文・ぼそっと池井多
・・・第4回 からのつづき
「生きづらさ」は恐怖か
日本でもこれまで「生きづらさ」に関しては多くの専門家が本を書いている。最近の刊行では、貴戸理恵『「生きづらさ」を聴く』(日本評論社 2022)が記憶に新しい。
この著作はもともと貴戸が英語で書いた博士論文「Engaging the angst of unemployed youth in post-industrial Japan: A narrative self-help approach」(太字は引用者による)を土台にしているという。訳せば「ポスト工業化の日本において働いていない若者の苦悩に向き合うこと: ナラティブで自助的なアプローチ」ということだろう。
ここで出てくる「angst」とは英語の単語ではなく、Angstと大文字で始めればドイツ語のはずである。英語の anxiety に相当する語彙だから、英語で書けばよいものをここだけドイツ語が使われている。
じつは、この外来語を採用するのは専門家のなかで貴戸だけではない。ここに何があるのだろうか。
ドイツ語の Angst も英語の anxiety も、ともに「不安」という意味だが、Angstには「恐怖」、anxietyには「心配」というニュアンスが加わるようだ。
私は日本語の「生きづらさ」は、強烈なパニックを伴うような「恐怖」というよりも、日常生活の通底音として持続的につきまとう「心配」の方にまだしも近いように思う。だから、英語の論文では英語で「anxiety」のほうが良いように考える。
もちろん、それは私という一個人の語感だから、
「そうではない。自分にとって『生きづらさ』はパニックのような恐怖だ。だからAngstのほうが良い」
という人もいるかもしれない。
ドイツ語の Angst は、ハイデガー『存在と時間』にも「存在的不安」という意味で出てくる哲学用語でもある。貴戸も書いているが、ギデンズが「信頼」の反対は「不信」ではなく生きる上での「苦悩 (Angst)」ないし「危惧 (dread)」であるとした(*1)ことも、ここで anxiety でなく Angst が採用された理由なのだろう。
*1. 貴戸理恵『「生きづらさ」を聴く』日本評論社 2022年 p.301
そのような哲学的概念として「生きづらさ」を捉えるならば、「生きづらさ」は日本の一時代にだけ感じられている特別な、いわば期間限定の感覚ではなく、人間存在に普遍的な何かである確率がそれだけ高まる。
となると、これは本シリーズ第1回に述べた原始仏教にいう「生苦」に近づいていく。「生きづらさ」を語らない人、すなわち「生きづらさ当事者」でない人というのは、「生きづらさ」がないのではなく、節度と忍耐力があるから「生きづらさ当事者」をわざわざ自称しないにすぎない、という可能性が高まっていく。
貴戸はそのあたりのことについて、「生きづらさ」をギデンズのいう存在論的安心の欠如の ”日本的な” あらわれと位置づけることで止揚し、「生きづらさ」は普遍か特殊かという問題に答えを出そうとしているように感じられる。
人生不如意
しかし実際には、日本以外のひきこもり当事者にも「生きづらさ」の感覚はけっこう容易に共有されるのだ。
先日GHO(*2)で台湾のひきこもり当事者と対話していたところ、彼も同意見で「生きづらさ」に関して名訳を出してくれた。
*2. GHO 世界ひきこもり機構
https://www.facebook.com/groups/Global.Hikikomori.Organization
自動翻訳などでは「生きづらさ」は中国語で「生活困難」などと出てくる。だが、これでは英語の living difficulty と同じで、経済的な苦しさを指しているのにすぎず、「生きづらさ」の訳語としてはいささかズレている。
ところが彼は、「生きづらさ」を「人生不如意」と表現した。逐語訳ではないものの、これは中国語を知らない人でも一目で名訳だとわかるだろう。
意の如くならざること。人生が思うようにいかないこと。不全感が拘束具のように自身を締めつけてくる感覚。泥水のような重い液体を泳いでいるような感覚。自我理想と自我現実のあいだの乖離の空間が次第に密度と重量を帯びて手足の動きを奪ってくるような感覚。……それが「生きづらさ」として感じられるものではないか、というわけだ。私は納得した。
