキラしていて、それができない自分は「ダメな自分であり」「価値がなく」「生きていてもいいと思えない」という、徹底した自己否定につながっていく。
どうだろう。
まったく違和感がないばかりか、ぴったりと成立する文章となる。
このように、まるであぶり出しのように浮かび上がる裏面の文章が、じつは私自身をふくめ、多くの男性の『ひきこもりの真実』だったりする。
しかも、地方でひきこもっている当事者の家庭は、がいして都市部のひきこもり家庭より保守的・旧弊的であり、
「男なんだから働け、稼げ」
と、男女雇用機会均等法改正以前の社会観による圧力を受けて苦しんでいる男性当事者がたくさんいるのだ。
つまり、「女性ならではの理由」は、構造的には「女性ならではの理由」ではない、ということである。
女・男ならではの苦しみとは
こうなると、男性当事者は女性当事者が苦しんでいない領域で苦しんでいる、ということもいえるだろう。
けれども、それは「男性のほうが女性より苦しい」といったことをまったく意味しない。
逆に、女性ならでは男性より苦しい領域が上記以外に存在するかもしれず、苦しみの総量として女性と男性のどちらが多いか、といったことは、つまるところ比べられないのである。
しかし、少なくとも、
「男性が味わっている苦しみは、すべて女性が味わっており、女性はさらにそこへ加えて女性特有の苦しみを味わっている」
という図式にはならないだろう、ということは少なくともいえる。
言葉でいうとわかりにくいが、次のように図にするとわかりやすい。
そのようなことはわかっているからこそ、林恭子さんも筑摩書房の編集者も、(2)につづく文章(3)で先ほどの「あえて女性ならではの理由を……」という始まり方と矛盾するリスクを採りながら、太字にした箇所の格助詞を「は」でなく「も」にしたのだろう、と私は解釈している。
(3)
p.51
男性にも同じような状況や「男とはかくあるべし」というイメージに苦しめられることがあると思うが、女性も多くの「あるべき」役割を担わされており、そのことに苦しめられているように感じる。
以上、細かく読解してみたが、「女性特有」「娘特有」の問題だと思われてきたことは、じつは「男性」「息子」の問題でもあり、それゆえに、
「母-娘 葛藤」
は、
「母-息子 葛藤」
まで視野に含めて考えなくてはならない、ということがこれでおわかりいただけたと思う。
したがって、次回のひきこもり親子クロストークのテーマは、「母娘葛藤」に留まるものではなく、ひきこもりにまつわる「母子葛藤」そのものである。
母親との関係に悩む娘の立場の方、子どもとの関係に悩む母親の立場の方、母子関係を見て傍らで途方に暮れている父親の立場の方はもちろんのこと、母親問題を考えてみたい男性当事者の方も、どうぞ奮ってご参加いただきたい。
まだまだ参加お申込みいただけます。
お申込みは以下のリンク先からどうぞ。
開催の概要
第17回 ひきこもり親子クロストーク
登壇者:林恭子さんとお母さん
日時:2022年5月28日(土)
開始:14:00(13:45開場)
終了:17:00
会場:東京都練馬区光が丘区民センター
(都営大江戸線終点「光が丘」駅トンネル直結)
参加確定者に詳しい場所をお知らせします。
入場料:献金制
<参加申込みフォーム>
http://u0u1.net/0gQt
<お問い合わせ>
vosot.just.2013◎gmail.com (◎→@)
★ 時節に見合った常識的なコロナ対策をお守りください。
★ 会場内ではスタッフの指示に従っていただきます。
テキスト
林恭子 著『ひきこもりの真実――就労より自立より大切なこと』 (ちくま新書)