文・ぼそっと池井多
「ひきこもり」を人類学の対象として
「ひきこもりが問題とならない社会をめざす」
そんな目的を掲げ、隔月に開かれている定期イベント、ひきこもりフューチャーセッション庵-IORI-では、8月4日の第41回開催時に、史上初の外国人テーブル・オーナーが誕生した。
イタリア人のサラ・クロシニャーニさんである。彼女は、スイス国境に近い北イタリアの小さな町に生まれ、スペイン・フランスなどを転々とし、現在はイギリスはロンドンのブルネル大学に籍をおく人類学者。
人類学というと、20世紀前半までは、文明国の学者が「未開の部族」を観察・記述するために非文明国の奥地へ入っていく、というのが一般的な図式であった。しかしそれは、ひとことで言えば「上から目線」、オリエンタリズムであるという反省から、近年は自分たちに身近な「異なる人々」へフラットな立場で同化してみる、というのが研究手法の主流であるらしい。
社会の中の「異なる人々」として、私たちひきこもりが採択されたわけである。
日本語を話さないテーブル・オーナー
これまで庵-IORI- には多くの外国人の方が参加している。しかし、彼らは誰も自らテーブルを持つことはなかった。また、庵-IORI- に参加する外国人の方は、たいてい日本に住み、日本語に堪能な方が多く、対話も日本語でおこなっていた。
そのため、海外からやってきて、日本語も話さないままに庵-IORI- のテーブル・オーナー(*1)になったのは、7年近くの庵-IORI- の歴史の中でも、クロシニャーニさんがやはり初めてである。
これはまさに、ひきこもりをめぐる情勢のグローバル化、日本社会の国際化を反映しているといってよいだろう。
*1. テーブル・オーナー(Table Owner)
庵-IORI- では対話のテーマによって、参加者はいくつかのテーブルへ分かれる。テーブル・オーナーとは、それぞれのテーブルにテーマを提案した人。昭和ふうにいえば、分科会の議題提供者。
クロシニャーニさんは、論文執筆のため日本のひきこもりたちと交流しようと6月に来日し、関東と関西を行き来していた。庵-IORI- には、6月開催の「ふりかえり(反省会)」から参加。
庵-IORI- では、テーブルの「通訳」といったポジションを想定していないため、私がコ・ファシリテーター(*2)としてテーブル・スタッフに加わった。ファシリテーターは、アンジー(佐藤恵子)さん。
*2. コ・ファシリテーター (Co-Facilitator)
「共同進行役」が訳語となるが、庵-IORI- で「コ (Co-)」がつくときは、コ・オーナーにせよ、コ・ファシリテーターにせよ、補佐あるいはサブという意味合いがあるようである。
クロシニャーニさんが提出したテーブル・テーマは、
What You Want To Say to your family
But Actually Cannot
しかし日本では、たしかに兄弟姉妹も問題に挙がるものの、ひきこもりにとって「family(家族)」というと「親」の比重が高いので、協議のうえ日本語タイトルはこのようになった。
じつはこれを親に言いたい!
でも、言えない。
日本のひきこもりは「AMAE」なのか?