たとえば私は、他の人々とのコミュニケーションに関して、
「空気を読むな、ちゃんと言語化しろ」
と言われているのに、いざちゃんと言葉にして質問すると、
「空気を読め、そんなことは言うな」
ということを言葉でなく空気を通して伝えられてこられたりすると、つくづく「生きづらさ」を感じる。
また私は不器用でマヌケなので、ハイネックのような服を着るときに首をつっこんだはいいものの、どこから首を出してよいかわからなくなり、服の中の暗闇で独りぬいぐるみのように
それは「恐怖」とはちがう。たしかに、そういうことが積もり積もれば恐怖にもなるが、どちらかというとそれは極端な場合だ。だから私自身が「生きづらさ」という語に覚える意味は Angst よりも「人生不如意」に近い。
生きづらさ概念の拡大
貴戸は、「生きづらさ」とは「個人化した『社会からの漏れ落ち』」であると定義する。
本シリーズ第1回に書いたように、「生きづらさ」という語が登場した1981年には、そこに健常者と比べたときの障害者の生活上の不便といった意味がこめられていた。それが時を経るに従って客観的に障害者と見えない人が生活のなかで覚えている不便や、健常な人が人生のなかで覚える不全感などを含むようになっていったと思う。
客観的に障害者と見えなくても実際にはそうである方はたくさんいる。「生きづらさ」が含む範囲が大きくなったのは、そういう障害者の方々を「生きづらさ」を訴える資格を持つ者に加えていったからであろうか。
いや、私にはそれが主な理由ではないように思われる。やはり時代の流れとして、障害者であろうとなかろうと、「生きづらさ」が認められる範囲そのものが広くなってきたからではないだろうか。
もはや「生きづらさ」は障害者の専有物ではなくなったのだ。
就職氷河期を経て2000年代以降に日本人の人生がそれまでに増して多様になったり、あるいは東日本大震災を経て2010年代には以前の社会的概念では掘り起こされなかった生活上の問題点に光が当てられたりするたびに、「生きづらさ」はその領域を徐々に広げてきた感がある。
私はこれを「生きづらさ」概念の拡大と呼びたい。拡大が行き着く先は、誰もが感じていて、まるで空気のように表立っては見えないけれど普遍的に漂っている感覚となる。すると、これもまた原始仏教にいう「生苦」へ向かうのである。
自認がもたらす問題点
貴戸の「生きづらさ」の定義のなかで後半の「社会からの漏れ落ち」という部分を考えてみよう。
「生きづらさ」を語るための当事者会はたくさんあるが、そこには、たとえば社会の主流秩序に乗っかって、世間から信用を博する(いわゆる「立派な」)職業について、収入や貯金がタンマリあるなど、とうてい「社会からの漏れ落ち」には見えない人々も現実には多く参加している。
そういう人々がなぜ参加するのか。それは、やはりそれぞれ「生きづらさ」があるからだろう。彼ら彼女らは自分が「生きづらさ」を持っているという事実を他の人たちに認めてもらいたいし、また「生きづらさ」を通じて他者と連帯したいと思っている。
ところが、ここに問題がある。
客観的に「社会からの漏れ落ち」に見えない人々というのは、概して経済的生産性が高い。つまり「お金のある人」だ。
こういう人々にとっての「生きづらさ」は、経済的生産性の低い人(「お金のない人」「働いていない人」など)を直接間接に養わなくてはならないという負担から生まれていることも多いので、生産性の高い人と低い人が「生きづらさ」を通じて連帯するというのは、言葉の上では可能であっても、実際には利益相反が起こって容易ではないのだ。
「直接間接に養う」とは、たとえばこういうことである。
「直接」であれば、生計を一にする家族(ひきこもりとその家族など)では、働いている家族が働いていない者を養わなくてはならず、そこに摩擦が起こる。
「間接」とは、たとえば私のように家族がいなくて生活保護を受給している者を、旺盛に働いて稼いで多額の所得税を納めている方々は、心のどこかで面白くなく思っていることだろう。いくら「生きづらさ」があるという点では共通しているとは思っても、また、いくら口では「生きづらさで連帯する」などと言ってみても、「自分の払った税金の一部でこいつを喰わせてやっているんだ」と思うと心中穏やかではないはずだ。人間だもの。
