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フランスのひきこもりの親・家族はどうしてる? :フランスのひきこもり当事者ギードとの対話 第5回

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文・ぼそっと池井多 & ギード

 

 

 

...「第4回」からのつづき

ひきこもり息子の「将来」

ぼそっと池井多 2018年1月23日、名古屋に住む50歳の父親が、

25歳になるひきこもりの息子を絞殺した(*1)。

父親は警察の取り調べに対し、こう語った。

「息子の将来が心配だったものですから」

*1. この対談でテキストとした記事
The Tokyo Reporter, 2018/01/25

https://www.tokyoreporter.com/

2018/01/25/aichi-nagoya-man-50-fatally-

strangles-son-described-as-hikikomori-shut-in/

 

 

 

 

 

 

 

ギードこの父親はバカか。

 

「息子の将来が心配だったものですから」って。

 

殺してしまったら、いったいどんな将来がその子に残るというんだ。

そして、この父親自身の将来はどうなのか。

刑務所に入るというのが、彼が望んだ将来なのか。

 

しかしぼくは大方、想像がつくよ。

彼は、息子に関するの意識のために、

この愚かな行動を起こしたのだろう。

どちらにしても、殺人犯となるよりは、

ひきこもりの子どもを持つ親でいた方がいいように、

ぼくには思える。

 

 

ぼそっと池井多そうだよな。

 「日本ではこれがふつうだ」などというつもりはない。

すべての日本の親が、ひきこもりの子どもを殺すわけじゃない。

 でも、この悲しい事件は、

日本社会におけるひきこもりと親の関係について、

ある典型的な側面を語っているように思う。

 

「息子の将来が心配だったものですから」

 

という父親の言葉は、

君が指摘するように、矛盾のかたまりだ。

 

日本社会にはびこる恥の意識を抜きにして、

この父親の言葉を解釈することはできないだろう。

 

フランスでは、ひきこもりと親の関係はどんな感じ?

 

フランスのひきこもりと親

ギードそれは答えるのが難しい質問だよ。

フランスではまだ、ひきこもりだと認められたケース自体が多くないからね。

つまり、ひきこもりという現象が、

フランスではまだあまり騒ぎになっていないんだ。

 

このことには、簡単な理由が一つある。

フランスの社会、……いや、もっと一般的に

西洋の社会というものは、

日本よりもはるかに個人主義的であるということさ。

 

ぼくたちは、近所や周囲の他人のことを

たぶん日本人ほど気にかけないんだ。

もちろん、フランス人だって

恥の概念は持ち合わせているんだけど…。

 

古来より人間は、集団に所属し、

他の人間と交流しながら生活するものだった。

他者と交流することにより、

人間は「文明的な」意識を培ってきたのだろう。

 

一般的に、人間は、他人とのつきあいがないことが、

悩みや苦しみの種になってきた。

だから、好んで孤立することは

人間のほんらいの姿に反するわけだ。

日本社会は、人間がたえず「集団に属する」という必要性の方を増幅し、拡大したのだと思う。

 

日本人が口を開くときには、いつも「私たち」が大事であって、

ぼくらフランス人は「私は」が大事なのさ。

 

だからフランス人は日本人より他人の噂をしないのだと思う。

日本人が他人の噂が好きなのは、

周囲との一体感の裏返しなんじゃないの。

 

「みんな、それぞれ勝手に生きる」

を旨とするフランスでは、

周囲との一体感もうすいから噂も少なくなるのだと思う。

 

フランスでは「ひきこもり」という語は、

まだほとんど知られていない。

ひきこもりを扱うワークショップなども

ぼちぼち出てきたけれど、まだそんなに多くはない。

たぶんフランスでは、

5人に4人は「ひきこもり」とは何か知らないんじゃないかな。

「ひきこもり」よりもっと有名なのが、

不登校ニート広場恐怖症社会恐怖だ。

  

「恥」の観念

ギードぼくも、ひきこもりを経験したことのある、

いろんな人たちと話をしてきたよ。

まあ、それで言えることは、

フランスでも、ひきこもりはじつに多様で、

その形態はケース・バイ・ケースだということだ。

ひきこもりの全体像を描き出すような、

リアルな共通点は探しにくい。

 

ひきこもりの両親の中には、

とても感情的で、子どもを「家から追い出すぞ」とおどしたり、

感情的な脅迫をする親もいる。

かと思えば、とても理解にあふれ、

子どものやることなら何でも許すタイプの親もいる。

幸いにも、ぼくの親は後者だったってわけさ。

 

また、親の中には、

自分の仕事や社会生活に没頭していて、

子どものことなんか顧みないタイプもいる。

そういう親は、子どもになにがしかの小遣いを与え、

あとは子どもを家の隅にほったらかしにしている。

 

 

フランスのひきこもりの子どもには、

恥の感覚はほとんど見いだすことができない。

あることはあるけど、

恥の強さは日本とは比べ物にならないくらい弱い。

 

