
インタビュー&構成・ぼそっと池井多
以前から私は、ピアサポートという行為に大きな関心を寄せるとともに、多くの疑問も持ち合わせていた。
「ピアサポーターという資格を取ったら、その時点で一般の当事者より一段上に立ってしまって、『ピア』にならないのではないか。
ピアサポートは制度化すると同時に成り立たなくなるのではないか」
などと懐疑的だったのである。
高知県では行政がピアサポートを強力に後方支援していることが、遠く東京に住む一人のひきこもりである私の耳にも聞こえていたので、いずれ機会があればぜひ見学させていただき、実際にそこでピアサポーターとして活躍している方々のお話を聞いてみたいものだと願っていた。
2024年5月末、その機会が訪れ、私は高知市の中心部近くにある高知ピアサポートセンターにおじゃました。
その時の探訪と、それを補って後日おこなったオンラインでのインタビューを2回シリーズに構成してお届けさせていただく。
第1回の今日は、同センターに登録しているピアサポーターの中からインタビューに応じてくださった石川佑太さんと島崎健一郎さんにピアサポーターになるまでの当事者体験を語っていただくことにする。
頭の整理がつかなくなって動けなくなった
ぼそっと池井多 石川佑太さん、ピアサポーターとして活躍するようになるまでのあなたのライフストーリーを教えていただけますか。
石川佑太 はい。
遡って考えると、周りの人々との基本的なズレみたいなものを、中学校のころからずっと感じていました。それがいよいよ顕在化したのは県外の専門学校に通っていたころでした。
人々とのコミュニケーション、学校のプログラムの取り方が複雑になったことで頭の整理がつかなくなって、ストレスがたまって、主体的に動くということができなくなってしまいました。それで人間関係も含めてあらゆることが行き詰まりました。
でも、自分が感じているのがいったいどういう苦しみなのか、理解も説明もできませんでした。
ぼそっと なるほど。私も23歳でひきこもり始めたときには、そんな感じでした。就職、人生、いろいろなことを考えなくてはならず、頭の整理がつかなくて動けなくなってしまいましたね。
それで、石川さんの場合はどうされたのですか。
石川 精神科へ行って、睡眠薬を処方してもらったんですけど、それで自殺未遂みたいなことをやってしまいました。でも、嚥んだ薬の量がぜんぜん致死量に足りなくて、さんざん暴れるだけで終わりました。見苦しかったことでしょうが、あれはあの時の自分なりの表現だったのだと思います。あの時はあれしかやりようがなかったのです。
ぼそっと そういうふうに過去の自分を肯定するのって大事ですよね。そういう状態になって、専門学校は続けられたのですか。
石川 「そんなにつらいのなら専門学校もやめよう」ということになって、やめて高知に帰ってきました。
今から考えれば、実家に帰ってきたときに、もっとちゃんと休めばよかったんですよね。でも、親もふつうの親で、
「何もしていないでどうする。働け」
というし、ぼくも働かないという自分の状態に焦りがあったので、アルバイトを始めました。
でも、たちまち無理が来て、一か月後には今度は薬理的な成分のことまでちゃんと調べて、致死量もしっかり計算して、それに見合った薬を入手してオーバードーズしました。その結果、2日のあいだ昏睡状態が続きましたが、その間に病院に運び込まれたようで、なんとか命は助かりました。
ぼそっと それは大変でしたね。自殺未遂をすると、それが転機になったという経験者の方がよくいらっしゃいますが、石川さんの場合はいかがでしたか。
石川 そうですね。ぼくの場合も、それから医大の精神科にちゃんと通うようになりました。
ぼくの世代では発達障害という概念がまだあまり浸透していなかったので、そこでは統合失調症と誤診されてました。それで、いろいろキツい薬を処方されて、それを嚥んで副作用が出て、「なんかおかしいんじゃないか」と思っているうちに2、3年が経ちました。
やがて県外の病院へセカンドオピニオンを取りに行ったら、今度は強迫性障害と診断されました。
ぼそっと そのころが、ずっとひきこもりの日々だったわけでしょうか。
石川 そうですね。ひきこもっていた時期の記憶は曖昧でよく憶えていないんですけども、寝逃げしている時間が異様に長い日々が続きました。寝てばかりいて、夢なのか現実なのかわからない時間ばかり過ぎていって、その年月は記憶らしい記憶がほとんどないんです。
ぼそっと お友達はいましたか。
