インド亜大陸から帰ってきた時の筆者
文・写真 ぼそっと池井多
理解されないそとこもり
23歳でひきこもりが始まった私は、意図したわけではないのだが、その時々に応じて「ひきこもり方」が変転した。
なかでも、ひきこもりに縁のない人たちから理解されないのが「そとこもり」である。
「家の外でひきこもってました」
というと、
「それはふつうに社会へ出ていた、ということではないの?」
などといわれる。
「日本の外へひきこもっている時期がありました」
というと、
「それは国際的に活動していたということではないか」
などといわれる。
「ひきこもる」という動詞が「内へ」というベクトルを含むらしく、
「外へひきこもる」
という表現そのものが「ありえない」と考えられるらしい。
わざわざ遠くへ行くひきこもり
よく、ひきこもり当事者の中には、
「自分の町の居場所にはけっして行かない」
という人がいる。
自分の町では、顔を知られているような気がして、安心できないのである。
電車やバスに乗って、わざわざ遠くの町の居場所へ行くと、そこでは nobody (誰でもない人)になれるように感じる。
その安心が欲しいから自分の町の居場所へは行かないのである。
ところが、ひきこもりをよく理解していない人は、ここで疑問を抱く。
「え? それっておかしくないですか。
ひきこもりって、外が怖いから部屋から出られないんでしょ。
遠くへ出かけたら、よけい怖いじゃないですか」
しかし、ひきこもりが恐れる「部屋の外」は、外の空気ではない。
恐怖の対象は、ほとんど他者の目に集約される。
もし、その他者が自分のことを知っていれば、怖さは倍増するのだ。
となると、近所ほど怖い外はない。
部屋を出て、近所を通過して、もっと遠くへ行ってしまえば、そこでは自分を知っている者とは、まず出会うことがない。
わざわざ遠くの居場所へ行く心理は、「そとこもり」の始まりの段階を示しているように思われる。
根本原理が周囲とちがう
幼いころから私は、自分と、自分を取り巻く周囲が、何か根本的な段階から違っている、という感覚を持っていた。
それは、「周囲と違って、自分だけえらい」といった幼児性のナルシズムとは別物である。
どちらが上だ下だということなく、ただ「違う」のだ。
私が望むものと、周囲が望むものはいつも違っていた。しかし、周囲が望んでいるものを、私も望んでいるという前提で行動しないと、あれこれ厄介な事態を招くのであった。
だから、仕方なく私も、周囲が望んでいるものを自分が望んでいるふりをした。
それで厄介な事態は回避されたが、そのぶん揺り戻しがあって、生きているのがつらくなった。
周囲との根本的な違いから、私は自分がこの国の人間ではないように感じていた。
逆にいうと、「自分はこの国の人間ではない」と考えると、すべては説明がつくのである。
しかし、
「それでは、お前はどこの国の人間か」
と問われると、答えがないので困っていた。
「在日になりたい」
何も勉強しないまま大学生活を送っていたのに、大学3年になると専攻を決め、ゼミに入らなくてはならなかった。
そこで、とくに勉強をしなくてもゼミに置いてもらえる科目を専攻した。
こうして私が師事することになった主任教授は、1960年代から70年代にかけて在日コリアンの人たちの権利擁護のために奔走した知識人であった。
私は、主任教授が何を専門とし、どんな活動をしてきたかも知らずにそのゼミに入ったので、そういったことは後から知った。
主任教授は何かというと必ず在日コリアンの味方となった。
それが彼の社会的に選び取った立場であったからであり、それが彼の哲学なのであった。
小松川事件(*1)、金嬉老事件(*2)のように、たとえ殺人のようなことをしでかしても、犯人が在日の人ならば、先生は同情的な言葉しか吐かないのであった。
*1. 小松川事件 昭和33年、東京都江戸川区で在日朝鮮人だった18歳の少年、李珍宇が起こした無差別殺人事件。彼は戦後20人目の少年死刑囚となり、最後には自分の責任を真っ向から認めて死刑に処せられた。
*2. 金嬉老事件 昭和43年、静岡県を舞台に在日韓国人二世だった金嬉老が起こした、殺人・籠城監禁事件。彼は日本で服役後、韓国で一生を終えた。「殺人を民族問題にすりかえた」などとして未だに評価が定まらない事件である。
だから私は「在日」という存在に嫉妬した。
先生の同情的な言葉は、自分にかけてほしかった。
育ってきた家の中に父親はいても「父」がいなかった私は、主任教授に「父」を期待してしまったのである。
