ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

フランス人ジャーナリストから見た日本の活動系ひきこもりたち。

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文・コンスタンティン・シモン
訳・ぼそっと池井多

 

 

 

 

謎の人々

「ヒキコモリ」...

その単語は、まず僕を魅惑した。奇妙な、エキゾチックな響き。謎の語源。翻訳しようとする時の難しさ。フランスの代表的劇作家モリエールの言葉たちがとつぜん色褪せたみたいだった。隠遁者? 世捨て人? 自発的亡命者? どの訳語もあてはまらない。ある語を翻訳しようとして行き詰まるときは、僕たちは必ずといってよいほど、何か複雑な概念に近づいているのだ。

2018年3月末、フランスのテレビ局フランス24の特派員として拠点を日本に移した僕は、最初の取材テーマとしてひきこもりを選んでいた。それまでに僕は、ひきこもりに関するいくつかの報道を読んでいた。僕自身はむしろ「社会的な」人間なので、社会から撤退したように言われている、ひきこもりと呼ばれる人たちが、いったい何を考えているか知りたかった。いくつかの団体に連絡をしたところ、あなたたちの雑誌「ひきポス」を教えてくれ、すぐさま僕はコンタクトを取らせてもらったというわけだ。

4月、僕はあなたたちの編集会議に招待された。そこで僕は圧倒されたのだった。

それまでメディアによって、部屋の中にとじこもって世界から断絶していると描かれる、ひきこもりの人たちが、部屋から出て、外出し、見本誌のページをめくり、記事の内容について、使う語のニュアンスについて、小見出しについて、編集者と意見を交換するべく、細かく議論しているのだった。僕は、そこで話されている日本語はわからなかったが、すぐにそこが本当の編集のための会議の場であることを知った。

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僕はまた、雑誌の表紙の女の子のイメージに惹かれた。それは、この雑誌の精神をよく表していて、雑誌を手にする者にそのままページをめくりたいという欲望を抱かせ、雑誌の中身に展開される小宇宙へ飛びこみたい、この女の子の謎を知りたい、という気にさせるのに十分なデザインだった。

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彼女の雑駁な着こなし、無関心そうな姿勢、コートの中に「ひきこもった」姿が、「ファッション」として成立していた。むしろ逆説的に、彼女は有名ブランドの広告に登場していても不思議ではなかった。彼女のニヒリズムはじつにおしゃれであり、彼女のカメラへ向けた視線は挑発的だった。

僕は、彼女は本当にひきこもりかモデルかと聞いた。すると、この表紙はプロのモデルと写真家を起用しているとのこと。へえ、いったいいつから「ひきこもり」がプロを雇うようになったんだ?

僕はおおいに彼らに魅了されたが、それと同時に、洗練され、水準の高い、この彼らひきこもりたちをどう捉えて良いかわからず、少しばかり頭がおかしくなりそうだった。彼らの中には、愚か者も、非社会的人間もいなかった。彼らの中には、「そとこもり」としてあちこちを旅したために、私の母語、フランス語を難なく話す者さえいたのである!

編集会議の後、「隠遁者」たちは僕をレストランでの夕食に招いてくれた。それは温かく誠実な雰囲気に満ちていて、最高の時間だった。彼らは、恥ずかしがることなく率直にいろいろなことを語ってくれた。これは、日本では稀なことなのである。

 

ひきこもりによる社会批評

僕は「ひきポス」編集部のメンバーたちに、ある種の親密さを感じた。 僕を彼らに近づけたものは、ひと言でいえば批評的地平と継続的不満である。フランスでは、批判は、じつはサッカー以上に国民的なスポーツなのだ。僕たちフランス人は挑発し、競争するのが好きだ。既存のシステムを拒否し、政治について話し、もっと幸せで効果的な、もう一つの社会を想像することが好きなのだ。

すべてのひきこもりが社会全体を拒否しているわけではない、ということはわかっている。しかし、確かにひきこもりの中には、社会の何かに反発しているものを感じる。

人を型にあてはめる社会。同調圧力。そういうものに異議を申し立てようとしているのが、僕が今日、「秘密の社会」と呼んでいるひきこもりのコミュニティだった。あるいは「対抗社会」「もう一つの社会」というべきか。なぜならば、僕も同調圧力は大嫌いなのだ。

僕は、自分がひきこもりでないことに満足している。ひきこもりであることの苦しみもかなりわかるつもりだけど。それでも、ひきこもりがこの社会に存在していることがなぜかうれしい。既成の秩序に満足することを拒否している人々、今の社会の在り方を疑問視している人々が存在することはうれしいのだ。

 

ひきこもりを映像に撮る僕の考え方

はっきり言ってしまうと、活動系のひきこもりジャーナリストたちと出会ったことは、僕の撮影取材をもっと複雑にしたのだった。他のたくさんのメディアのジャーナリストと同じように、僕の目標は、家から出られないひきこもりが部屋の中にいるところを映像に撮ることだった。僕が具現しているこの世界を見たくないと拒否しているひきこもりを。

僕は、これが紋切り型の報道だとは思わない。僕は、ひきこもりが独りでいる所を撮りたかった。男性だろうが女性だろうが、若かろうが中高年だろうが、かまわない。家族と住んでいようが、独り住まいであろうが、かまわない。マンガを読んでいようが、ビデオゲームをやっていようが、ブログを書いていようが、何もしていなかろうが、何でもいいから、僕はひきこもりが部屋にいる所に到達したかったのだ。なぜならば、それがひきこもりに関するすべてが始まる出発点だと思うから。人は、自分の部屋に帰ったとき、誰しもひきこもりになるものではないだろうか?

たとえば、NHKだったら、ひきこもりについて放送するとき、もはやこうした内容は提示する必要がない。なぜならば、NHKはこれまで30年も、ひきこもりについて知らされてきた日本の視聴者を対象としているからである。ところが、僕がつくる報道の視聴者の大半は「ひきこもり」という言葉さえ聞いたことがないのだ。となると、いちばん良い報道は、自分の部屋にひきこもっている時の僕自身を写すことかもしれない。

あなたたち「ひきポス」編集部の中には、このような僕の逡巡を、(とくに西洋の)ジャーナリストが持つ強迫観念のように見ている人がいるだろう。このようなことは、ひきこもりが持つ複雑なアイデンティティをばっさりと単純化してしまう仕業であり、ステレオタイプなひきこもり像の報道なのだ、と。でも、僕にとっては、これはほとんどコミュニケーションや情報伝達の問題であって、編集上の作為や政治的な選択ではないのだ。

いずれにせよ、人にはさまざまな立場があり、互いに相容れない時もある。そして、それこそが、僕がこの6ヵ月もの間、たくさんのひきこもりたちと会話をして感じたことだ。経歴の多様性。独りでいないでほしい。この記事が、すべてのつながりを失った人たちとのつながりを取り戻すのに少しでも役に立ってくれればと思う。

 

 

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