石川 気にかけてくれる友人はいたんですけど、ぼく自身が自分の状態をまだ客観的に見られていなかったので、友人など周りと自分を比較して、「自分はもうダメなんだろうな」と諦めみたいなものが先だって、卑屈になっていました。
「夜を撮る」が外に出るきっかけ
ぼそっと 外出することはありましたか。
石川 夜に外に出ることはあったんですけど、外出が社会参加につながることはありませんでした。
でも、変化が訪れたのは、親が祖母の遺産からぼくにデジタルカメラを買ってくれて、そのカメラで夜な夜な夜の風景を撮りに出かけるようになってからでした。
ぼそっと ほう、夜の風景を。
石川 夜の光を捕らえるために、三脚を立てて夜景や夜の街並みをずっと撮っていました。夜を撮るために、夜じゅうずっと8時間ぶっ通しで歩いていたこともありました。

ぼそっと おお、これがそのころ撮影した作品の一枚ですね。たしかに夜の光をとらえようと懸命になっている情熱のようなものが感じられます。
石川 何かをしたかったのでしょう。でも何をすればいいかわからない。そんな中でひたすら夜の風景を撮っていたのです。
でも、それで「喰っていく」ことはできません。
そのころ母親が高知の家族会である「やいろ鳥の会」につながって、そこで紹介を受けて、香川のポレポレ農園という所へ、いま高知県ピアサポートセンターのセンター長である坂本勲さんと一緒に行きました。ポレポレの松田先生という方に「君は発達障害だね」といわれて、それで初めて発達障害という概念を知り、それがきっかけでいろいろなことがわかり始めました。
ぼそっと どういうことがわかってきたのですか。
石川 「自分がこういう人間だ」ということ、またそれを否定している自分もあったりとか、自分を俯瞰している自分をそのまま冷静に置いておけないとか、安定せずに妙に無理してみたりしている自分とか、いろいろな自分の側面ですね。
いま思えば、あの時わかりだしたものというのは「生きる意味」という言葉でまとめられる気がします。ぼくは承認欲求ばかり強かったのですが、それは自分に「生きる意味」をなくしていたせいではないか、と今は思っています。
ぼそっと 承認欲求ばかり強かったのは「生きる意味」をなくしていたせい。……うーむ、なかなか含蓄の深い言葉ですね。
石川 まあ、それくらい自分はつらかったんでしょうが、そのつらさとともに生きていくだけの意味というものが自分の中になかったのだろう、と思います。
十年かけてピアサポーターになった
ぼそっと ピアサポートという活動に参加するまでにどのくらいの年月が経過したのでしょうか。
石川 10年です。
ぼそっと ピアサポーターとして正式に登録されたのはいつですか。
石川 2020年です。だからピアサポーターになってからは4年ですね。
年齢のせいかもしれませんけど、最近は人の話を聞くときもだいぶ落ち着いてきたように思います。
ちょうど「あの時の自分」というものが今の他者のなかにいて腑に落ちていく、というような感覚です。何か苦しい思いをしながらも落ち着いてきている、という感覚ですね。
ぼそっと 石川さんにとってピアサポート活動とはどんなものですか。
石川 ピアサポート活動は、いまお話ししてきたような自分の体験を活かしながら、他の人の話を聞けるという貴重な活動です。やはり他の人の話を聞けば、
「あのときの自分はそうだったかもしれない」
とか考えますしね。
ピアサポート活動のなかで、自分の過去のいやな記憶を呼び起こされて、嫌な思いをすることもあれば、逆に「話を聞いてくれてよかった」とか相談者さんに言ってもらえたときは嬉しくて、
「過去にいやな体験をした甲斐があった」
と思えることもあります。
そんなふうにピアサポート活動から得られるものは、しんどい部分とうれしい部分と両面ありますね。

両親の離婚から不登校に
ぼそっと池井多 それではもう一人、ピアサポーターとして高知で活躍されている島崎健一郎さんにお話をうかがいます。島崎さんの場合はどのような半生を送ってこられましたか。
島崎健一郎 ぼくは12歳のときに親の離婚をきっかけに不登校が始まりました。当時はまだ登校拒否といっていましたが。
ぼそっと ご両親が離婚したことが、どのように不登校につながったのでしょうか。
島崎 親が離婚したために引っ越さなくてはいけなくて、それで転校したら、環境がガラリと変わってしまったので学校に行けなくなってしまったのです。それがぼくの不登校の始まりでした。
離婚するときに親から、