いっぽう、経済的生産性の低い人は経済的生産性の高い人が「生きづらさ」を標榜しているのを見ると、時としてムカついていることがある。
何も古典的な階級闘争とやらを語ろう、というのではない。
ここでは「生きづらさ」に限らず、「アダルト・チルドレン」などを含め、自認によって意味が決定される概念につきまとう問題が生じる、ということを申し上げたいのである。
「生きづらさ」が自認で決まる概念である以上、本人が「私には生きづらさがある」といえば、その人が「社会からの漏れ落ち」であるかどうかはもはや問われることすらない。そういう現実を踏まえると、「生きづらさとは、社会からの漏れ落ちである」という定義は、はたして定義として有用だろうか。
もしかりにそういう当事者会への参加者が、
「私は立派な職業に就いているので『社会からの漏れ落ち』ではないかもしれない。でも『生きづらさ』があるから『生きづらさ当事者』です。私の生きづらさを聞いてください」
といって話し始めたとき、他の参加者たちの耳にはどう
貴戸の定義の前半「個人化した」という部分は、生きづらそうに見えない「生きづらさ当事者」たちをすくい上げる働きをしているかもしれない。しかし、この定義はいくつもの問題をはらんでいると思われる。
便利な語としての「生きづらさ」
「生きづらさ」概念が拡大してきた背景には、居場所と呼ばれる空間の主催者たちが「障害者」「子ども」「生活困窮者」など既存のワードでは救いきれない「困っている人」を救いきるべく、わかりやすい語である「生きづらさ」を用いているということがあるだろう。
しかし「わかりやすい」ということは、それだけ厳密性を欠き、曖昧でツブシが効くということでもある。「生きづらさ」のように意味する範囲が漠然として広ければ、その語の持つ記号性もまた何にでも使える便利なものとして重宝される。
昨今では居場所と呼ばれる空間の主催者たちも、たとえば補助金や助成金の申請を通すために、殺し文句のパワーワードとして「生きづらさ」を多用するようになっているのではないだろうか。
助成金の申請書には「生きづらさを解決するための居場所」などと書きさえすれば通る、などということをスキルとして持っている書類上手の団体もいるのではないか、などと私は邪推したくなる。
「生きづらさ」概念の拡大にともなって、このような「生きづらさ」のインフレが起こっており、「生きづらさ」の意味が際限なく広がりつつあるのではないか、と私は危惧しているのである。
「生きづらさ」を考えるイベントへのご招待
私のこのような「生きづらさ」に関する思索はまだ続いていくのだが、ひきこもり界隈の他の皆さまにご意見を伺いたいので、9月に「生きづらさ」に関してイベントを2つ開催させていただく。
1つめは9月7日に行なうオンライン対話会「4D(フォーディー)」である。
もし「生きづらさ」とは何かについて関心はあるけど、東京まで遠くて行けないという方はぜひこちらにご参加ください。
詳細ページは https://hikipla.com/events/2359
参加申込みは https://bit.ly/3RxFHLn
2つめは、9月29日(土)に東京・練馬でリアル開催する
秋の空シンポジウム「私たちの生きづらさの正体って何だ?」
である。
当日は会場の皆さまにも積極的にご発言いただける進行を考えております。
「生きづらさ」に関してご関心があり、会場参加ができる方はふるってご参加ください。
いずれも「意見のちがいは楽しむもの」をモットーにしております。
言論の自由を尊重できる方のみ歓迎です。
詳細ページ https://hikipla.com/events/2310
参加お申込み https://bit.ly/3RxFHLn
・・・いまさらだけど「生きづらさ」の正体って何だ 第6回へつづく
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOTの公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
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