その理由は、多岐にわたる。

日本では、子どもの方が社会が用意した型にあてはまることが大事で、個性はそんなに重要じゃない。

フランスでは個性こそが重要なんだ。

 

 

いっぽうフランスでも、

子どもたちがそれぞれの人生を花開いてくれることを願うあまり、

大きな圧力を加える親もいる。

また、子どもたちには、親が決めた道だけを歩ませるために、

子どもたちにいろいろなことを強いる暴君のような親もいる。

 

だから、ひきこもりの子どもの側が受ける苦しみも多岐にわたるってわけさ。

 

日本では、親は子どもの在りようが周囲にどう映るか、

つまりその家族の世間体が気になる。

でもフランスでは、子ども自身の将来に重心があって、

多くの場合、世間体は二の次なんだ。

だから、フランスで子どもがひきこもった場合、

社会的な恥、つまり世間体を気にするのは、

かなり社会に知られている家族、

裕福で有名な家族だけなんじゃないかな。

 

イタリアとの比較

ぼそっと池井多なるほどね。ひきこもりと親の関係性は、

同じようでも、フランスと日本では、いろいろと違いがあるね。

 

それではここで、

最近ひきこもりが多いとわかってきた、

もう一つの国の例を考えてみよう。

イタリアだ。

 

ひきこもりを研究しているイタリアの社会心理学者マルコ・クレパルディがこんなことを言っている。

「イタリアのひきこもりたちは、家族の中で孤立していない。

たとえ、ひきこもりの子どもたちは、

その親や親戚たちとは世界の見方、社会のとらえ方が異なっていても、親や親戚たちと何の問題もなく会話をする。

しかし、日本のひきこもりは、たいてい親や親戚たちに何でも隠す。

たとえ彼らは、親や親戚たちと同じ家の中に住んでいても、

コミュニケーションは円滑ではない。

 

だから、日本のひきこもりは、

たとえ家族といっしょに住んでいても、

孤立する危険があるのだ。

 

こうしたことが起こる文化的な背景として、

日本の親たちはイタリアの親たちと比べると、

子どもたちに対して社会的圧力の延長として機能している、

ということがある。」

 

つまり、社会とひきこもりが対立するような場面において、

日本の親は社会の側につき、

イタリアの親は子どもの側につくのだ。

 

フランスも、イタリアと同じだと思うかい

  

ギードそうだね。その社会心理学者の分析は、

ぼくがさっき述べたことを裏付けるものだ。

フランスとイタリアは非常に近いと思う。

 

理由はじつにシンプルであり、

彼によって良く説明されている。

日本の親は、子どもにとって、社会的圧力の延長だ。

 

ぼくはそれをもっと敷衍する。

親は社会の延長なのではなく、

社会からつながっている鎖の最初の輪っかなのだ。

 

親と家族は、一般的には、

子どもの人生の中で最初の強制的な構造を具現化する。

つまり、親はぼくたちによって最初の「意思決定者」であり、

ぼくたち拘束し、去勢し、

ぼくたちの肩の上にプレッシャーをかける存在なのだ。

 

 

「家族」賞揚の陰に

ギード家族を美化する人はたくさんいる。

でも、ぼくは、この「家族教」という宗教を理解できない。

ぼくは家族の中に、

不快な社会の中で生きるという、毒入りの贈り物を与えてくれる構造を見ている。

 

言い換えれば、

ぼくたちは誕生すると、

家族はぼくたちを、不快な世界の中へねじこむものとして機能する。

そういう世界は、ぼくたちひきこもりを窒息させる。

 

そんな家族に対して、

あたかもぼくたちが恩を受け、借りができたかのような

形になってしまうのが、

どうも理解できない。

 

ぼくたちが生まれたのは、ぼくたちが頼んだからではない。

親たちの性交は、

親たちがやりたいからやった行為だ。

 

なぜ親たちの性交に、

子どもが感謝しなければならないのか。

 

「親が、子どもがこの世に出てくることを望んだ」? 

それはちがうだろう。

親は性交によって子どもができることを想定しただけだ。

 

家族というものはまた、

家族の期待に叶うように、

子どものイメージを形づくろうとする人たちの

集まりでもある。

 

形づくられることによって、

子どもは個性やもともとの人格を失っていく。

親が教育やしつけを行なうことによって、

たくさんの子どもたちがそれらを失い、病気になる。

 

だから、日本の両親の存在というものは、

子どもがひきこもりに向かう長い「ひきこもり化(hikikomorisasion)」のプロセスの第一段階なのだ。

 

これらの両親の悲しいメンタリティは、

人を去勢し、人に要求する社会の付帯兆候(何かに関連して起こる現象の群れ)にすぎない、とぼくは言いたい。

彼ら自身がそういうプレッシャーを受けてきたものだから、

親はそのプレッシャーをリサイクルして、

無意識のうちに自分の子どもたちに課しているだけなのだ。



・・・「第6回」へつづく

 

・・・この記事のフランス語版

・・・この記事の英語版