「もし転校するのがいやだったら、県外に刑務所みたいな寮の学校があるから、そこへ行くか」
と脅されて、
「そんなくらいだったら転校する」
としぶしぶ承諾したんですが、新しい学校へ行ったらあまりのストレスのために教室で倒れてしまって、保健室に運ばれました。
保健室に、今でいうスクールカウンセラーみたいな人がいて、その人に何か絵を描かされて、それを見て「あなたは保健室登校にしましょう」と言われました。
ぼそっと 保健室登校はどのくらい続いたのですか。
島崎 中学1年生から中学校の終わりまでずっと保健室登校をしていました。中学校を卒業したあと、高校はふつうに3年間通って卒業しました。
ぼくが高校を卒業したころは、ちょうど就職氷河期と呼ばれていた時代なので、正規の社員にはなれず、アルバイトをしながら3年間生活していました。
ぼそっと 中学校の不登校からそのままひきこもりに移行したわけではなかったのですね。いわゆるひきこもりはいつぐらいから始まったのですか。
島崎 アルバイト生活をしているうちに、一緒に住んでいた母親がうつ病になってしまって、面倒を見なくてはならなくなり、そこから自分の人生がどんどん変わっていきました。いまでいうヤングケアラーですね。
母親がやっていた店を経営しながら、それで自分のアルバイトもしながら、病気の母親の面倒を見る、という生活になりました。とても友達と遊ぶ時間など取れませんでした。
母親のケアをするだけの人生
ぼそっと 年齢的にはどのくらいの時期ですか。
島崎 ぼくが22歳から36歳までです。
その間に、母のお店がうまく行かなかった時期もあるし、それでたくさんお金を借りてしまったこともあるし、いろいろな経験をしました。また母がアルコール依存症になったり、自殺未遂したりして、そのたびにぼくには大きな負担がかかってきましたが、何とか持ちこたえていたのです。
でも、そんな自分の姿を他人に見られたくないという気持ちがあったので、友人たちからはどんどん遠ざかっていきました。
ぼそっと ずっとお母さまのために、若い時代の人生の時間を使ってこられたのですね。
島崎 ええ。今でも当時をふりかえると、その年月は母親の面倒を見ていたという記憶しかありません。
ぼくが30歳になったころには、もう孤独ではなくて孤立の状態になってしまって、連絡の取れる友人は一人もいなくなっていました。いっぽう母親は毎日のように酒を買ってきては酒を飲んで、そのあとよく自殺未遂をしていました。
ぼくは夜中に母親を抱いて公園をうろうろすることがよくありました。そういう時に、ぼくと同年代の人たちが楽しそうに公園を通りかかるのを見ると、
「同じ年ごろなのに、この人たちの住んでいる世界はぼくとは全然ちがうんだ」
という事実を突きつけられる思いがして、絶望しました。でも、どうにもなりませんでした。

ぼそっと お母さまはずっと酔いつぶれている状態だったのですか。
島崎 そういうわけではありませんが、母が正気のときには、逆にぼくに何もすることがなくて困っていました。母の面倒を見なくてもよい時間がスポットのように訪れたのだから、そこで何か自分自身のためにやればいいと思われるかもしれませんが、突然そんな時間がやってきても、ふだんの生活が母親の面倒を見ることで成り立っているので、今さら自分のために使えないのです。
ぼそっと なるほど、それはわかるような気がします。私たちの生活って、大部分は習慣からできていますものね。それで島崎さんはずっとそういう生活が続いていったのでしょうか。
島崎 35歳のときに、だんだん齢を取ってきたせいか、ある変化が起きました。
買い物の最中に精神症状として解離してしまって、身動きができなくなって、気がついたら家のベッドに倒れていたんです。自分で帰ってきたはずなのに、その間の記憶がまったくありませんでした。
このときから自分の意識で何かをするということができなくなってきて、苦しくなってきて自殺未遂をしました。そのことをきっかけに、2016年にひきこもり地域支援センターという所につながりました。そこ経由で居場所につながったのです。
ぼそっと それで、居場所では初めてご自分と同世代の方々とつながったわけですね。
島崎 ええ。でも初めは話が合わなくて大変でした。たとえば、他の当事者の方に「ふだん何をしてるんですか」と訊かれたときにはとても困りました。
ぼそっと なぜ困ったのでしょう。
島崎 その人は、
「あなた、自分の時間というものがあるでしょ。そのとき何をしてるんですか」