私は自分の生きづらさを、この「父」たる主任教授に理解し、受容し、承認してもらいたくて仕方なかった。
私はひそかにこう考えていた。
「ぼくが在日コリアンじゃないから、先生はぼくの苦しさには見向きもしてくれないんだ。もしぼくが在日ならば、先生はぼくの生きづらさを認めてくれるだろう」
そこで私は、
「在日になりたい」
と願ったのである。
在日になれば、「自分はこの国の人間ではない」という幼いころから抱いてきた違和感も、それによって根拠を与えられ、私の中で正当化され、他の人にも説明できるはずであった。
社会的に考えれば、これはとんでもない願望だったということになるだろう。
得てして人が心のうちに秘めている願望とはとんでもないものだが、朝鮮半島にかかわることとなると、とかくセンシティブにならざるをえない日本社会では、特にとんでもない願望になったはずである。
在日コリアンに関する歴史的な知識を何一つ持たず、知識人からの同情や庇護を欲するがあまり「在日になりたい」と願うのは、当事者、つまり在日コリアンの人たちから見れば、
「まったく自分たちの現実をわかっていない、けしからん奴」
ということになったと思う。
しかし、社会を知らない私という若者の中では、「在日になりたい」という感情が燃えるような真実だったのだ。
異邦人になりたければ異邦へ行け
これらのことが、私が二十代の歳月のほとんどを「そとこもり」で過ごした理由につながっていく。
もっとも、こうした理由は歳月が経ってから初めてわかってきたことで、当時は全くわからなかった。
考えてみると、幼いころから抱いてきた、
「自分と、自分を取り巻く周囲が、何か根本的なところから違っている」
という違和感は、そもそも
「自分と周囲は同じはずである」
という前提から始まっている。
「同じ」と決めつけられるから、「違う」と感じるのである。
もし、逆に初めから「違う」と決めつけられたら、「同じ」点を訴えるだろう。
なぜ「同じ」であると決めつけられるのか。
それは、大人たちによって
「同じ日本人だから」
と説明されるのだ。
たとえば在日コリアンであったり、在留外国人であったり、ともかく異邦人であれば、日本に住んでいてもその説明は適用されない、と当時の私は考えた。
異邦人であれば、その人の独自性は正当化される、と考えたのだ。
そこで私は、私の独自性を周囲に承認してもらい、より「生きやすく」生きるために、異邦人になりたいと願ったのだった。
ところが、私の家系は何代さかのぼっても日本人ばかりであった。
では、私は永久に異邦人になれないのか。
それは一つの絶望であった。
それは私が「自分であること」を他者に承認してもらえないことに等しかった。
解決するのに、答えは一つしかなかった。
私が異邦へ行ってしまう、という答えである。(*3)
*3. 人が一つの行動を起こす時には、いくつかの理由が掛け合わさる。私が海外へ行った理由は上記のこと「だけ」ではない。その他の理由については、「ひきこもり放浪記 第4回」をご参照のこと。
日本の中でのひきこもり生活が行き詰った二十代の私は、こうして異邦へ逃げ、アジア、ヨーロッパ、アラブ、アフリカなどの各地でひきこもりをつづけた。
いうまでもなく、異邦はどこでも私を異邦人として扱ってくれた。
周囲とちがうことをやっても、
「異邦人だから」
という特別控除枠が適用され、大目に見られ、行動は受容され、存在は承認された。
その環境がぬるま湯のように心地よかったために、私はほぼ二十代が終わるまで異邦で「そとこもり」を続けていたのであった。
しかし、そのような異邦人の特別控除を利用してひきこもっていると、自分の中にある真の問題と向き合えなくなるというデメリットがある。
三十路を迎えるころに、私は日本社会へ舞い戻ってきた。
それ以降約30年、いまだに私はひきこもりだが、今のところ異邦に移住しようと思わない。
むしろ、叩かれながらでも日本のなかでひきこもっていることを選んでいる。
よく、
「自分がひきこもっているのは日本の社会が悪いからだ」
というひきこもりの方がいらっしゃるものだが、もしほんとうにそう思うのなら、異邦へ、すなわち日本ではない社会へ行ってしまうことをお勧めする。
言葉などは向こうで覚えればいいし、食べ物だって、しょせん人間が食べているものだから、どんな食事にも人は慣れるはずだ。
私の場合は、異邦へ行ったからといって「ひきこもりでなくなる」ということはなかった。
(了)
ぼそっと
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