庵-IORI- では、それぞれのテーブルにおいて各30分の対話を3ラウンド、計90分おこなう。(*3)
*3. ラウンド 参加者は、各ラウンドで他のテーブルへ移ってもよいし、移らなくてもよい。運営側は各ラウンドを一つの話の切れ目として扱うことが多い。
そこで第1ラウンドでは、私から最近のイタリアと日本のひきこもり比較をめぐって、以下のような問題提起を一つさせていただいた。
イタリアのひきこもり専門家のあいだでは、
「イタリアのひきこもりは社会恐怖から。
日本のひきこもりはAMAEから」
などと言われるようになってきている。
同じ「ひきこもり」という状態でも、イタリア型 / 日本型と分かれる、というのである。
なるほど、たしかにヨーロッパでは移民やテロの問題が社会不安を増長させ、それがもとで家を出られないひきこもりもいることから、ヨーロッパ型 / アジア型と分けてひきこもりを捉えるのも、そんなに間違っていないかもしれない。
しかし、「日本のひきこもりはAMAEから」と言われると、私は大きな違和感をおぼえざるをえない。
「AMAE」とは、いうまでもなく「甘え」のことである。
1971年、日本の精神科医、土居健郎が著した「『甘え』の構造」という日本人論が世界的なヒットとなり、今では心理学から経営学まで、日本を論じる欧米の専門家のあいだでは、必読の教科書のようになっている。これを読んだ若い学者が、たちまち「AMAE」の概念によって、日本の現象をすべて説明したくなっても不思議ではない。
しかし、イタリアでも母子関係の距離はひじょうに近いと見受けられる。「甘え」と同じ意味範囲を示す語彙がイタリア語に存在しないだけで、同じような感情はイタリア人にも起こっているだろう。
今回の対話セッションでは、私から英語やイタリア語でもじゅうぶんに日本語の「甘え」に相当する概念は言い表せるということを指摘させていただいた。
すなわち、「イタリアのひきこもりはAMAEではない」というとき、それはたんに「AMAE」に相当する包括的な語彙がイタリア語に存在しないから、という言語学的な理由による部分が大きい、ということである。
「甘え」という語におおざっぱに束ねられている人間の感情現象を、いま一度精査してみる必要があるだろう。
社会の同調圧力がひきこもりを生む?
今回の対話テーブルに参加する前は、そこで行われる議論について、私はこのような展開を予想していた。
「日本社会は同調圧力が高く、そのことが日本という国にひきこもりを多くしている重要な要因である、とされている。皆が『同じ』であることを有形無形に強要する社会であるため、それに適応できない個人が社会へ出ていけず、ひきこもりになる、というのである。
いっぽう、イタリアは近代市民主義の浸透したヨーロッパ社会であり、それを構成する単位として個人というものが確立している。そのためイタリアでは、他人の目を気にすることなく、皆が自分の人生を楽しんでいる。イタリア人は食べることを愛し、歌うことを愛し、愛することを愛するとされている。そこが同調圧力の強い日本社会と違う点である。したがって、イタリアにひきこもりが多い原因は、何か別のところにあるのではないか。」
ところが、この日のテーブル・セッションで対話の進行を通訳しているうちに、「どうやらそうではないらしい」ということがわかってきた。
「イタリアは太陽の国、みんな人生を楽しんでいる」
という通俗的なイメージは、クロシニャーニさんによれば、イタリアの人々がみんなで暗黙裡に共謀して支え合っているものだ、というのである。
とうぜんイタリアにも、日本と同じように、いろいろな精神状態の人がいる。しかしそこで「食べることを愛し、歌うことを愛し、愛することを愛する」といった生き方をよそおって生きていないと、たちまち「変な人」と見られ、それぞれの共同体から疎外されてしまう、ということらしい。
つまり、
「お前も人生を楽しんでいるよなっ!」
という無言の同調圧力がつねにイタリア社会の中にはあり、それに逆らって、
「いや、楽しんでない」
というと、たちまち疎外され孤立する。これがイタリアにおいてひきこもりを生み出している重要な要因になっている、というわけである。
ちょうど、「まじめに働いている」という素振りを見せることが、日本社会における存在権のチケットであるように、「人生楽しんでいる」という素振りを見せることが、イタリア社会で居場所を得るためのチケットだといったところだろう。
私たちは、外国の社会というと、とかく美化しがちである。とくに明治維新以降、欧米コンプレクス(*4)を持っている日本人は、西洋社会というものに理想を求めやすい。何かというと、「西洋社会にモデルがある」と思いたがるのである。
*4. 欧米コンプレクス 日本語に通じたヨーロッパ人はたいてい「欧米」という日本語をきらう。「ヨーロッパとアメリカはまったく違うのに、一緒くたにするとは何事か」というわけである。
しかし、じっさい向こうの地へ行ってみると、
「人間の住むところは、どこもそんなに変わらない」
というのが結論であったりする。
ひきこもりに関してもまた同じように、
「日本社会は世界の中でもとりわけ悪く、同調圧力が高いからひきこもりが量産される」
という知識人然とした言説は、比較対象となる国々のひきこもり事情を知らないために量産される偏見、いわば無知の陰画であるようだ。
そのことがわかっただけでも、この日の庵-IORI- のクロシニャーニさんによるテーブルは大いなる収穫があったといえるだろう。(了)