という意味で質問していたのです。でも、ぼくはそれまで14年間、母の面倒を見るのが人生で、自分の時間というものがまったくなかったので答えられなかったのです。
ぼそっと そうですか。居場所につながって以降は、お母さまの面倒から離れて自分の時間を見つけられるようになりましたか。
島崎 それから自分の時間というものを居場所で過ごすことになったのですが、じつは今でも「自分の時間」って何だかわからない部分があります。
ぼそっと ひきこもり地域支援センターの方では、その後どのようなことになりましたか。
島崎 「行ける所を増やしていきましょう」ということで、医療機関や高知県の家族会である「やいろ鳥の会」を紹介されました。そういう所で現在いっしょにピアサポーターとして活動している仲間に出会いました。
ぼそっと お母さまの面倒を見るだけの毎日で周囲から孤立していた時期からすると、大きな変化だったでしょう。ご自分ではどんなことが変わったと思いますか。
島崎 そうですね、そうやって人々につながっていくと、まず「死ぬ」ということができなくなっていくんですよ。たとえ死にたい気持ちに駆られても、いろいろな人の顔が思い浮かんで自殺するということができなくなっていきました。
ぼそっと それはとても大事なお話ですね。
ネガティブな感情の出し方を習得する
ぼそっと ピアサポーターには、どのようになっていったのでしょうか。
島崎 ひきこもり地域支援センターにつながって3年後、2019年に「障害者枠で働きませんか」という声をかけられて、県の研究所のテレワークをやってみることになりました。2020年1月に研修を受けて、いざ始動というときににコロナが始まって、研究も何も頓挫して、振り出しに戻ってしまったのです。
でも、そのときに「やいろ鳥の会」の方から「ひきこもりピアサポーターになってみませんか」というお話が舞い込みました。
ぼそっと その時はどう思われましたか。
島崎 ぼくは自分が相談に行っても、自分というものを出すことができなくて、自己開示ができない人間でした。
それができるようになったのは、このピアサポーターの研修で、不登校の支援をしているはまゆう教育相談所の所長さんである横田先生という方に出会ってからです。ぼくにとって「意味ある他者」(*1) になるこの方に
「あなたはネガティブな感情を出せなくなっているんじゃないですか」
といわれました。
*1. 意味ある他者(significant others) :親、伴侶、友達、先生など個人の自己概念に強い影響力を持つ他者(たち)のこと。重要他者。1953年に「精神療法は対人関係論である」で有名なアメリカの精神科医サリバンが使用したのを嚆矢とする。
言われてみれば、ぼくは母親の面倒を見てきた時に怒りとか不安とかネガティブな感情を出したことが一度もなくて、そもそもそういうものの「出し方がわからなくなっている」状態になっていることに気がつきました。
ぼそっと池井多 それまでは、怒っている時はどうしてきたのですか。
島崎 怒りも、暴れるとかそういう出し方はできるんだけど、小出しにちょっとずつ出すということができなかったのです。感情も、ちょっとずつ話すということができなくて、感情のダムが決壊するほど溜めこまないと話せない。
それをちょっとずつ話していくためには、いろいろな所でピア活動をしながら、いろいろな人の話を聞いて他者理解と自己理解を深めながら自分のことも話すようにすればいいんじゃないか、ということになりました。
それで2021年7月にピアサポーターになったのです。
・・・高知ピアサポートセンター訪問記 第2回へつづく
高知ひきこもりピアサポートセンター

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(但し 休日, 12/29 - 1/3 を除く)
☎ 088-881-6301
✉ soudan@kouchi-piacen.org

<インタビュワー>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOTの公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
YouTube 街録ch 「ぼそっと池井多」
Twitter (X) : @vosot_ikeida
Facebook : チームぼそっと(@team.vosot)
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